菖蒲夜叉
天宮 翡翠
第1話 胎動
嗚咽さえ、漏れなかった。
何時だって霞のように漂っていた無力感さえ、もはやどうでも良くなるほどに、呆然とした。
天が零す涙は責め立てるように降りやまず、身体は死人のように冷えていく。
けれど目の前には、本当に僅かにも動かなくなった母の姿があった。
だから、自分が生きているのが可笑しくて、悲しくて。生きているのが、苦しい。
これは夢だ。鮮明に覚え、何十回も何百回も見た光景だけれど、どんな時であっても、情けなくぼやけた視界を介して、母に手を下した男の顔を見ることはできなかった。
ただ一つ、幼かった自分が理解できたのは、守れずに壊れたということだけだ。
「どうして……」
男が、僅かに視線をこちらへやった。その眼光は、鋭く恐ろしい。
誰のものかも分からない血がじわじわと着物を侵食し、庭の菖蒲も赤く染め上げる。
「どうして、そんな顔してるんだよ……?」
痛む心が覚えている。
憎悪と感傷と憐憫と、憎んだ己自身の弱さを。
いつまでも、あの問いの答えを待っている。
――――ねえ、兄上。
◇◇◇
武州は北西部の本庄宿付近は、中山道の宿場町として随一の規模を誇っていた。
それは維新後の明治の世であっても変わらず、むしろ拍車をかけたと言って良い。
新政府は盛んに官営工場を造り、西欧列強に追いつかんと躍起になって近代化を推し進めてきた。
その恩恵を十二分に受けることになった帝都近郊の村々……例えばこの本性宿付近も、政策の盛り立て役を担っているというわけだ。
最近では新設の養蚕工場が方々からの依頼にてんてこ舞いだと言うが、実際のところ徳川の御世と違うことなど、働く場所が変わったかどうかくらいのもの。
どこか遠い話のようで、男たちは落胆の色濃く田畑を耕し続けていた。
……湧き水の冷たさに目を細めつつ、女は瑞々しい野菜たちをぼんやりと眺めた。
今日採れたばかりの、ずっしりと身の詰まった野菜である。
それを撫でるように洗い、時に額に浮かんだ玉汗を煩わしく思いながら適当に拭っては、何度目かになるため息を吐いた。
結局、変わらないじゃないか。
明治だ何だと浮かれ騒ぐものだから何かと思えば、貧しいことに変わりなく―――それどころか先の内乱のせいで荒れ果てた田畑のことを思えば、憤りさえ感じるほどの『不変』が、そこに蔓延っていた。
(まあ、所詮はそんなものよね。ふんぞり返っているやつに限って、そうなんだから……)
女は心の内で言い聞かせるように毒づいていたが、急にぴたり、と手を止めた。
ああ、そうだ。
急に、押さえつけていた不満がゆるゆると顔を上げ始める。
権力を欲しがった侍たちが内輪揉めの末に出来上がったこの時代が、どうして変わったなどと思おうか。
貧富の差は埋まるどころか広がり、何も変えず、変わらせず。
結局、幸福でも不幸でもない人生は、不変であった。水の冷たさがいつの時代も変わらないように。
(ああ、苛つく)
女はこめかみに青筋を浮かべ、パシャンと水を片手で弾き飛ばした。
その時だった。
「もし」
シャン、と音がした。
女はまるで縛られたかのように、動きを止める。
そして震える己の両手を、大きく見開いた目で見つめた。
聞いたことのある音だ。よく説法を垂れ流しに来る僧侶が手にしている、錫杖の音。
だけれど、どこか恐ろしいほどに澄んだその音色には、覚えがなくて―――。
「お忙しいところ申し訳ありません。少し、よろしいですか」
小さく止まっていた息を吐きだし、女は呪縛から放たれた勢いのままに振り返った。
女の背後には、旅の僧侶らしい粗末な身なりの二人組が忽然と姿を現している。
おかしい、と女はさらに目を丸めた。
先ほどまで確かに人の気配などしなかった。それどころか、人が来る音さえ聞こえなかった。
そしてあの、金縛りのような奇妙な感覚。
もしかすると――――人を食い殺すとかいう、化け物の類なのか。
目深に被った笠に隠れていて、彼らの表情は伺い知れない。
だが、傍目にも奇妙な取り合わせだとぼんやり女は思った。
声をかけてきた方の僧侶は随分と背が高く、身体が引き締まっているのに親しみやすい柔和さがにじむ、立派な人らしく映る。
ところが連れのもう一人は、彼とはだいぶ歳が離れている少年のような出で立ちだ。一見すると少女かと思うほど細身で頼りない。
女は目を泳がせ、暫しの後、不格好に微笑んだ。
「あの……何か御用ですか。悪いんですけど、あたし、お坊様方がどなたか存じ上げなくて……」
事実、見覚えなどない。
ただとにかく不気味な二人組など、記憶にないほうがおかしいというものだ。
女が眉を顰めて訝りも露わな態度を見せれば、背丈の大きな方の僧侶が、手で制すような仕草をした。
「良いのですよ、私どもは京よりやって参ったのですから」
京、と女は口の中で呟く。
なるほど、つまりは荒れ果てた都から逃れ、あてどなく旅をする貧僧というわけだ。
女は勘ぐるのをやめた。
こんな僧侶の集団は、最近では腐るほどいるのだ。
「お恥ずかしい話、お江戸……いえ、東京へ行く道に迷ってしまいまして、お尋ねしたく存ずるのですが」
女はぽかん、と小さく口を開け、ようやく僧侶の言葉を呑み込んで頷いた。
そして僅かに日に焼けた指を、森の方へと向ける。
「ここから北に上がっていくと、深谷のお宿があります。そこから先はずっと東寄りに南下してください。深谷はこの辺りで一番栄えているから、人波を探せばすぐ分かります。そう遠くはないですよ」
女が聞きかじった話を頼りにそう説明すると、僧侶は笠をいっそう目深に被って会釈した。
「いや、助かりました。ありがとう存じます」
そう言うとシャン、と再び彼は錫杖を地面に突いて鳴らし、傍らの少年をかえりみる。
「行きましょうか」
はい、と小さく声がした。少年らしく、声変わりした低い声だった。
再び僧侶らは礼儀正しく女に向かって会釈すると、女が示した方角へと歩き出した。
ふっ、と去り際、僅かに少年の僧侶と目が合い、女の心臓が早くなる。
まるで鷹のように鋭いその眼差しは、女を貫くようだった。
――――やっぱり、変な人たち。
すれ違いざま。
馨しい花の匂いと共に、僅かに農具のような、土と鉄の入り混じったような匂いが、鼻をくすぐった。僧侶も畑を耕したりするのだろうか。本当に変だ……。
その時、どこからともなく突風が襲い掛かってきた。
哄笑のような、さざめき立つような、迫りくる風。女は咄嗟に目をつぶってやり過ごした。
森の方へと駆け抜けていく風を見送った女はしばし呆然としたが、やがてハッと我に返った。
あれ、と己の声が無意識に口をついて出る。
「あたし、こんなところで突っ立って何やってたんだっけ……」
僅かに、冷水の中で野菜たちが揺れた。
女はその鈍くて小さい音に振り返り、合点がいったようにしゃがみ込む。
そうだ。みんなから大量の野菜を洗ってくるよう頼まれたんだった。早くやらないと、後が面倒くさい。
なんだか酷くむしゃくしゃしていた気がしたが、気のせいのようだった。
森の哄笑が、無知をあざけるようだった。
女がそう小首を傾げている時。
少年の僧侶が、山道の手前でくるり、と身軽に錫杖を回した。
すると清涼な音を立てていた錫杖が、いつの間にか鞘に収まった刀へと変貌している。
そしてどこからともなくやって来た突風に吹かれ、僧侶たちの黒衣が舞い上がった。
吹かれるままに黒衣を取り払った彼らの様は、まるで僧侶とはかけ離れた、ともすれば侍にも似た出で立ちだった。
美しく染めあがった羽織や着物、ひとつに結い上げられた長髪、身軽気な一挙一動―――そして羽織の襟には、飛び立つ鶴の家紋。
女が遅いので、とまもなく村人が様子を見に来たときには、既に姿を変えた二人組は吹かれたように姿を消していた。
◇◇◇
かつてこの地にはじめて降り立ったものは、人でも、神でもなかったという。
今でこそ彼らは『妖』『怪異』と呼ばれ、その存在を正体不明の靄のように疎まれているが、元はと言えば己の住処であったこの島国を追われた、先住民に相当する。
愚かな人間に蔑まれたことに対する憎悪が、悪逆的な彼らの中で浅く終わるはずはない。
悪鬼妖魔の退治伝説は後を絶たず、またその英雄たちが称賛され続けるたび、妖たちは燃え立つ怒りを強め、いつしか彼らは深い闇の中で生きることを決意した。
人を襲い、殺し、奪い、そうして己たちの遭ってきた理不尽を返し、人など必要でさえないと声高らかに宣言する。彼らはとにかく、強さを求めたのだ。
弱い人間は当然恐れた。
ゆえに彼らは、己たちが脅かされることと奪われることを危惧し、長い時をかけてひとつの武器を編み出した。
それこそは、歴史の影に隠れ、その正常な進行と人の営みを支えるべく、武士と共に平安時代前期より登場した『陰陽師』だ。
そのほとんどは怪しげな呪詛や外ればかりの占いしか出来ない紛い物であったが、特別な神通力などを会得し、どれだけの大妖怪を相手にしようともひるまず戦うもののことを、とりわけて誰かが『修祓師』と呼んだ。
彼らは時に史書に名を残す武将を救い、高貴なる存在を逃がし、妖へと転じることもあった人間や妖そのものを確実に始末する裏仕事を請け負った。
評価されることもなく、高い実力を有しながら武士より下に見られ、朝廷から下る十分な恩賞のみが彼らの忠誠心を繋ぎとめていたといっても過言ではない。
結果、時代の変化と共に明かりの点る時間は増え、妖たちが少しずつ自滅していったために、むしろ修祓師こそが歴史の不必要な要素として排除され始めた。
散々いいように扱われた修祓師たちの大半はついに愛想をつかし、古来から続く妙技の継承を放棄していった。
―――だが、そんな中でも今なお朝廷との連絡手段を有し、妖や修祓師に関する対処を一切不問とされる、異例の修祓師たちが存在する。
その名を、
未だ人間離れした妙技の数々を継承し、何百年とその役目を果たし続ける強情張りであり、今なお時代遅れの修祓師として栄え続ける、数少ない名家だ。
(そういう意味では、武士よりよほど扱いにくいことだろう)
自嘲混じりにため息を零すと、軽妙な声が頭上から降ってくる。
「おや、もうお疲れですか―――
菖蒲、と呼ばれた少年は、途端不機嫌そうに眉を顰めた。
「そういうわけじゃない。……ここが思ったより時化ているから、息が詰まるだけだ」
軽口をたたく青年は、面白そうに小さく笑う。
「初めから分かっていたことでしょうに」
ちらり、と菖蒲は視線を青年にやったが、すぐさま木々へと眼差しは移る。
「空気が悪いのは好きじゃない。特にこういう時化方は、ほんの少しでも迷っている人間さえ飲み込んでしまう。……あの女も、少し危なかった。」
あの女、と青年は小さく目を瞬き、合点が言ったように笑う。
「突然道中でもどかしそうにしたかと思えば『あの女に道を訊こう』などと言われるので何かと思いましたが……お優しい話ですね、
「おかしな言い方をするな!第一お前、そんなこと毛ほども思ってないだろ。嫌味な奴」
「いえ、それほどでも」
「褒めてない!」
菖蒲は疲れたように、がっくりと肩を落とした。
この青年―――蓮には、とにかく口論で勝てた例がない。それは、菖蒲と彼が十年以上にわたる親しい関係を経た今でも、だ。
いわゆる幼馴染と括られるこの奇妙な間柄は、然し彼らが生まれ落ちた家のために、全く別のものへと姿を変えている。
それこそ、姫鶴の血だ。
正確に言えば、そもそも姫鶴は一つの家というわけではない。
宗主姫鶴本家を軸として、傍仕えの近親御三家、さらに三十の中堅配下の家系に、五十の道場からなる修祓師勢力だ。本家が京都に存在することから、『西の姫鶴』などという何とも言えない呼ばれ方もしている。
菖蒲は「若様」と呼ばれるところの通り、見目通りの若さに反して、宗家嫡子の肩書を得た実質的な時期当主だ。
一方、年少の幼馴染に仕える蓮は、宗家を支える御三家の一つ、鴻上家の跡取りであり、菖蒲の専属従者でもある。
つまりは、これまた時代遅れと揶揄されるべき主従の関係が、彼らの最も強固な繋がりなのだ。
「……それにしても本当に、何体居るんだ?此処には」
ちらり、と遠くの方へ視線をやる菖蒲に、蓮は肩を竦める。
「殆ど自然消滅するような弱小です。気にするだけ無駄でしょうね」
時化ている、と修祓師が言い現わすそれは、謂わば『
妖たちはその存在自体が異形のものであり、人よりずっと強い。だが中には、時代の変革に追いつくことが出来ず、恨み辛みだけを残して消えていく弱小怪異も、きわめて多い。
その残滓こそが『瘴気』であり、これは人を取り込みやすく記憶も残らない。
ある種最も性質の悪い、幻覚を見せる目に見えない煙だ。訓練されたものでしか感じ取れない悪寒にも似ている。
残念ながら姫鶴には煙を殺す技はないので、睨みを利かせて牽制するほかない。
「結局は先祖の慢心が所以なんだ、気にしないわけにもいかない」
「真面目ですねえ。そんな殊勝な心掛けの修祓師、もはや何人残っているやら」
蓮が揶揄うようにそう言うと、菖蒲は実に複雑げな顔をした。
「別に妖は悪じゃない。それを悪にしたのは、紛うことなく僕たちだ。僕やお前にも、責任はある」
「……そういうところ、変わりませんね。嫌いではないですが理解はできません」
菖蒲は小さく鼻を鳴らした。
「そんなことぐらい、ずっと前から知ってる」
固い意思のこもった眼が両者を見据え、やがて離れる。
蓮は可笑しそうに、小さく笑った。
そして片手の親指と人差し指で、本当に小さな幅を作ってみせる。
「まあ、若様がこんなに小さな時から、私は存じているわけですしね」
「そんなに小さくない!並みの虫より小さいだろそれ!」
「違うんですか?」
当たり前だろうが、と菖蒲の蹴りが蓮に炸裂するが、彼が身軽に躱すので空を蹴る。
「六尺弱もある男から見れば誰だって小さいだろうが!」
「はて、若様より小さい背の人間が幼児意外で居ましたかねえ」
「このっ……!お前!主に対する敬いってもんはないのか!」
「何をおっしゃいますか、この蓮以上に若様を尊敬申し上げている者は居ませんよ」
「嬉しくない!」
少しばかりあどけない声が、森の中に響いた。
◇◇◇
山中を抜ける道半ば――――野鳥の群れが勢いよく羽ばたく音に、菖蒲は駆ける足を止めた。
頑丈な木の幹を足場に、まるで鶴が飛ぶように目的地を目指していた彼を踏みとどまらせたのは、濃い瘴気の気配。
それも、先ほど睨みを利かせた程度で退散した、女に纏わっていたような弱小のそれではない。
「これは、中々強烈ですね」
同じく違和感に足を止めた蓮は、菖蒲の思うところを代弁した。
その若さに似合わない気難し気げな表情を浮かべた菖蒲は、小さく頷く。
「でも、何か変だ」
通常の瘴気……いわゆる残滓程度のものならば、ここまで人を不快にできるものではない。
言うなれば、未だその肉体と存在とを保ち、生き永らえている『本物』の気配に似ていた。
「あの方角は人里でしょうか。……随分な妖が文明の周りをうろつくものですね」菖蒲はその言葉に、「違うな」と鋭く目を細めた。
「つまりそれだけ、この瘴気の主より格上の『本物』が、文明の中心にいるということだ」
ちら、と菖蒲は目的地である東京府の方角へ目をやった。……やはり、あの場所には何かある。
「すると、ご当主の話は真だったわけですね。東京府に『
ああ、と億劫そうな声で、菖蒲は頷いた。
蓮の言う“当主”、つまり菖蒲の実父が一人息子とその従者に託したこと。
『真祖』の、討伐。
事を聞かされたのは、まだ紅梅の美しい寒冬の頃だった―――。
「帝都に、人ならざるものが居る」
思い出せばありありと聞こえてくる、父の重々しい声。
普段は誰が相手であろうが侍らせた従者を介して会話するのに、今回ばかりは彼自らが口を開いた。
生誕の日を迎えていなかった菖蒲は、この時十五歳。
姫鶴宗家の嫡男として十分な教養を施された菖蒲が父親に会ったのは、実に五年ぶりのことになる。
そして、菖蒲は突如帰郷した父が何を話しに帰ってきたか、薄々分かってもいた。
人ならざるもの、つまりは妖。
そして、帝都を根城に出来るだけの擬態能力を有する、永遠にも似た時間を過ごしてきたという人の最大の敵―――『真祖』。
『真祖』とは、文字通り全ての妖の親のような存在だ。
人と妖が戦いを始めた頃より、多くの人間や修祓師をも屠ってきた、最強の妖たち。
古くは奈良時代より存在していたという彼らは、今や十体までその数を減らし、再起を図って人を妖の器に無理矢理することで、同族を増やしているという。
「この機を逃せば、我らはもはや先祖から託された、『真祖討伐』の悲願を果たせなくなるだろう」
菖蒲は、父のあまりに静謐かつ無情な声を遮らなかった。彼の語るがまま、受け止めた。
「私に代わって、あの魔都へ向かってほしい」
布のこすれる音が、御簾の奥で鳴る。
恐らく、父が足をさすったのだろうと菖蒲は見当をつけた。
父は、先の戦いで満身創痍の上に片足や片腕をなくす大怪我を負い、辛くも真祖一体に勝利したと聞いている。そして、戦える身体ではなくなった。
菖蒲は父に似て淡々とした調子のまま、静かに頭を垂れた。
「謹んで、お受け致します」
何時になく強制力の乏しい父の話し方に、少し心動かされたというのもある。
勿論、人と妖の憎しみの連鎖を、この手で断ち切れるならばそれが一番だとも。
だが何よりも、確かめてみたかった。
それは――――。
「若様」
蓮の声に、菖蒲は我に返って顔を上げた。
いつの間にか考え込んでいたらしい。
悠々とした態度を崩さない従者を見、何事かと尋ねた。
「視ますか?」
菖蒲は一瞬質問の意味を理解しあぐね、暫しの後に得心した。
蓮の生家である鴻上家は、特殊な視力を持っている。
戦国時代前後に宗家から独立した彼らは、『
とはいえ、常人の身体に神の両眼を嵌め込んだようなその超能力にはそれ相応の負荷がかかり、鴻上の人間で玉眼の継承者は総じて短命という事実がある。
「……お前、寿命を自分から縮めるなんてどうかしてるぞ、別にいい。倒れられても困る」
無愛想にそう言うや菖蒲はそっぽを向き、黙々と歩きだした。
蓮は虚をつかれたように二、三度目を瞬き、小さく噴き出す。
「そんなに寂しがらないでくださいよ。それに、ご婦人ではないのですから、倒れたりなどしませんよ」
「やかましい!寂しくもない!」
菖蒲がその使用を断った『鳳仙の玉眼』も、蓮はところ構わず平気で使う。
現に、今も菖蒲の言葉などなかったかのように、歩きながら使いだした。
つくづく話を聞かないやつだあ、と菖蒲は小さくため息をついたが、蓮の微笑みは消えない。
まるで紅玉のような赤に染まった蓮の双眸には、はじける花火にも似た虹彩が浮かびあがる。そして瞳孔が細まった。
「……どうやら、貧しい寺のようですね。一見すると廃屋のようです。草庵、と言うべきでしょうか」
菖蒲は目を瞬き、問う。
「人里からの距離は?」
「人里そのものからの距離は四十五町(約五㎞)ほどですが、雑木林の奥深くにあります。人が寄り付くようなところではないでしょうね」
「お前の言うような様子なら、尚更だな」
蓮は炎のような双眸を、菖蒲に向けた。
「此処は一つ、策を講じてみますか」
策、と菖蒲はオウム返しに問い返す。
良いですか、と蓮はなにやら教えを言うように人好きする笑みを浮かべた。
「要は、私たちが常人だと思われれば、容易に妖の領域に踏み込めるということです」
「……修祓師の気配ぐらい、雑魚でも分かるんじゃないのか」
「私の経験上、こういった瘴気を放つ輩は、己が祓われるというふうには考えません。修祓師と遭遇した経験のない場合が多いんです」
蓮の言葉に、菖蒲は合点がいった。
「……真祖が作った元人間、だからか」
その通り、と言わんばかりに蓮は微笑みを深めた。
「ここは経験のある私にお任せください」
菖蒲は嫌な予感を感じずにはいられなかったが、渋々といった様子の面持ちで頷く。
ざあ、と初夏の空気に染まる葉桜が、風に揺られて音を立てた。
◇◇◇
乱暴というには些か躊躇いを含んだ音が、粗末な寺の門を叩いた。
既に朽ちかけていて、風に当たるたびに軋む音を立てるこの門は、久々の来客で今にも柱ごと倒れそうだ。
夜前の掃き掃除をしていた寺小姓は、驚きつつ門の方へと駆け寄り、恐る恐るといった調子で半分ばかり門を開いた。
「……どちら様でしょうか」
まだまろい響きを残した小姓の声に、門を叩いていた男の声が返ってきた。
「良かった、お寺の方ですか。この辺りで宿を探していたのですが、何処に行っても断られてしまって困り果てていたところなのです。どうか一晩、泊めてはいただけませんか」
はて、長旅でもしてきたか、断られ続けるほどに変わったことがあるのか、と内心寺小姓は訝り、「粗末な寺でございますが……」と返す。
すると、懇願するように言葉が続いてきた。
「お願いします、弱り果てた連れが居るんです。ご迷惑はなるべくおかけしませんので」
小姓はそれを聞くや、慌てて扉を開けた。
寺に留めてほしいと懇願してきたその珍客は、確かにその背に誰かを負ぶっていた。
男の歳の頃は二十か三十の間で、中々に上等そうな服に身を包んだ端正な男だ。
対して、背負っている少年とも少女ともつかない子どもは、彼の言葉通りぐったりと男に体重を預け、弱り果てて見えた。
ともかくも小姓は彼らを寺の内へと招き入れ、冷え込む夜風から出来るだけ遠ざけてやろうと、この寺で宿泊できる場所を思案した。
「どうぞお入りください、今薬湯をお持ちします」
「ああ、なんとお礼を言ったらいいか。ありがとうございます」
男は確かにその言葉に安堵したようだが、浮かべた笑顔は疲れ切ったものだった。
小姓は男に向かって、離れの四阿を指さした。
「あちらでお休みになっていてください。和尚には私の方から事情を説明しておきます」
ええ、ええ、と何度も頭を深く下げつつ、男は気づかわしげに背中の子どもへと視線をやり、時に震えながらなるべく急いで四阿へと歩を進めていった。
小姓はその光景を暫し見つめた後、小さく駆けだす。
―――無論、来客の報せを、この貧しい寺の主のもとへ届けるためだ。
鬱蒼とした木々のざわめきが、まるで悲鳴のようにも聞こえてくる。
美しき三日月の夜であった。
◇◇◇
「……おい」
まるで溶岩のように煮えたぎっている声が、蓮の背中から発せられた。
時々(笑うせいで)震えていた蓮は、四阿の中に入った途端、もはや隠しもせずに噴き出した。
背負われていた菖蒲はバッとはね起き、身軽に着地すると、素早く六尺弱の従者の襟首を掴んだ。
「おい、お前。本当に僕を何だと思ってるんだ」
一周回って真顔になっている年少の主に対し、こみあげる笑いを(出来てはいないが)抑えつつ、蓮は人畜無害そうな顔を作った。
「これが一番怪しまれないと思いましたので。実際上手く潜り込めたじゃありませんか。若様がお怒りになることは無いでしょう」
菖蒲は軽く舌打ちした。
「お任せください」などと自信ありげに言うから何事かと思えば、結局蓮のちょろまかすような話術と、人形のように扱われる菖蒲との下手な芝居という落ち着き方だ。
先ほどの農村の女に対してといい、この男はもしかしなくても日ごろの憂さか何かを晴らすためにやっているんじゃないか、と菖蒲は鬼神のような顔で睨みつけた。
「大体、お前が『泊めてくれ』と言った先で泊めてもらえなかったことなんて一度もないだろうが!お前が居ない間に修羅場になった話を聞きたいか!?」
「いえ、全く」
「だろうな!僕も話したくなんてない。いや、そうじゃなく」
コホン、と菖蒲は咳払いし、掴んでいた蓮の襟首を離してやった。非常に渋々。
「家屋はおろか、宿だってここより遠くにあるだろうが、どう考えても怪しい。あいつがそうなら和尚に告げ口されるかもしれないぞ」
「若様と私が正面切って『ここに泊まりたいので泊めてください』なんて言ったらそれこそ怪しいものじゃありませんか。本来ならば故郷の言葉の一つでも使って誤魔化したかったところですのに」
「一度もまともに『故郷の
修祓師は、基本的に地方の言葉というものを使わない。
『西の姫鶴』と言われている以上、西言葉など使おうものなら一発で露見する可能性が高い。
一見必殺を心得てはいるものの、姫鶴が討ち漏らした妖などごまんといるだろう。
ゆえに、「そいつは姫鶴だからこうすればいい」などと対処されては、格好がつかないにも程があるという話だ。
「とにかく、ここで一晩も茶番をやっている気はない、とっとと片を付けるぞ。あの寺小姓、どう思った?」
菖蒲の問いに、蓮は折り曲げた人差し指を唇に押し当て、考え込むような仕草をする。
「……分からない、というべきでしょうか」
「分からない?」
予想外の回答に、菖蒲は片方だけ眉を吊り上げた。
「ええ、この辺りに瘴気があることに間違いはありません。それがこの寺のものであることも、です。……ただ、あの小姓や会話に出てきた和尚とやらが妖かどうかは不明です」
気難しげな顔のまま、菖蒲は己の感じた違和感も告げた。
「……確かに、瘴気が入り混じっているような感じがした。別物のような、でも根本的には同じもののような。それに『人の匂い』もする」
蓮は主の言葉に首肯する。
「やはり、表だって活動しているのは
菖蒲は渋い顔をしつつも、頷く他なかった。
『幽現』とは、真祖の対義語にもあたる妖の現界形態の一種である。
もっと端的に言うと、人間が妖へと転じたもののことを指す。
ひどい話だが、これは何も珍しい話ではない。真祖、あるいは真祖に仕える直近の強力な妖に接触され、かつて人が滅ぼした妖の名、体、実を与えられることで成立し、真祖が妖の数を増やすために幽現にする場合が多い。
名は本来の名……つまり、『与えられた妖の名はなんであるか』。
体は『どんな力を持つか』。これは名に引っ張られることが多く、大抵の場合は戦闘の最中に名を判明させる手がかりとなる。
実は『何故そうなったか』。妖に転じた人間本人の背景の事を指し、感覚が鋭かったり優秀である修祓師は、時折共鳴と呼ばれる記憶の閲覧を可能とする。
わざわざこんなものを考えるのには理由があり―――それこそは、なんとなく悔しいが蓮が小芝居にこだわる理由でもある。
修祓師はこの名、体、実を見破らなければ妖を祓えない。
何故なら、名もなきものを祓うということは、瘴気のように実体のない『超常現象』に過ぎず、修祓師の武器が反応しないのである。
不用意なものに刃を向けないために、内部調査は殊更慎重に行う。結果、一日に祓える妖の数も限られてくるということだ。
特に幽現に対しては修祓師も処理しあぐねているところがあり、なにせ元人間ということは、余程尻尾を出してもらわなければ名を暴くもへったくれもないわけである。
加えて、妖に転じる人間の背景などはこの明治の世において、心当たりが多すぎる。妖の世界における
「この寺に巣くっているならば、妖の性質と当人の背景とが合致した部分があったはずだ。まずはそれを見つけるしかないな……」
菖蒲の言葉がそこでふっつりと途切れた。
すると、少しばかりの間を置いて、粗末な四阿の戸にまろい声がかかった。
菖蒲は蓮と顔を見合わせ、迎え入れた満面の笑みに舌打ちしつつ、畳の上へ腰を下ろし、額を片手で押さえて俯いた。
「お加減の方はどうでしょう」
ひょっこりと顔を表した寺小姓に、蓮は愛想よく笑う。
「おかげさまで、起き上がれるほどには良くなったようです」
相変わらず取り繕う話術だけは手慣れているな、と菖蒲は内心ため息を零した。
「ほら、お前を休ませてくださった方ですよ」
じろり、と菖蒲は蓮を睨んだ。僕にもやれというのか?と言わんばかりに圧をかけたが、幸いにもその仏頂面と不機嫌さが、具合悪げに見えたらしい。
小姓は目を瞬き、ふわっと微笑んで大人びた様子を見せた。
「何よりでございます。あの、和尚が看病なさるとのことで、ええっと……」
戸惑うような視線を受けた蓮は、ああ、と声を上げる。
「申し訳ありません、名乗りもせず。私は辻崎と申します」
「では辻崎さま、夕餉をご用意致しましたので、辻崎さまはこちらへ。……それとも、そちらの方のおそばにいらっしゃいますか?」
蓮はちらり、と菖蒲に目をやり、小姓に向き直って微笑んだ。
「いえいえ、私が傍で夕餉など食べていては、弟も心が休まらないでしょう。ありがたくそちらで頂戴いたします」
「分かりました、ではそのように」
「では、私は夕餉をいただいてくるけれど、和尚様に失礼のないようにな」
ギロリ、と菖蒲が睨みつければ、蓮は嫌味のようににっこり笑った。
くるりと背を向け四阿を出ていく刹那―――蓮は後ろ手で、人差し指を床へ向けるような仕草をした。
―――『妖ならば人差し指を、人ならば小指を下に向けて合図します。複数いた場合は、別行動と致しましょう』。
寺に入る前の蓮との取り決めを反芻し、あの寺小姓は妖だと蓮は断じたようだ。
「和尚とやらは、どっちかな……」
菖蒲は再び、嗤うような三日月を窓越しに見つめた。
◇◇◇
粗末で寂びた寺にしては広大な縁側を、冷ややかに風が通り過ぎていく。
そのせいか木々のざわめきが、終始辺りの人らしい音を遮っているらしく、どこか異界めいた雰囲気が、宵闇に浸る寺を包み込んでいた。
ふと、目の前で僅かに炎の色を受けた戸が見えてくる。
寺小姓は歩を早めて戸の前まで行くと、流れるような所作で膝を折り、戸の向こうに声をかけた。
「お師匠様、お客人は夕餉を取られるそうです。弟君のことをお願いしたい、と」
僅かな間を置いて、無機質な声が入室するよう促す。
寺小姓は礼儀正しく了解した旨を告げ、戸を開いた。そうして、左手を室内へと向ける。
嫌な予感が頭を過ったが、蓮は悟られないように微笑みを浮かべたまま、室内に足を踏み入れた。
ジジッ……と炎が舌を鳴らした。
彼らの顔に来い影を刻む、燭台の炎のきらめきが、何故だが異様な熱を帯びているように見える。
そして、規則的に紙を捲る音が、恐ろしいほどに静寂で充ちた室内に渡った。
蓮はわずかに目を細め、この夜更けまで読書に勤しんでいたこの寺の主の静謐な後姿を、双眸に刻み付けた。
剃髪頭に、墨色の直綴と合わせた渋柿色の格子は、彼が一回の僧侶であると語っている。
しかし蓮は、この僧侶が何故これほどまでに、起伏さえ感じない空気を纏えるのか、知っていた。
言うなれば、なにもかもを捨て去ってしまった者特有のそれだ。
独特の間を置いて、和尚が振り返り、三つ指を揃えて蓮へ丁寧に挨拶する。
「ようこそいらっしゃいました。私は
ゆっくりと上げられた僧侶の顔は、意外にも端正で涼し気だ。
切れ長の目元が、焔の色に染まりながらも光を感じさせない。感情が、読み取れない。
蓮はすばやく室内を目だけで見渡し、薬研や紙に包まれた漢方薬らしきものを見つけた。室内に何かを仕込んでいる様子はない。とすると、部屋そのものに何か執着があるわけではないらしい。
探っているのを悟らせないように、すぐに秀哲に返事する。
「こちらこそ、夜分遅くにもかかわらず、快く受け入れてくださって、本当にありがとうございました」
ちらり、と無感動な視線を寺小姓にやったかと思えば、秀哲は「左様で」と闇色の双眸を伏せる。
「大したおもてなしは出来ませぬが、ごゆるりとお過ごしください」
これ、と秀哲が小姓に声をかけた。小姓は和尚と同じく三つ指を揃えて深く礼をし、小さな剃髪頭を蓮に向けた。
「ご紹介が遅れました。私の弟子で、
「こちらこそ、厄介になります」
雨でも降ったのか、と錯覚するほど濃い緑の香りが、夜風に乗って室内に運ばれてくる。
土の匂いと共に、まるで深い夜の森に取り残されたような、そんな心地が蓮を包んだ。
「では、私はお連れの方を見て参りましょう」
「よろしくお願いします」
「海鎮、私の夕餉の用意はいりませんから、お前はしばらく下がっていなさい」
「はい、和尚」
寺小姓は秀哲の言葉に、部屋の外へと下がっていった。
去り際、海鎮が開けていった隣室には一人分の膳が容易されており、蓮の為にと用意された夕餉であることは察しがついた。
寺の貧しさに釣り合った、あまり豪勢とはいえないが庶民的な食べ物の数々が並んでいる。
秀哲の方はといえば、調合したばかりの薬、薬湯、湿布などを盆の上に乗せ、立ち上がって音も出さずに戸の方へと歩いて行った。
しかし、戸に手をかけた間際で、思い出したように振り返りもせず蓮に言葉を投げかける。
「弟君、持病はおありですか」
蓮は二、三度瞬き、「すこし軟弱な程度です」と返した。
長旅で兄に背負われる若い弟なら、そのくらいのものだろうと判断した。
何故そんなことを、とも思ったが、生憎秀哲がこちらに顔を向けないので、その真意は分からない。まあ、向けられても読み取れはしなさそうだが。
「左様で。では、心配ありませんね」
秀哲は、何事もなかったかのように足音も無く縁側を歩いて行った。
蓮はしばしその場に立ち尽くし、苦笑をこぼす。
「これは存外……強者でしたかね」
小姓の海鎮の方は、二度も面と向かって話たためか、僅かに残った瘴気と、人の血肉の匂いが残っていたので、妖かどうかはさておき何も事情を知らないわけではないだろうと容易に察しはついた。
ところが和尚の方は、まさしく無だった。匂いの一つさえしない。逆に怪しいと言えば怪しいが、決定打には欠ける。
「……まあ、なんだかんだ上手く立ち回るでしょう」
そう適当に言って見せ、他人事のように若き主の無事を祈ることにして、蓮は腰を下ろし箸を手に取った。
◇◇◇
花のつぼみのような唇を、細い指が押した。
そうして、小さく考え込むような声を、一つ。
「ンだよ、さっきから」
ちゃぷん、と水の揺れる音を鳴らしたのは、何事か思案しているらしい女の傍らに立っていた、獅子のような男だ。
男の黄土色の髪が、月に照らされて金糸のように輝いて見える。
戯れに揺らす瓢箪の中身は、言わずもがな強い酒だった。
「いや、来たんちゃうかしら、って」
洒落た服に身を包んだ当の女は、しゃらりと耳飾りを揺らして小首を傾げる。
「ほォ、ようやくお出ましかい。……相変わらず老害は腰が重いな。そンなのろまじャ先が思いやられるぜ、全く」
いやいや、と女は面白そうな声を上げた。
「案外、かわい子ちゃんかもしれへんわぁ……それも、とびっきり獰猛な、ね」
花緑青の双眸に、好奇の甘美な輝きが灯る。そして一際愉快げな笑いをひとつ零し、彼女は嗤うような三日月を見上げる。
「どないすん、
酒吞、と呼ばれた獅子の男は瓢箪を傾け、その端正な顔を綻ばせた。
「決まッてンだろ、
冴えた眼が、京からの異邦人を惑わせる瘴気の方角へと向けられた。
「奴らがどれだけ出来るもンか、見定めてやる」
夜風がはらり、と花弁を運ぶ。
怪しげな二人の影も、ふっつりと風にさらわれて、後には残り香だけが漂っていた。
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