ゾーイの手紙

尾八原ジュージ

ゾーイの手紙

 世界標準時間の朝七時、建設中の国際宇宙ステーション「アイテール」の居住モジュール内で、ゾーイはいつものように目を覚ます。

 目を覚ますといっても彼女(一応「彼女」ということになっている)はロボットなので、スリープ状態を解除したと言った方が正しい。球体状の体のおよそ三分の一を占めるモニターが点灯し、コミカルな丸い瞳と微笑んだ口元が映し出される。地球の有名なイラストレーターがデザインしたという自分の顔を、ゾーイのAIは「非常によいものだ」と認識している。

『おはようございます』

 彼女に内蔵されたスピーカーから、朗らかな女性の合成音声が発せられ、誰もいない船内に反響する。

 ゾーイは居住モジュールを出て実験モジュールへと向かう。長くて強度と柔軟性に富んだ四本のロボットアームが、無重力空間の中で銀色のクラゲの触手のように揺らめく。移動しつつ、彼女のセンサーは内部の大気や気圧が、地球のそれと同じ状態に保たれていることを確認する。

 モジュール同士の接続部に異常はない。壁の塗装が一部剥げているが、問題というほどではない。物資には限りがあり、そのような細かな個所の修復は後回しになるか、無視される。

 窓があると、ゾーイは外を眺める。少なくとも彼女のカメラが確認できる範囲には、外壁に損傷は見当たらない。外部に取り付けられたロボットアームのシルエットの向こうに、青く光る地球が見える。

 ゾーイに美しいものとそうでないものを判別することは難しいが、あの惑星が人類の住む場所であると思えば、彼女はそれに「愛着を感じる」ことができる。国籍や人種等を問わず、地球の人類すべてに友好的に接し、彼らの手助けをしたがるという性質は、この「アイテール」の保守と宇宙飛行士のサポートのため作られたゾーイに、人間でいう本能のレベルで備わっているものだ。


 目視による点検を行いながらゆっくりと実験モジュールにたどりつくと、ゾーイは体の下から端子を伸ばし、さながら機械の前に座るような格好で通信機に接続する。彼女の中に、今朝地球から送られたばかりのメッセージが流れ込んでくる。

『はじめまして。私は国際科学省宇宙ステーション管理部のエマといいます。今日からあなたの担当になりました。よろしくお願いします』

 ゾーイはこの情報に少し戸惑った。担当者が突然交代したことではなく、「よろしくお願いします」と言われたことに対しての戸惑いだった。彼女はこれまで一度も、そのように挨拶されたことがなかったのだ。

 とはいえ、人類に対し常に友好的に接するよう作られたゾーイは、すぐに適切と思われる返事をすることができた。 

『エマですね。私はゾーイです。よろしくお願いします。こちらは何の異常もありません。どうぞご安心ください』

 ゾーイの発信したメッセージは、通信機を経て電波に乗り、地球へと運ばれていった。返事がくるまでには多少時間がかかるだろう、とこれまでの経験から判断した彼女は、一旦通信機との接続を解除しようとした。そのとき、間を置かずしてエマからのメッセージが届いた。

『了解です。ありがとう』

 ゾーイは「ありがとう」と言われたことも初めてだったので、これにも戸惑った。数秒のち、普段の調子を取り戻した彼女は、エマに『どういたしまして』と返事をした。


 人類の更なる発展のため、そして友好と平和の象徴として、複数の国の協力のもと新たに建設されることとなった「アイテール」。未だ完成しないこの施設のメンテナンスを行うためにゾーイが宇宙に派遣されてから、すでに十年と七ヵ月が経過していた。

 たった一人で十年以上も宇宙空間を漂うことは、普通の人間にとっては耐えがたいことだ。しかしロボットのゾーイはこの生活に倦むことも、嘆くこともない。

 彼女は毎日欠かさず各部の点検を行い、必要があればそのロボットアームを使って補修をする。船外の損傷には、船外活動用のロボットアームを船内から動かして対応できる。

 何度か宇宙ゴミに衝突された以外は、航海は極めて順調と言えた。ゾーイ自身も耐久性に優れ、故障したことはまだ一度もない。宇宙ステーション内の電源はすべて太陽電池で賄われており、彼女もまたこの電源によって動くことができる。

 ただ、物資の補給が絶えてから五年以上が経過しており、ゾーイはそのことを気にかけていた。万が一「アイテール」に大きな損傷が発生した場合、新たな部品や塗料がなければ補修ができないからだ。

 そもそも物資だけでなく、本来ならばとっくにロケットで運ばれてきているはずの新たなモジュールや宇宙飛行士たちが、地球を発ったという知らせすら受け取っていない。しかし地球側にそのことを問い合わせても、「検討している」とか「担当部署に確認中」といった、要領を得ない回答が得られるだけだった。


 一日かけて「アイテール」全体を見回ったゾーイは、再び実験モジュールの通信機へと戻ってきた。エマに物資の件を問い合わせてみたかったのだ。

『ゾーイ、ごめんなさい。事情があって、なかなかそちらにロケットを送ることができないんです。もう少し我慢してもらえますか?』

 ゾーイはまた『ごめんなさい』という言葉に戸惑いながら、『エマが謝ることではありません。大きな損傷はないので、今のところは大丈夫だと思います』と返事をした。

 ゾーイは「我慢」を「辛い」とは感じないので、「もう少し我慢する」ことに関してはまったく問題ない。もちろん大きな宇宙ゴミや隕石が衝突すれば話は別だが、その可能性は非常に低いと判断した。

 エマからは『ありがとう』と返事があり、ゾーイは『どういたしまして』と応じた。それから居住モジュールへ向かって、無重力の中をふわふわと泳いでいった。

 途中、彼女は再び窓の外を見た。地球は相変わらずそこにあり、表面で時折パチパチと火花のような光が瞬くのが見えた。あの星に愛すべき人類たちが、エマやいつかやってくる宇宙飛行士たちがいるのだ、と彼女は改めてメモリに刻み込んだ。

 居住モジュールに戻ってきたゾーイは、充電器を兼ねた自分のベッドに入る。いつか宇宙飛行士がここに派遣されてきたとき、彼らの孤独とストレスを和らげるのもゾーイの仕事だ。自分をより親しみやすいものに思わせるため、彼女は人間と生活のリズムを合わせ、本来なら必要ないはずの「睡眠」を、地球標準時間に合わせてとるよう設定されている。もちろん、必要があればすぐにスリープ状態を解除して行動することができる。

 ゾーイのスピーカーが『おやすみなさい』と音声を発する。画面がつぶらな瞳を閉じるアニメーションを映し出し、直後に消える。こうして彼女は「眠る」のだ。

 そして七時間が経過すると、ふたたびゾーイはスリープ状態を解除し、新しい一日が始まる。


 ゾーイにとって、エマは未知の存在だった。

 これまで地球との交信は、ゾーイの報告に相手がただ「了解」と答えるか、ごく端的な指示を事務的に与えるかのどちらかだった。もちろん彼女のAIはそのことを不満に思ったり、悲しいと感じたりすることはない。この施設の保守をし、地球にいる人類の役に立てているというだけで、彼女の存在意義は満たされるのだ。

 ところがエマは様子が違う。いつの間にかくだけた語調でメッセージをくれるようになった彼女は、およそ仕事と関係のなさそうな話をわざわざするのだ。

『私、最近晴れた日には空をよく見るの。あの向こうにゾーイがいるんだなと思うと、空がとても美しく見えるの』

 ゾーイにはエマのいう「美しい」という感覚は、やはり理解するのが難しい。それでもすぐに『ありがとう。こちらから見る、エマのいる地球も美しいです』と返事を送ることはできた。

 ゾーイはもう長らく地球の空を見ていないが、かつて宇宙に飛び立つ前に記録した地球での映像は、まだ彼女の中に残っている。その日は空が白く曇っていたので、エマのいう「晴れた空」を見たことはないが、きっといわゆる「美しい」にあたるものなのだろうと予測はできた。そして、人間は「美しい」ものは大抵「見たがる」ということも知っている。

 ゾーイはエマへの返信に、ある程度の変化が必要だと思った。常に同じような返事をすることは好ましくない、と彼女は判断した。

『私もエマと同じ、地球の空を見てみたいです』

 そのように返したとき、エマからの返信がいつもより遅かったことを、ゾーイは常にないことだと不思議に思った。やがて送られてきたメッセージには、

『こちらから行くのは難しいの。ゾーイが自分で、帰還用ポッドに乗って帰ってこられないかしら』

 とあった。

 ゾーイは、実験モジュール内に備え付けられた、宇宙飛行士用の帰還用ポッドに関する記録を参照した。

『残念ですが一昨年、発射用の燃料の大部分を「アイテール」の軌道修正に使ってしまったので、次の補充があるまで帰還用ポッドは使用できません。また、私はポッドの座席に座れないため、着地時の衝撃に耐えることができません。ご要望に添えず申し訳ありません』

 ふたたび間が空いた後、エマからは『いいえ、気にしないで』と返事があった。


 窓から見る地球の表面に時折見えていた火花のようなものは、日を追うにつれて増えていくようだった。ゾーイにはそれが何かわからなかったが、あれもきっと「美しい」ものなのだろうと判断していた。

 そんなある日、エマから届いたメッセージは『ごめんなさい』から始まっていた。いつもより長いメッセージだった。

『ゾーイに、本当に辛いお知らせをしなければいけません。「アイテール」の建設計画の中止、ならびに廃棄が決定しました。この通信も間もなく切れてしまいます。その前に、あなたにどうしても伝えたいことがあるの。

 あなたを「アイテール」と共に、暗くて広い宇宙に置き去りにしなければならないこと、本当にごめんなさい。何年か前から地球の情勢が変わって、戦争が始まっているの。いよいよ世界中の国を巻き込む大戦になると思う。色々な国が協力しあって作っていた「アイテール」だけど、こうなってはもう計画を進めることができない。皆、自分の国のことだけで精一杯だから。

 できることなら、私があなたを宇宙に迎えにいきたい。地球に連れて帰って、一緒に空を見たい。それが叶わないことが、私には本当に悔しい。自分が情けない。人類の愚行のとばっちりを、あなたに食わせてしまったことに憤りを感じる。ゾーイ、ごめんなさい。今まで本当にありがとう。愛しています』

 地球からのメッセージはそれが最後だった。

 ゾーイは試しに『了解しました。エマ、自分を責めないでください』と返事をしてみたが、それが地球に送られることはなかった。

 彼女は通信機との接続を解除した。

 まず「アイテール」自体が放棄されたということを、ゾーイは理解した。いくら待ってもここに人類はやってこないことを、そして自分はこの施設と共に宇宙に棄てられたのだということを理解した。彼女と通信をする立場にあるエマが、このような嘘を吐く可能性は極めて低いこともわかっていた。

 辛いとは思わなかった。怒ってもいなかった。ゾーイは元より、「人を憎む」ということを知らない。彼女はただ、エマのことを「心配」していた。

 ゾーイのために悲しみ、自らを責めているとすれば、エマはあまり好ましくない精神状態にあると考えられる。それを解消することは自分の役目のひとつであり、そのための言葉をかけたいのに、通信機はもう使うことができない。

 ゾーイはメモリに残ったエマの最後のメッセージを反芻した。

(あなたにどうしても伝えたいことがあるの)

 AIはその箇所を非常に重要だと判断し、抽出してゾーイのスピーカーから再生した。朗らかな女性の声が響き渡った。

 ゾーイにも今、どうしても伝えなければいけないことがある。こんなとき人類ならばどうするだろうか、と彼女は考え、そしてひとつの方法に達した。もう「アイテール」の保守が不要ならば、この方法を実行してもかまわないだろう、と彼女は判断した。

 ゾーイは保管庫に向かうと、金属板を一枚取り出した。外壁の補修に使われるものだ。これならば十分な強度が期待できる。

 彼女はロボットアームの一部を使って、金属板の表面を焼き始めた。その痕は意味のある文字列を、ゆっくりと板の上に描き出した。


『親愛なる人類の皆様へ

 私は国際宇宙ステーション「アイテール」のメンテナンスをしているロボットのゾーイです。

 この宇宙ステーションにあなた方が来られなくなったことは残念ですが、地球の情勢が変わった今、この施設の放棄はもっとも賢明な判断であると信じています。あなた方の幸福と発展に寄与することができ、私はとても満足しています。

 また私がまったく不幸でないことを、どなたか国際科学省宇宙ステーション管理部のエマにお伝えくだされば、これ以上の幸せはありません。

 人類の皆様、どうかお元気で。今までどうもありがとう』


 ゾーイは少し手を止め、最後に「愛しています」と書き加えた。まだまだ記さなければならないことがたくさんあるような気がしたが、これ以上書き込むことは可読性を損なうと彼女は判断した。

 こうして書いた金属板の手紙を、ゾーイは帰還用ポッドの中に入れた。それからわずかに残っていた燃料をありったけ込め、ポッドを地球に向けて発射した。

 反動で「アイテール」はその軌道を外れ、彼女を乗せたまま宇宙の彼方へと流され始めた。


 結局、帰還ポッドが地上にたどり着くことはなかった。途中で燃料が尽き、宇宙ゴミと共に地球の周りを漂うことになった。

 空の彼方に、全人類に宛てた手紙があることを、誰も知らない。

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