奥々風土記 巻一 ⑥

山伏峠:現在の岩手県道1号線「山伏トンネル」付近

 雫石の真南に位置し、岩手郡と和賀郡の境界である。北側は岩手郡南畑村(現雫石町南畑)、南側は和賀郡川舟村(現西和賀町川舟)である。この嶺を通って沢内の里(現西和賀町沢内)と行き来する。

 6月~7月にかけては山に蛇が沢山出て、山に入るのをためらわせるものである。これに人馬ともに大変苦悩し、蛇によって往来が止まることもしばしばあった。

 またこの山の通草あけびをみると岩手郡の方はすべて5葉なのに対して、和賀郡のアケビは3葉になっている。嶺をへだてて南北で3葉と5葉の違いはなぜなのか、大変不思議である。

(注:岩手郡側に自生していたものは5葉が特徴であることからアケビと推察される。一方で和賀郡側に自生しているものは3葉が特徴であることからミツバアケビと推察される。なお3~5葉になる両者の雑種となるゴヨウアケビは存在していなかったと考えられる。)

(注:ミツバアケビの方が耐寒性が強い)


国見峠

 雫石の真西に位置し、陸奥国と出羽国の境界になる。嶺は出羽国久保田(現秋田市)に通じる道である。山の東側に南部藩の関所、橋場がある。山が高く、年中雪が降る。6~7月のわずかな期間だけ雪が消える、これは冬になると積雪のため、しばしば往来が止まった。

(注:明治期に秋田街道が仙岩峠経由に変更され国見峠の道は廃道)

(注:現在岩手県側から国見温泉への道路はありますが、秋田県側への道はありません)


雄駒个獄(おたけこだけ?)(現在の秋田駒ヶ岳か?)

 雫石の真西、山脈の中にあり、国見峠に続いている。これも大きな山であり、常に白い雪が降っている。さて和賀郡に駒形嶽という山があるが、今の世の人はまちがえて袁古麻迦多気といっている。それはその山にある駒形神社を尊んで、御の字を加えて御駒(御は美称なので“み”というべきなのだが、“お”というのは後世の習慣である)と呼ぶようになった。こちらの雄駒と同音であるため、いつの間にか同一視されるようになった。同名の山と思うのは間違いである。和賀郡がくわしい。


男須気山

女須気山

 両方とも雫石から真南にならび、南畑村にある。山上に池がある。国人がいうにはこの山々は元々夫婦であり、元々は同じ場所にあったが何らかの理由で分かれたという。しかし、いまなお村の東西に向かいたっているのは仲が良いからだという。


鬼古理山

篠木山

長山

 すべて盛岡城の西北に有り、岩手山の麓の山々である。


岩手山

 盛岡城の西北にある。岩手郡の諸々の山よりも高かったので、郡の名前を与えられ岩手山という。年中雪が残っており、山の形は富士山に似ているので世の人はみな「奥の富士」の二つ名で、歌に詠み、文章に記した。古い歌に多く見られるのはこの岩手山である。古今和歌六帖第二、山の部に、人麿(柿本人麻呂)が「いはて山いはてなからの身のはては思ひし如く誰かつけまし(いわないままこの身が死んだときに誰がこの思いを届けてくれるだろうか、いや届けてはくれまい)」、千載集(千載和歌集)に藤原左京大夫顕輔「おもえどもいはてのやまに年をへてくちやはてなん谷のうもれ木(思っていても口に出さなければ谷の埋れ木のように朽ち果ててしまうのだろうか)」、また千載集に顕昭法師(藤原顕昭)「人しれぬ涙の川のみなかみはいはての山の谷の下水したみず(人知れず涙が流れるさまはまるで岩手の山の谷の下を流れるみずのようだ)」などがかかれた石碑が山中にある。高さ二十丈(約60m)あまりの場所を俗に不動平という。また山の背に洞窟があり鬼の城と言い伝わり、西の方に影沼がある。この沼から流れる水が数千丈の滝になる。山上に神社があり、これがすなわち岩手山神社である。


七時雨山

 沼宮内の里の西にある。山の南は寺田村で北は荒屋村である。山を越えて鹿角郡と行き交う。山道は21里である。麓は寺田川の水源で天狗橋という橋が架かっている。橋を渡って鹿角郡に向かう地である。山の中に大きな滝があり、不動の滝と呼ばれる。


八葛山

高洞山

玉山

 これらの山々は盛岡城の北西にある。


姫神嶽(現:姫神山)

 沼宮内の里の真南、玉山村にある。山上に神社があり、須世理比売命がおられる山であるので姫神嶽と呼ばれるようになった。現在は訛って姫个嶽ひめこだけと呼ばれるようになった。

(このように呼ぶのは比米加美の美を除く語勢で大昔によく見られた。また青根个嶽あおねこだけなどの例で、个は之の意味をなすもので、これも元々姫个嶽だったのではないかと考える人も居るようである。くわえて、我々の山の名に介というのは、大変めずらしい)

 国人の言い伝えによると、岩手山は雄神であり、姫神獄を正妻とし、早地峰山を側室にした。これに姫神獄は大変嫉妬し、ついには離婚してしまった。姫神獄は大変恨み悲しみ、常に麻糸を束ねた紐を取って、岩手山に投げつけたため多数の小塚ができた。現在この小塚を丸緒盛(へそのもり)というのは、ここから来ている。またこの山に参拝登山する人たちは同じ年に岩手山には登ることはできない。岩手山に登ったものは姫神山には登ることはできない。もし登ったならば必ず災いをなすとして恐れられている。それは両山の仲が悪いことが所以である。なお山上には直径5~6丈(15~18mほど)の池がある。

 江刺恒久が考えるには、山々が争うという伝説は由来の有るものである。古事記に書かれている、大穴牟遅神(おおむなちのかみ:大国主命)のくだりにある。八上比売はすでに男女の関係になって子をなしていたにも関わらず、正妻である須勢理毘売を恐れてその子を木の俣に挟んで帰ってしまった。(中略)この八千矛神(大国主命)が高志国の沼河比売(奴奈川姫)に求婚に行った際、云々、その日は会わず、その次の夜にお会いになった。そうすると須勢理毘売は大いに嫉妬し日子遅神(これも大国主命のこと)は侘びて出雲から倭国に戻る際、云々、この話はこの山の伝説に関係がある。まず岩手山は大穴牟遅神で姫神獄は須勢理毘売である。正妻として後妻妬んだなどまさにこのとおりである。それは早池峰山の祭神が八上比売か沼河比売かその二神のいずれかを奉ったのに違いない。また万葉集の巻一に高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉(香久山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき)、高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良(香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原)などと詠まれたのもここの赴きによく似ている。この歌の意味としては香久山と耳成山は男神であり、女神の畝傍山を争った歌と読める。こちらは女神の姫神嶽と早池峰山との争いである。この山の争いのごとく、古くはよくよくあったことでありここの故事も大変尊い伝説である。


大豆角山

 盛岡城の北東、米内村にある。(現在名不明)


北山(現在の北山トンネルあたり?)

 盛岡城の正北に位置する山である。高くはなく東から西に長く延びる山である。松杉が繁っている。愛宕山に続いており山下には寺院が多く並び立っている。


愛宕山

 盛岡城の北、三ツ割村にある。山上に神社あり。愛宕の神を奉っているので愛宕山と呼ばれている。西は北山に続いて、南東は田園になっている。

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現代語訳南部叢書 海胆の人 @wichita

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