奥々風土記 巻一 ⑤

阿弥陀堂

 下厨川村にあり、仏像は雲慶が作ったとされる。


青龍権現堂

 盛岡の城下、祇陀寺という寺の境内にある。


観音堂

 城下の長町にある。


阿弥陀堂

 山岸村にある。言い伝えによると、赤穂の義士に加わった同心組、寺坂吉右衛門の墓所とされる。もともと寺坂吉右衛門の生まれが陸奥であったため、かの仇討ちのあとに家族に会おうとしてこの地に下り死んだとされる。


観音堂

 沼宮内村にある。


御堂観音堂

 御堂村にある。そのむかし天喜五年(1057年)に朝敵安倍頼時を討伐するために、大将軍頼義朝臣が追討使に任命され、頼義・義家親子が陸奥に下向した際に、軍で使う水が不足したのでなんとかしようと、義家朝臣自らが岩を射たところ、水が湧き出した。これに力を得た軍は敵共をことごとく誅殺した後に、この地にお宮を造営した。仏像は義家朝臣の髷に入れていた小さな仏像を安置し、北上山新通法寺を建立した。仏像は河内国壺井にある通法寺のものであったため、新の字を付けて、新通法寺と命名された。ない清水は今なお湧出しており、既に北上川の源流の一つとなっている。

(言い伝えによると、この御堂にの宝物に大変古い釜がある。これは義家朝臣が陣中で使用したものと言われている。直径二尺八寸余り(約106cm)、高さは一尺六寸(約61cm)の大釜で今でも残っている)

(現在の正覚院観音御堂・弓弭ゆはずの泉)


七面観音堂

 寺田村の白坂というところにある。(現在の江峰山聖福寺)


観音堂

 川又村小野松というところにある。古老が伝えるところ、後奈良天皇の時代に萩原左中将将清公が流されてきたときに、子である藤若の君が天文二十一年(1552年)のころにこの村の川辺である舟場瀬と云うところで亡くなった。観音をたたえてお守りとして持っていた観音像を添えてここに奉納したという。藤若の君の太刀は未だにあると云う。

(現在の盛岡市小鳥沢にある小野松観音)


東顕寺(山号は松峰山と伝わる)

 三割村(現盛岡市名須川町)にある。不来方こしかた城主の代々の菩提寺である。その昔は城内にあったが、文禄年中(1593年-1596年)、南部利直が三戸城は不便とのことでこの不来方城(盛岡城)を改築し、居城と定めたときに、今の三割村に移設させた。

(底本では「こしかた」となっているが、盛岡の古名は「こずかた」となっており、どこかで訛ったか?詳細不明)


妙泉寺

 加賀野村にあり。これは閉伊郡のところで述べる。


本誓寺

 三割村にあり。もともと斯波郡(紫波郡)にあったものを天正年中(1573年-1592年)、火災によって焼失し現在の地に移設された。これは京都東本願寺の末寺にして、浄土真宗の中の第三番の寺格である。

(言い伝えによると厨川古城から発掘された太刀が安置されているとされる)

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