乗客

江川太洋

乗客

 離陸の瞬間は、本当にたまらない。

 地面と接触している感触がふいにすこんと抜けて、全身が浮遊感に包まれるこの瞬間が本当にたまらない。

 私がたまに離陸を嫌う話をすると、うち数人は必ず確率論の話を持ち出した。飛行機事故が起きる確率は自動車事故に比べて遥かに低いのだから、怯えること自体がおかしいという理屈である。鉄の物体に密閉されて遥か上空を浮遊する今この瞬間では、それは慰めにはならなかった。それにその論旨は、事故が起きる確率について述べているだけで、事故が起きた際の生存率は全く考慮されていなかった。自動車事故は状況次第で生存できる可能性があるが、飛行機事故は一端起きたらそれで終わりなのである。

 ただでさえ落ち着かないのに、右隣の窓際の席に座った大男が明らかに挙動不審で、私は気が気ではなくなった。顔の下半分をマスクで覆い、灰色のジャケット姿のその男は、私と同じく四十代半ば頃で、商用目的で搭乗しているように見えた。

 男は私が自席に着く前から席に座っていて、その時点で既に不審だった。腰を浮かせては何かと機内を見回し、一端満足したのか、落ち着いて深々と座椅子に身を沈めていたが、飛行機が滑走路を疾走する間際になると、シートベルトをしたまま腰を浮かせてまた周囲を見回し始めた。私は勘付かれないように視線の端で男を窺っていたが、必死に何かを探し回る、男の瞳の激しい動き方に薄らと寒気を感じた。

 私は思わず周囲を見回したが、師走時のこの夜の便はほぼ満席で、何処にも逃げ場はなかった。コロナウィルスのことが一瞬頭を掠めたが、それよりも私はすぐ隣の、何をしでかすか読めないこの男の方が嫌だった。

 そんな状況で飛行機が離陸し、睾丸が窄まる浮遊感に私が我慢していると、腰を浮かせて背後を振り被っていた男が急にびくっと背を竦め、いきなり荒々しくシートベルトをまさぐって外そうとし始めた。恐怖に駆られた私は機先を制するつもりで男に声をかけた。

「あの、どうかしましたか?」

 男は声をかけられて驚いたようだった。ぴたりと動きを止めて私を振り返り、そこで我に返ったようだった。男はマスクの奥から太い溜息を漏らすと、急に諦めたように身体の力を抜いて座席に深々と沈み込んだ。はーはーと鼻息が荒く、安定した状態には見えなかったので、私は恐る恐る男に声をかけた。

「具合が悪いんですか? 添乗員呼びましょうか?」

「いえ、大丈夫です。すみません」

 即座に素に醒めたような男のその口調が、却って不気味だった。そう言われたら介入する余地もないと思った私は正面を向いたが、ちらちらと私を盗み見てくる男の視線が疎ましく、私は思わず尋ねてしまった。

「はい? どうかしましたか?」

 すると男は慌てて被りを振ったが、その仕草は明らかに私に声をかけていいか逡巡している仕草だった。私は私で決して関わりたくはないので黙っていると、男がおずおずと私に声をかけてきた。

「あの、こんな変なことを窺うのも何ですけど、一つだけ良いですか?」

「え、何がですか?」

 初対面の人間に、いきなりこんな質問をされて警戒しない人間はいない。男もそれは念頭にあるらしく、ますます口調が柔らかくなった。

「あの、あそこの席なんですけど」

 男はそう言って上体を捩じると、背後の一角を指で示した。私も首を捻じ曲げて男の示した方角を振り返った。私たちの席は機内を中央で区切る添乗員の待機エリアのすぐ右斜め後ろにあり、振り返った私の視界に映ったのは最後尾まで人で埋まった、縦に三列に伸びる座席の連なりだけだった。何を示したいのかが分からず私が男を窺うと、男は真後ろを見たまま私に説明した。

「真ん中の列がありますよね。三人掛けの。その三つ並んだ左の席の、一番後ろから五列目の席ですけど、何が見えますか?」

 男の言うままに私は視線で席を辿り、見たものをそのまま口にした。

「空席ですけど。それが何か?」

 男が私を凝視した。私は落ち着かなくなり、逆におかしなことを言ったのか訝ってしまった。男が勿体ぶった調子で訊き返してきた。

「空席。そう見えるんですね?」

「そうですけど。え、違うんですか?」

 私が逆に尋ねると、男は僅かに身を乗り出して何かを言いかけたが、直後に自制したようにまた上体を引っ込めると、軽く頭を下げて言った。

「いえ、変なこと訊いてすみませんでした。あ、もう大丈夫なんで、忘れて下さい」

 そう言って前方に向き直った男を、私はしばし凝視してしまった。それはないと私は思った。私は臆病なのに短気で、この時も一瞬の短気からつい口を挟んでしまった。

「いやあの、それで大丈夫って仰られても、こっちは気になるんですけど。何なんでしょうか? 空席じゃないんですか?」

 私が言うと、男は弾かれたように私を振り返った。私から反駁されるとは予想もしなかったようだった。私が無言で男を凝視していると圧力に屈したのか、男は迷いがありありと窺える小声で呟いた。

「うーん。そうしても……いや、でも信じて貰えない、っていうか」

 私は即座に返した。

「もし信じられなければ、それこそほっとするんですけど。何も分からないのが気になるんで、信じる信じないは一端置いといて、何なのかお聞かせ願えませんか?」

 私がそう言うと、男は観念したといったふうに大きく溜息を衝いてから言った。

「そうですよね、すみません。じゃあ、どう思われるかは忘れて、単純に見えるものを言いますけど、空席って仰られたその席ですけど、見えるんです。その、座ってるのが」

「えっ?」

 私はもう一度背後を振り返ったが、私の目に映るのはやはり青いシートのかかった空席だった。私が男に向き直ると男は淡々と私を見返してきて、私の短気は一挙に萎んだ。私は男を追求したことを後悔した。そんな話は信じないのは勿論だが、それよりも精神に支障を来しているらしきこの男が、急に豹変して危害を加えてこないかが不安になってきた。かといって、私こそ急に掌を返して男を刺激してはまずいと考えて、私は話の腰を折るタイミングを探るつもりで男に尋ねた。

「何が座ってるんです?」

 私が尋ねると、男は即答した。

「男です」

「どんな男です?」

 私の質問に、男は答えを探すようにしばし宙に視線を泳がせた。

「あの、うちの親父は末期癌で亡くなったんですけど。最期は日焼けしたみたいに真っ茶色になって、頭蓋骨に皮を張ったみたいに痩せちゃったんですけど、ちょうどそんな感じです。色黒で痩せてて、不健康そうで、目だけがぎろぎろ光ってて」

 私は内心、この男は真性だと思った。私は怯えつつ疑問を口にした。

「それは、要は、幽霊ってことですか?」

 男は曖昧に被りを振った。

「僕も最初はそう思ったんですけど、でも、やっぱりそうじゃないと思います」

 勝手に自己完結しているような男の口振りが、私をますます不安にさせた。私は何となく男の言葉尻を捕えてしまった。

「最初って、じゃあ、もう何度か見てるってことですか?」

 私の質問に頷いて男が答えた。

「今までに何度か。だから僕の考えは、多分当たってると思います。あれは幽霊じゃないです」

「じゃ何だと思うんです?」

 その質問には明らかな躊躇を示したが、男は意を決したように小声で口にした。

「死神だと思います」

 私が黙っていると、男が不安げに私の顔色を窺ってきた。自分がどう思われるかには忖度するようだが、その認識自体は疑っていないようで、私はここで調子を合わせるしかないと諦めた。

「どうしてそう思ったんです?」

 私が尋ねると、男は私にありありと疑いの目を向けながら訊き返してきた。

「あの、そんな話、本当に訊きたいですか? それなりの長話になりますけど」

 改めて訊かれた私は一瞬激しく迷ったが、男を刺激しない安全策を選んで頷いた。男はしばし以外そうに私を眺めた後に、前田だと自ら名乗ってきた。私も山本と名乗り、それで少しだけ互いに喋り易い空気が生まれた。前田は軽く咳払いをすると、過去を辿るように目を細めて喋り始めた。

「僕がそいつを初めて見たのは、小三か小四の三箇日の時ですね」

 私は聞いていることを相槌で示すと、前田は歯切れ悪く、しかし真剣に喋り始めた。

「うちの母方の祖母が一族のゴッドマザーみたいな人で、毎年その人を囲んで まあ母方の親族一同で年越し祝いの会食をしてたんです。毎年、円卓のある中華屋の個室で。子供は好き勝手に走り回って、大人も昼から酒が入る喧しい会です。で、その時ですけど、僕は親父と一緒にトイレ行って、後から出てきた親父に廊下の先を指差して、あれ誰? って訊いたんです。その廊下の先には親戚のおばさんがいて、そのおばさんが誰かと喋ってるんです。親父は、何々おばさんだろ、って言うんですけど、僕が訊いてるのは、そのおばさんと喋ってるそいつのことです」

 前田の言葉を私は遮って尋ねた。

「そいつって、今、後ろに座ってるっていう、その?」

 私の語尾は曖昧だったが、前田は頷いて平然と言った。

「全然変わんないんですよ。小三だか小四だかに見た時と、今見てるのと見た目が」

「え、全く同じなんですか?」

 私の質問に頷いた前田が、続きを喋り始めた。

「何度訊いても、何々おばさんしかいないって、親父が言い張るんです。見ると親父も酒で真っ赤になってて、怒られそうなんで追及は止めました。でも、明らかにそいつと談笑してるんですね。埒が明かんと思って、後から直接本人に訊いた方が早いと。で、お年玉配りタイムが始まって、おばさんが僕のところに来たタイミングで、さっき廊下で誰と喋ってたんですか、って尋ねたら、きょとんとした顔されて。誰とも喋ってないよ。トイレ行っただけだし、って。こっちこそ、えーって感じで。向こうが嘘付いてるのか、僕がおかしいのか、何だかよく分からなくなって、それ以上話すのは止めたんですね。その一週間後くらいですかね。心不全だかで急に亡くなったって、うちに電話があったのは」

 それを聞いた私が意外に思ったのは、前田の妄想に何らかの形で符号する事象が実在したらしきことだった。死神が前田の脳内でのみ存在するのは疑いがないにしても、その親戚が死んだことまでは妄想ではないだろうと私は思った。私は前田に尋ねてみた。

「でもそれは、ただの偶然では?」

 前田は素直に頷いた。

「勿論そうも思いましたし、それと同時に、やっぱり嫌だなあって思いましたよ。人の葬式とか、死に顔を見たのも初めてですし。あそこでおばさんと喋ってたあれは一体何だったんだとも思ってましたけど、それだけじゃ結局は分かんないですよね?」

 その見解は妥当に思えたので私が頷いて同意すると、前田が先を続けた。

「でもそこから、そうですね、二十年ちょいは遭わなかったから、完全に忘れてました」

「次は何処で遭ったんですか?」

「会社ですね」

 前田の答えに私は、妄想がそこまで実生活に食い込んだのかと暗澹とした。

「会社はどちらに?」

「大手町です」

「いいところですね」

 前田はそれには反応せずに説明を続けた。

「うちの社ですけど、オフィスビルをワンフロア借り切ってまして。まずパーテーションで仕切った正面受付があって、右側に社員専用の通路があって、その先がオフィスです。左側は商談スペースになってて、テーブルとか間仕切りしたブースとかが並んでるんですね。社員用のドリンクバーも、その商談スペースの奥にあるんで、休憩で飲み物を取りに行く時には、いちいちフロアを横切って商談スペースの奥に行かなきゃならないんです。で、午後休憩しようと思って、テーブルとかブースが並んだスペースの隅っこを横切ってたんです。まだ真っ昼間ですよ。外も晴れてて。けっこうテーブルが埋まってて、あちこちで商談してる中で、同僚の一人がこっちに背を向けて座って、誰かと喋ってるんです。ああ、商談してるのかと思って、相手を見た瞬間、ええっ? てなって」

 そう言うと前田は、目を見開いて身を乗り出す仕草を私に向かって再現した。私は僅かに身を引きながら尋ねた。

「見た瞬間、あっ、て分かったんですか?」

「はい、時間差ゼロです。一気におばさんのこと思い出して。僕はこんな齢になってるのに、あっちは見た目が全然変わってなくて。こんな晴れた日中でも普通に現れるのかって思ったら、何だか怖くなっちゃって」

 そう聞かされる私にも、次第に前田の抱える怯えが伝播してきそうで嫌だった。私はそれを圧して前田に尋ねた。

「それで、その同僚の方は?」

「自殺しました」

 あっさりした前田の答え方に、私はぞっとした。

「朝の田園都市線に飛び込んで。当時はけっこうニュースになりましたね」

「その同僚の人って、そういうメンタルに不安があった人なんですか?」

 前田は静かに被りを振った。一瞬私と前田の目が合ったが、幾分血走った前田の目には明らかに怯えが滲んで不安げに視線が揺れていた。私はそんな目で凝視されて怯んでしまった。前田が静かな口調で続けた。

「いえ。むしろ、かなりポジティヴシンキングな奴でしたよ。人当たりも良いし、何か楽しそうにやってましたからね。僕だけじゃなくて、会社中びっくりしちゃって」

 私が無言で前田を見ていると、前田は咳払いをして言った。

「そうですよ。間違いなく、そいつに遭ったから、彼は飛び降りたんですよ」

「その同僚は、それに遭って何日後に飛び込んだんです?」

「二日? 早かったです」

「誰と喋ってたかは、後で――」

「聞きました。ランチを取りながら」

 私の質問を遮って前田が先に答えた。先を促すまでもなく、前田がそのまま答えを続けた。

「否定してました。その時間はPTの会議だったから、商談なんてあり得ない、って」

 私は前田の戯言に次々と事実が積み重なっていくことが、はっきりと不快だった。報道された客観的事実だけは、幾ら反論を考えても覆しようがなかった。その事実を受け容れざるを得なくなると、こんな密閉された状況下の中で前田の話がますます帯びてくる厭な信憑性に、私は徐々に気圧されるものを感じた。

「その時ですか? それを死神と思うようになったのは?」

 私が訊くと前田は首を横に振り、まだあるのかと私は思った。

「いえ。友人の話を聞いた時です」

「聞いた? じゃあ前田さんが、見たんじゃなく?」

 前田は頷いて説明を始めた。

「大学の頃の友人なんですけど。向こうは結婚して子供もできて、そうなると会える機会も減って、ここ三年くらい疎遠だったんですけど。したら、いきなり向こうから電話が来たんで、びっくりしたのと嬉しくて。でも、久し振り、元気、とか訊いてくる向こうの声が細くて力がなくて、どうしたの、って訊いたんです。するとそいつが、いや、俺ね、癌になったんだよ、って言い出して、えーってなって、それですぐ会おうってことになりまして」

「それが、いつのことですか?」

「去年の冬です」

「もう、つい最近ですね」

 私がそのままの感想を漏らすと前田が、ええと答えながら頷いて、再び口を開いた。

「そいつん家の傍の、茶店で会ったのかな? 見てびっくりしました。見た瞬間に、もう末期って分かる痩せ方で。そいつガタイが良くて、顔もこう、碁盤みたいに四角いんですけど、顔も一回り縮んで、身体もひょろひょろになって。会う前は何で急に電話したの、って訊こうと思ったんですけど、そんなの見ないでも分かりますよ。多分、最期と思ったから、会おうって思ってくれたんですよ」

 私は前田に頷くことしかできなかった。前田が続けた。

「そいつ、しきりに会えて良かった、良かったって、感極まった感じで何度も言うんですよ。悪いなあと思いながら、何か寒気がしましたよ。一応、そんな弱気なこと言うなとか、またいつでも会えるだろとか、自分でも気休めって分かってることを言ったんですけど、そいつ、もう最後だからとにかく良かった、って言い張るんで、頑張って貰いたくて訊いたんですね。何でそんな最後って言い張るんだって。そんなの誰にも分かんないだろ、って。すると、そいつが確信し切ってるって感じで、やんわり否定したんですよ。いや、俺には分かると。あいつがずっと付き纏ってくるから、って」

 前田が言葉を切ると、機内に薄らと響く低い空調音とエンジンの起動音、時折気流を突き抜ける時のものらしき、ごおおと空気を切る音などが妙に浮き立って響いてきた。

「え、それって――」

 私がそう言ったきり口を噤むと、前田が頷いて言った。

「ええ。話を聞いたら、僕の見たものと同じでしたよ。浅黒くて、癌患者みたいに痩せこけて、目がぎろぎろした男。そういえば、何処となくそいつにも似てましたね」

 前田がいきなり神経質そうな笑い声を上げて、私は飛び上がりかけた。

「その、前田さんが見たのと同じものに、その友人は付き纏われたと?」

「はい、そう言ってました。初めて見たのは朝の通勤時の駅のホームだそうですが、列に並ぶそいつを遠目に見た瞬間、ヤバい! って直感したそうですが、もっと最悪なのが、視線を察したのか、急に振り返って微笑んだらしいんです」

 私は前田の話を聞きながら、皮を貼り付けた頭蓋骨みたいな面相の男の、歯を剥いた凄惨な笑みを想像してしまった。私は次第に前田の話を聞くのが苦痛になってきたが、前田は先を続けた。

「見られた! って全身に危険信号が走ったそうです。そいつは子供の頃に、上った木から落ちる瞬間に、落ちる! って全身に危険信号が走ったらしいですけど、事故る寸前のそういう感じと同じだそうです。ヤバいと。何でかそいつにも僕みたいにそれが見えて、しかもヤバいって直感したから、その後も遭遇する度に必死に逃げたんだそうです。ならどうして、そんな末期癌になったんだって思いましたけど、聞いて納得しました。何処までも付き纏ってくるんだそうです」

「最悪ですね」

 思わず私がそう漏らすと、前田が心から同意した感じで頷いた。

「僕もそれ聞いて、すごく嫌な気分になりました。追っかけて来んのかと。見えないと気付かないうちに喋って引き摺り込まれて、見えても付き纏ってくるなんて、要はこういうことじゃないですか?」

 前田は一端言葉を切ると、私の顔を真顔で覗き込んで言った。

「見たら終わりだ、って」

 その一言は鼻で嗤うどころか、私の胸に重く沈み込んでいった。私は面白くないと思った。私は咳払いをすると、答えの予想できる質問をした。

「その友人も、結局は?」

「はい。その二週間後ですね。奥さんから訃報が届いたのは。ああ、言ってたことはほんとだったな、って思いましたよ。あれがほんとに最後のチャンスだったんだな、って」

 私はもしこの話をバーのカウンターで聞いていたのなら、面白がって鼻で嗤っていられたのだろうかと考えた。私はこんな時に飛行機に搭乗した自らの不幸を呪った。私は突然思い付いて前田に尋ねた。

「今、そいつは何してるんです?」

 前田が弾かれたように背後を振り被り、再び座席に身を沈めながら答えた。

「正面向いて座ってました。何処見てるのかは、よく分かりません」

 私はそこで搭乗時から前田がしきりに機内中を見回していたことを思い出して、思ったことをそのまま口にした。

「そういえば、離陸する時に、ずっとそいつの姿を探されてましたよね? すると、それを見たのは初めてじゃない、ということですよね?」

 私の質問に前田は頷いた。私は浮かんだ次の質問を口にするのを一瞬躊躇したが、やはり訊かずにはいられなかった。

「すると、前田さんも、ある意味同じ状況ってことですか? その、友人の方と?」

 私の不躾な質問は、完全に場を凍らせてしまった。前田はすぐには反応できなかった。ゆっくり私に向き直るマスクに覆われた顔には全く表情が認められなかったが、その黒い瞳は隠しようのない揺らぎや怯えを宿していた。前田は軽く息を吐き出すと、観念したような口振りで応じた。

「そうですね。その意味では、僕もまた逃走中である、っていうか」

「でも逃走って――」

 周囲を見回した私が絶句すると、そんなことは分かっている、と言わんばかりの素振りで前田が頷き、自棄気味な笑い声を発した。

「ええ、そうですね。見事に追い詰められました。あとは奴が今は僕に用がないことを、着陸まで祈るばかりですね」

「ご自身で初めて見たのは、いつなんですか?」

 私が尋ねると、マスク越しでも前田が自嘲の笑みを浮かべたのが分かった。前田は軽く被りを振って言った。

「二月ほど前ですけど、つい昨日のようですね」

「何処で、どうご覧になられたんです?」

 前田は私の眼前に、指を三本立てた右手を突き出した。

「三度見ました。一度目は会社のトイレの鏡の中で。振り返ったらもういませんでしたけど、確実に見ました。二度目は商談中の虎ノ門の雑踏で。三度目は、そうですね、まあまあ近くですね」

 歯切れ良く喋っていた前田がそう言ってふいに口を噤んでしまい、私は止めてくれと思った。私が前田を凝視していると、前田は私の視線に耐えられなくなったのか、罪を自白するような口調で言った。

「家の枕元です」

「まあまあって、めちゃめちゃ近いですね」

 ええ、と答えた前田の顔は、泣くのを堪えている感じに崩れかけていた。

「つい先週です」

「先週?」

 驚いて声を上げた私に、前田が頷いた。

「眠れなかったんです。何か寝苦しくて。それで観念して目を開けたら、ああ、だから開けたくなかったんですけど、暗闇の中で、それが身を乗り出して僕を見下ろしてるんですよ。笑いながら」

「それは夢では?」

 そうあって欲しくて私が尋ねると、前田は苦笑して被りを振った。

「うちのマンション前は車通りが多くて、深夜に車が通ると動きに合わせて、窓に入ったランプが部屋の端から端に移動するんですけど、車が通る度に光がそいつの右頬をぱあっと照らしてまた暗くなって、完全に現実の物理法則に則ってるんだ、って布団で思ったのをはっきり覚えているんで、夢じゃないですよ」

「それで、どうなったんです?」

 いきなり前田が可笑しそうに笑い始めたので、私は口から心臓が飛び出るかと思った。

「何もできなくて、頭から布団被ったんですよ。非合理ですよね。逃げればいいのに、ずっと消えろお、って祈ってました。朝になって日が入ってきたんで、布団捲ったらもういませんでしたけど。でも家に来るようじゃ、もう終わりも近いな、って」

 私は眼前の前田が、数秒後に心臓発作を起こす人間のように、到底自分の手に負えない存在に感じられてきた。私は数秒固まって、かろうじて口にした。

「いやその、まだ、そうと決まった訳では――」

「立った!」

 素早く背後を振り被った前田が叫び、私は胃を蹴られたような驚きに打たれた。思わず私も背後を振り返ったが、私の目には全く何も映らなかった。

「何も見えませんよ」

 私は思わず詰問口調になったが、前田は背後に視線を釘付けにしたまま首を振った。

「いえ、通路に立ってます」

「こっち見てるんですか?」

 私の質問に、前田は目を細めながら答えた。

「いえ、座席を見回してます。あっ、何笑ってんだ?」

 前田の一言に、氷水をかけられたような寒気が私の背筋を貫いた。前田が感に堪えかねたように呟いた。

「何であんな、にたにた満足そうに……」

「こっち見てますか?」

 私の頭にあるのは、眼前で前田が発作を起こさないかという怖れだけだった。よく見ようとするあまり、前田の頭が座席から大きく突き出ているのに気付いて、私は危うく前田を怒鳴りかけた。私は小声で注意した。

「頭出てますよ、もっと低く」

 しかし前田は全く聞いていなかった。いきなり立ち上がりそうな勢いで身を乗り出すと、えーっ! と大声で叫んだ。

「どうしたんです!」

 思わず私は怒鳴ったが、前田の口走った言葉は支離滅裂だった。

「ええっ、俺じゃないの?」

「さっきっから何言ってんです?」

 私が怒声を発すると、呆然とした口調で前田が呟いた。

「歩いたと思ったら、座席を擦り抜けてあっちに消えて」

 答えながら前田が指差したのは、私たちの座席の傍の壁だった。私は呟いた。

「え、あの壁の先って、右の翼じゃ」

 私と前田は思わず顔を見合わせた。

「まさか」

 前田が小声で呟いた。私には前田の考えていることが分かり、座席に座ったまま頭から血の気が引き、背もたれに自分がもう一段沈むのを感じた。前田は私が察したことを感じ取ったらしく、目に涙を溜めながら小声で私に囁いてきた。

「ごめんなさい、ほんとごめんなさい。何の縁もなかったのに、たまたま僕なんかと乗り合わせたばっかりに」

 私は前田の口調に含まれた心からの謝罪の念にこの先の命運を直感して、暗雲のような諦念が心を覆っていくのを感じた。私は瞼に溜まった前田の涙を見ながら、私にとっての死神とはこいつではないかと思った。前田は苦しげに釈明をし始めた。

「僕だって、こんな状況で飛行機なんか、乗りたくなかったですよ。ほんとですよ。でも出張しろって言われたら、もうしょうがないじゃないですか? 僕だって仕事があるんです。どうしようもないじゃないですか?」

 その繰り言じみた前田の釈明を一発で掻き消す破裂音が耳をつんざき、信じられないほど大きく縦揺れを起こした機内が一挙に騒然となった。私は反射的に前田の肩越しに覗く窓に目をやって、大声を上げた。霧みたいな暗灰色の夜空が覗くばかりだった窓の下方から、爆発音と共に橙色の目に焼き付く閃光が幾度も迸り、その度に機内は縦だけではなく斜めにも激しく揺れ、機内に重なった無数の絶叫が一続きの単音のようになった。

 紺色の制服に身を包んだ添乗員たちが機内を駆けずり回り、機長のアナウンスが機内に流れた。右翼エンジンにトラブルが発生したことを認め、その上で左翼エンジンは順調に稼働しているので問題はないことを淡々と説明したが、説明する端から断続的だった機内の揺れが次第に継続的になり、右方の窓はエンジンの発する炎と火花で飴色に光り輝き、アナウンスも絶え間ない轟音に掻き消された。

 私は急に眼前に垂れてきた、玩具みたいな黄色い酸素吸入器から目が離せなくなった。金属が軋む轟音に包まれて視界が右に左に激しく揺れる中、全座席にぶら下がった酸素吸入器が機内の揺れに合わせて激しく踊っているのを眺めながら、私は白昼夢とはこういう現実感を欠いた感じなのかと考えていた。

 私がふと前田に目をやると、前田はマスクを額に摺り上げ、口元を覆う酸素吸入器を両手で抑え付けながら背を丸めていた。吸入器に縋る前田を見る端から、そんなことをしても無駄だという気持ちが私の中から湧き上がってきた。

 私が天文学的な確率で当たり籤を引いたのは疑いがないが、こんな引き方をするとは予想もしなかった。まさか私たちと同じ姿形をした死神と同乗する確率など、飛行機に乗る度に警戒することがあるだろうか? 私がいつか引き当てるかも知れない確率とは、もう少し真っ当な理由に基いて訪れるものだとばかり思っていた。

 上下左右に激しく攪拌されながらもかろうじて平衡を保っていた機内が、ジェットコースターが降下した瞬間のように一挙に急降下し始めた。視界の端に乗客と共に悲鳴を上げる添乗員の姿が映り、いよいよこれは終わりだと痛感した。急激な落下感に私は包まれ、離陸時に感じるそれとは全く比較にもならなかった。睾丸が窄まるどころか、胃が口から飛び出そうなほど激しい落下感に苛まれながら、これはたまらないと私は思った。

 足の下に地面がないこと、自分が今まさに超高速で空中を落下していること、絶対に助からないこと。それらの全てが、本当にたまらない。

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