第36話 可笑しな洋菓子店

 あれからちょうど二週間が過ぎた。ラウドの死によって吸血鬼による殺人事件の噂はピタリと聞かなくなり、東京はすっかり平穏を取り戻した。


 ここ、洋菓子店ル・ベーゼもいつもと変わらぬ賑わいを見せている。あれ以来、聖騎士のアンやエルク。エルダーの末裔であるサリィの襲撃はまだ無い。ミーシャはつまんないとぼやいていたが、結構なことじゃないか。平和が何より。面倒は起こらないに越したことはない。ケーキの甘い香りと紅茶の上品な香気に包まれて俺は今日も店内を忙しなく動き回る。最初の頃に比べると、この仕事もだいぶ板に付いてきたと実感できるようになった。今では目の回る忙しさでも壁を蹴って店の中を跳び回ることも無くなった。これは俺の中では大きな進歩だ。

ラッシュが一段落した時には時刻は既に深夜十二時前を示していた。客の少なくなったホールの中心に立ち、店全体を見渡してみる。この内装もすっかり見慣れたな。そして、この面子にも。


「ヘイヘイ、センチメンタルに浸るなんて君らしくないじゃないか」

「そーだぞ。気持ち悪いぞ京介」


 いつものテーブルに座っているゼンさんと非番のヘレナが俺をからかう。なんだかんだ、この二人が一緒に来店しているのを見たのは初めてだ。っていうか、気持ち悪いはひどくないですか?


「あらあら、いいじゃないですか。物想いに耽る殿方の横顔。私は好きですよ」

「はっはっは、すっかり人気者ですな、南雲君。いやぁ、ケッコーケッコー」


 藤代さんは頬に手を当てにっこりと微笑み、その横に立つ鳥マスク……もとい、鳥野さんは胸の筋肉をピクピクと動かしながらポーズをキメていた。えっ、そもそもなんで鳥野さん服を脱いでるの? 


「あなたがこの店に来て随分経つものね。すっかり溶け込んでるわよ」


 事務処理を終えてホールに顔を出したミーシャが俺の背中をポンと叩く。


「そうだ。ハイ、これ。少し早いけどお給料」


 ミーシャが差し出したのは厚みのある茶封筒。中には万札がたんまり入っていた。


「おいおい、いくらなんでも多過ぎだろ。流石にこんなには貰え――」

「いいから取っておきなさい。これまでのあなたの働きを考えたらそれでも安いくらいよ」


 慌てて返そうとした俺の唇を右手の人差し指で押さえ、ミーシャは軽くウインクをした。こうなると、俺にはありがたく受取る以外の選択肢は無い。


 ミーシャは時計に目をやると「そろそろね」と言った。ミーシャは目を瞑り、五秒のカウントを始めた。ゼロのコールとほぼ同時に店の扉がゆっくりと開いた。現れたのは、黒い外套を頭から被った小柄の人物。俺たちは彼女の名前を知っている。


「いらっしゃい、静琉ちゃん」


 フードをゆっくり取ると、いつもの静琉ちゃんが恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべていた。生還の喜びを皆で分かち合う静琉ちゃん。その口角からはミーシャのように白く鋭い二本の牙が覗いていた。


「静琉ちゃん、本当に吸血鬼になったんだね」

「はい。この通りです」


 首筋を見せて照れ笑いを浮かべる静琉ちゃん。そこにはぽっかり開いた歯型があった。あの後、静琉ちゃんは一命を取り留めた。ミーシャから注がれたヴァンパイアの力をその身に宿すことで。


「大丈夫です。私、後悔はしていません。それに、ヴァンパイアっていっても太陽が沈んでいる間だけですし」


 そう、静琉ちゃんがヴァンパイアでいられるのは夜間のみ。昼間は牙も消え、普通の人間として生活しているのだ。最初はミーシャも困惑していたが、あれやこれやと調べていく内に大凡の見当はついた。


「それにしてもびっくりですよね。南雲さんに作ってもらったお粥にそんな効果があっただなんて」


 正確には俺があの時、粥に入れた薬草。甲賀の里に自生する〝鬼滅草きめつぐさ〟が静琉ちゃんの吸血鬼化を不完全にしたのではないかというのがミーシャの見解だった。甲賀の里では、秋から冬になる時節に邪気や鬼を払い、無事に春を迎えられるようにと食べられてきたものだ。


 この草には色んな逸話があり、かつて甲賀忍軍が巷で悪さをする鬼を退治するのにこの薬草の汁を煮詰めて刃に塗ったとも言い伝えられている。言わば「鬼殺しの秘薬」なのだ。あれを食していたおかげで体の中で吸血鬼化に対する抗体が僅かながら出来ていたのかも知れない。

吸血鬼も鬼である以上、御多分に漏れず効果があったというわけだ。今にして思えば、あの時ミーシャが粥の匂いに鼻を曲げていたのも頷ける。単なる迷信とばかり思っていたが、案外馬鹿にできないものだなと感心してしまった。


「大切なものも取り戻せたし、私は満足です」


 その後、静琉ちゃんはお母さんと仲良くやっているようだ。今まで止まっていた家族の時間がようやく動き出したのだ。その喜びが静琉ちゃんの表情や弾む声からも容易に伺える。


「ねえ、京介」


 ミーシャが神妙な顔つきで俺に話しかけた。


「あのね……その……」


 随分歯切れが悪いな。なんだろ、もしかしてやっぱり給与が多すぎたから少し返せとか? 別にいいけどさ。


「今後のこと……なんだけど……」

「今後って?」

「う、ううん! 何でもないっ」


 ミーシャは顔を真っ赤にしてそう言うと、そっぽを向いて逃げるように厨房へ戻ろうとする。いや、ちょっと待て。そこまで言われた気になるだろ。最後まで言おうぜ。


 ミーシャを引き止めようとした時、俺の足元に一枚の封筒が落ちているのに気付いた。ミーシャが落としたものだろうか。ん? でも宛名が俺だぞ。


「そういえば……」


 それを見た瞬間、俺はふと思い出した。以前、俺宛ての封筒を巡ってミーシャと軽い争奪戦を繰り広げたことを。あの時は懸賞とばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。

俺はそれを拾い上げ、書面に目を通す。


「あっ、ちょっと京介! それ返しなさい!」

「返すも何も、元々俺宛ての手紙だろコレ。えーっと、なになに?」


 俺は高く跳び上がり、シャンデリアに足を引っ掛け宙ぶらりんの状態で手紙を読んだ。


「ははぁーん、そういうことか」


 俺は全て悟った。ミーシャがこれを俺に渡さなかった理由も、さっきの歯切れの悪い質問の意図も。そして今、顔を真っ赤にして俯いている意味も。


「もっと早く見せてくれれば良かったのに」


 あの手紙は以前、面接を受けたフレンチレストランからの採用通知だったのだ。大方、これを見たら俺がすぐにでもここを辞めると思っていたのだろう。


「南雲さーん、その手紙、なんて書いてあるんですか―?」


 静琉ちゃんがシャンデリアにぶら下がっている俺を見上げて声をかけた。俺は返事代わりにその手紙をビリビリに破いて皆の頭上にばら撒く。ひらひらと舞う紙吹雪が何とも綺麗じゃないか。


「京介……」


 引っかけていた足を外し、空中で一回転しながら呆然としているミーシャの目の前に着地する。そして、ぽんと頭に手を乗せてこう言ってやるのだ。


「さぁて、ここの従業員らしく散らかった店内の掃き掃除でもしますかね」


 俺が一人前の料理人になって甲賀の里へ帰るのは、もう少し先になりそうだ。

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ノクターナ!~忍者の末裔である俺が、華麗なるヴァンパイア一族の娘が営む洋菓子店に転職した理由~ 後出 書 @atode_kaku

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