エピローグ


 すべての荷物を運び出し、六畳の部屋はきれいに片づいていた。狭い狭いと思っていたが、物がなくなるとかなり広く感じる。


 長年過ごした自室を美姫は見渡した。

 畳の上にべっこりと跡が残っているのは、そこに勉強机やタンスを置いていたからだ。新たな部屋は洋室で床もフローリングなので、こんな光景を目にすることは二度とないのだろう。ずっと洋室に憧れていたが、いざ離れるとなると存外さびしいものである。

 物心ついた頃から大半をこの部屋で過ごしていたのだからそれも当たり前ことか。それに――


 美姫はそっと押し入れのふすまを開ける。当然、布団などの荷物もすでに片づけは済ませているので中はがらんどうだ。美姫は以前そうしていたように中板によじ登るとふすまを閉めた。

 視界が黒く塗りつぶされる。錯乱していない状態で闇に身を投じるのは久しぶりのことだったので、美姫は少しだけ緊張していた。それでも彼女へと声をかける。


「ねえ」


「なんだい?」


 もしかしたら返事はないかもしれない。そう思っていただけに、彼女の声が聞こえたとき、美姫は無性にうれしくなっていた。


「わたしね、お爺ちゃんの家で暮らすことになったの」


「知ってる」


「それでね、びっくりしたんだけど、お爺ちゃんの家ってすごい豪邸なんだ。わたしの部屋だってここの何倍も大きいんだよ」


「そう」


「お爺ちゃんやお婆ちゃんもすっごく優しくしてくれるし、お母さんもなんだかんだ言って久しぶりに両親に会えてうれしそうだった」


「へえ」


 美姫がいろいろと近況を語るも、彼女は突き放すような冷たい口調で相づちをうつ。

 美姫としては彼女のことを尊敬しているし、感謝だってしている。なので、ぞんざいな態度をとられるのは悲しかった。


「ねえ、今日はどうしてそんなに素っ気ないの?」


「どうして?」


 彼女の声に怒りが滲んでいた。


「それはこっちのセリフだよ。どうして美姫はそんな選択をしたんだ? 世界を壊したかったんじゃなかったのか? あんたが選んだのは敗走以外のなにものでもないんだぞ。本当にこれでいいのか?」


「うん」


「なんでさ! 美姫が逃げたところで、樹理亜共は罪悪感にさいなまれたりしないだろうよ。負け犬がしっぽを振って消えていったくらいに思われるだけだぞ!」


 美姫が迷うことなく即答したことで、彼女の怒りのボルテージを上昇させてしまったようだ。彼女の発する言葉に刺々しさが増していた。


「おかしいと思わないのか? 加害者である樹理亜共になんの罰もなく、被害者の美姫が逃げなきゃいけないなんてさ。あいつらを殺すのが一番正しい方法に決まってるじゃないか。いまからでも遅くない。あいつらを殺せ。殺すんだ」


「残念だけど、それはできないよ」


 美姫はきっぱりと彼女の提案を断る。


「確かにあなたの言うとおり、わたしの選択は正しくはないのかもしれない。でもね、これがわたしが選んだ答えなの」


「なんだよそれ……。無責任すぎるだろ。あいつらは美姫がいなくなったら別の奴をターゲットにするだけだぞ。あんたは自分がいじめられなければ樹理亜という悪を放置していていいっていうのか? そんなの卑怯者のすることだぞ」


「……前に話したことあったよね。わたしの視点で進むこの世界では、わたしが主役でほかの人達はエキストラでしかないって」


「エキストラの人間がいじめられようが死のうが関係ないってか? はっ、主役が聞いて呆れるな。そもそも逃げた先に樹理亜みたいな奴がいたらどうする? また逃げるのか? 立ち向かわなけりゃ、いつまで経っても負け犬だぞ」


 彼女は小馬鹿にした様子で笑う。おそらく挑発して樹理亜の殺害を促そうとしているのだろうが、美姫の決意が揺らぐことはなかった。


「わたしは自分勝手な人間なんだと思う。だから卑怯者に成り下がろうが、負け犬と呼ばれようが、自分が傷つくほうがずっと恐ろしいんだ」


 美姫はそう言うと少し自嘲気味に笑ってみせる。


「それにね、初めてお爺ちゃんに会いに行ったとき、お母さんが土下座したんだ。万引きしたときもそうだったけど、わたしのためにそこまでしてくれるんだよ。わたしなんかのために……」


 その光景を思い出すたびに胸が熱くなる。そして、美姫は母のためにあることを心に誓っていた。


「いままでわたしは問題を全部人任せにしていた。誰かが世界を壊してくれないかってね。結局、最後だってお母さんに頼ることしかできなかった。でもね、今回の一件でわたしはひとつだけ自分の意志で決心したことがあるんだ。それは『わたしは誰も殺さない』ってこと。わたしのことをわたし以上に大切に想ってくれる人がいる限り、わたしは他人も、わたし自身も、殺したりしないって決めたの」


「それじゃあ、わたしは用済みって言いたいのか?」


 美姫の確固たる思いを聞いた彼女は寂しげな声を漏らした。

 彼女からそんな声を聞いたのは初めてだったので胸がちくりと痛んだ。それでも、美姫は準備していた言葉を彼女へ告げる。


「ごめんね。あなたがわたしの心の支えになってくれたのは事実だし、アドバイスをくれたり話し相手になってくれて本当にありがたかった。今日はその感謝と――決別を伝えにきたの」


「はははっ。美姫はなんにもわかっちゃいない。わたしはいつだって人間の内側にいるのさ。つまり、どんな聖人だって潜在的に思っているわけだ。ムカつく奴をぶっ殺してやりたいってね」


 見えていないとわかっていながらも、美姫は大きく首を横に振った。


「わかってるよ。だからこそ、わたしはあなたを否定なんかしない。わたしは弱い人間だから、また人を憎むこともあると思う。殺意を覚えることだってあると思う。でも、それは内側にだけに留めておく。外に出すくらいなら逃げる道を選ぶよ」


「ふん。そんなことできるとは思えないけどな。きっと、あんたはまたわたしに頼ることになるだろうよ。そして、そのときはきっと……」


 彼女は「くくくっ」と意地悪く笑ってみせる。しかし、その直後にぽつりと慈しむような声を出した。


「ま、せいぜい頑張るんだな」


 美姫はなんだかうれしくなっていた。相反する主張を掲げ続けた彼女が、自分の答えを少しだけ認めてくれた気がしたのだ。


「ありがとう――そしてさようなら、もうひとりのわたし」


 美姫は闇を飲み込むかのように大きく息を吸い込むと、がらりとふすまを開ける。


 外の世界はやけにまぶしく感じた。

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闇、喰らう 笛希 真 @takesou

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