親子


「ねえ」


 真っ暗な闇に呼びかけてみてもなんの返事もない。それでも美姫はしゃくりあげる合間に彼女に声をかける。


「ねえ、ねえ、ねえ」


 しかし、何度呼んでみても結果は同じ。闇の向こう側から彼女が応答してくれることはなかった。

 心が乱れているからなのか。しばらくの間、会いにこなかったため、彼女が愛想をつかせてしまったのか。美姫にはわからなかった。


 もうどうすればいいのかもわからない。


 だれも救ってはくれない。


 だれも味方になってくれない。


 もうこんな世界本当に嫌だ。でも、あんな仕打ちを受けたにも関わらす、世界を壊す勇気が美姫にはなかった。


 世界を壊すのが無理なら、こんな世界から逃げ出したい。この闇に喰われ永遠を過ごしたい。


 ――そう思った直後である。


 願いとは裏腹に、その闇を切り裂く光が美姫を襲った。

 反動で目が眩むも、何事かと美姫はその光の方向を見やる。


 そこにいたのは美奈子だった。美奈子が押し入れのふすまを開けていたのだ。


「こんなところにいたのね」


 美姫を見つけた美奈子は安堵の表情を浮かべる。


「話をしたいから、とりあえず出てきなさい」


 もう現実と向き合いたくもなかったが、嫌だとは言えなかった。先ほど自分の気持ちを全部爆発させたということもあり、反発する気力もなくなっていたのかもしれない。美姫は言うとおりに押し入れからい出た。


 美奈子の表情は硬い。なにか思い詰めているようである。

 しかし、なにもしゃべりだそうとはしない。美姫の方も未だに落ち着きを取り戻しておらず、母に対して話しかけることができず、ただ袖を濡らしていた。


「美姫」


 しばらくの沈黙の後、覚悟を決めた様子でゆっくりと息を吐き出すと美奈子は頭を下げた。


「ごめんなさい」


「……なんでお母さんが謝るの?」


「だって、お母さんは美姫がずっと苦しんでいたのに気づきもしなかったんだもの。母親失格よね……」


「そんなこと……ないよ……」


 母が自分のためにいろんなことを犠牲にしてきたことは痛いほどわかっている。だからこそ、美姫は小さく首を横に振ってみせた。


「ありがとう。美姫はやっぱり優しい子ね。お母さんは、そんな美姫のことを一番に考えてあげたいし、美姫が苦しいのなら一刻も早く楽にしてあげたいと思ってるの。だからね、お母さんと一緒に――」


 美奈子は言葉をいったん区切ると美姫に優しく微笑んだ。そして、美姫の肩にぽんと両手を乗せる。


「――お爺ちゃんとお婆ちゃんのところに行こう」


「え? でも、お爺ちゃんって……」


 詳細まではわからないが、母が祖父母と仲違いしていることは美姫も知っていた。幼い頃、お正月に「みんなはお爺ちゃんの家に行っているのに、どうしてわたしの家は行かないの?」と訊いたら露骨に嫌な顔をされたものだ。それなのに、母がそんな提案をするなんて夢にも思っていなかった。


「うん。美姫も知ってるとおり、お母さんとお母さんのお父さんは喧嘩してる。家を出るとき、二度とこんな家に戻るもんかって思ったほどに。でもね、美姫が苦しんでいるのに、自分の安っぽいプライドを貫いたってしょうがないって気づいたの。だから、お母さんと一緒にお爺ちゃんのところに行こう」


 美奈子はそうは言ってくれたものの、美姫としては母の重荷になるということは避けたいことだった。それでなくとも、いままで自分を養うために母は身を粉にして働き続けてきたのだ。これ以上迷惑をかけるのは申し訳なかった。


「いいよ、そんなに無理しなくても。さっきは大げさに言っちゃったけど、いじめっていっても我慢出来ないほどじゃないし、だから――」


 美姫はなんとか笑顔を作り強がってみせようとしたが、途中で言葉を失ってしまう。というのも、しゃべっている最中、美奈子が唐突に美姫のことを抱きしめたからだ。


「お、お母さん……」


「もういいの。我慢なんかしなくって、美姫はいままでずっと我慢してきたんだから」


 美奈子の声に涙が混じっていた。


 母が泣いている姿を見たのなんて初めてのことである。そのため、美姫はすっかり動揺してしまい、いつの間にか自分の涙が引っ込んでいた。


「平気だって。ずっと我慢してきたっていっても一年だけだよ。もう二年我慢すれば卒業だしさ」


「違う。美姫はずっと我慢してきてくれた。お母さんのわがままでこんな貧乏暮らしをさせちゃっているのに、いままで文句のひとつも言わずについてきてくれた。だから、もう我慢しなくっていいの。今度は美姫がわがままを言う番なんだから」


「でも、お母さん、仕事があるじゃん」


「やめる」


 美奈子の腕の力が強くなる。


「お爺ちゃんの家の方で新しい仕事探す。だから、美姫も新しい学校に行こう。お母さんと新しい人生を見つけよう。ね?」


 いつ以来だろう。母にこんな風に抱きしめてもらったのは。それはとても心地よく、なによりも暖かい。そして、心が浄化され自分に素直になっていく気がする。

 美姫はそんな母の胸の中で「うん」とうなずいていた。

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