第4話【終】 護る者
その日の深夜、すっかり眠りに落ちたころ、何か外から音がして目を覚ました。
その音はかなり小さく耳をすまさないと聞こえないぐらいだった。
普段ならそのくらい小さい音では起きない。しかし今聞こえてくる音は確かに聞き覚えのある音だったから、目が覚めた。
窓の外から聞こえてくる。遠くから聞こえてくる音ではない。むしろ、窓のすぐ外から音が聞こえてくる。カーテンを閉めているため窓の外の様子は見えない。
信じられなかった。死んだはずのむぅの声がするのだ。
それも弱っているときのむぅの声だ。生きていたのか。むぅが死んだのは琴子の幻か悪い夢でその間にむぅが外に出てしまって帰ってきたのかもしれない。
ベッドから立ち上がる。足が震えていた。むぅに、また、会える。
ゆっくりと窓に近づき、カーテンを開けようと震える手をのばした。その時、
腕に痛みがはしり、反射的に手を引っ込めた。
暗い中、外からの微かな光で腕を確認した。見ると、15センチメートル程の赤い線が斜めに入っている。血は出ていなかった。
どこにも腕があたった覚えはない。どこかにぶつけたというより、猫に引っ掻かれたような傷だと思った。小さい頃、田舎にいた頃近所の猫に引っ掻かれたような傷……。
田舎の記憶とともに祖母の話も一緒に思い出した。
──“それ”
祖母は名前を知らなかったのか、そもそも名前がないのか、名前を呼ぶことも躊躇われるのか。
もしかしたら、今窓の外にいるのは……。
先ほどよりも声が大きくなっている。確かにむぅの声に聞こえる。
一歩後ずさって、混乱する頭をなんとか冷静にさせようとする。
もし、本当にむぅだったら。開けなければまたどこかに行ってしまうかもしれない。でも、むぅは確かに死んだ。夢だと思いたいけど。でも──
頭の中で思考がせめぎあって、その場に凍りついたように動けなくなっていた。
ふと、後ろの方から微かにカタカタと音がした。音に敏感になっているためか、体が跳ね上がる。室内から聞こえたようだ。
恐る恐る振り向くと、棚の上の何かが微かに揺れいる。確かあそこには、むぅの写真が。
徐々に大きくなる外の声を聞きながら、むぅの写真に近寄る。
写真の前まできた時には、既に写真の揺れはおさまっていた。
「──⁉︎」
思わず写真を手に取った。その写真は空っぽのむぅのベッド写っているだけだ。肝心のむぅの姿がどこにも写っていない。
ついに床にへたり込んでしまった。腰が抜けたとでもいうのか。
窓の外の声は最初は弱々しかったのが、どんどん大きくなっていき、甘えるような声だったものが、今は耳が縮みこみそうな程の大きさの激怒した声になっている。むぅが生きていた頃そんな声は聞いたことがなかった。
そのうちに、猫の声なのかもわからないような音になっていた。それも、一匹や一人の声ではなく多くの何かが開けろ開けろと要求しているようだった。
ついには窓を叩くような音まで聞こえ出した。猫では出すこと不可能な音だ。窓が割られそうだ、叩く衝撃で部屋全体が揺れる。
今まで感じたことのない恐怖で呼吸が上手くできなくなってきた。このまま死ぬのだろうか。
その時、座り込んでいる琴子の膝にずしっとなにか重みがかかった。膝を見てもなにも変化はないが、確かに重い。
普通に考えれば怖いことなのに、何故かその重みは怖くなかった。重みだけではなく、なんだか膝がホカホカと暖かいのだ。呼吸も落ち着いてきて冷静さを取り戻した琴子は耳を塞いで目を閉じ、じっとしていた。今が深夜の何時なのかもわからないが、朝がくるのをひたすら待った。暖かさで怖さは少し和らいでいた。
* * *
どのくらい経っただろうか。ハッと気がつくとカーテン越しに朝日が部屋を照らしていた。
何も音はしなくなっていた。
座り込んだままの姿勢で眠ってしまったのだろうか。
膝の重みはなくなっていた。外の音は恐ろしかったが、膝の重みがなくなっていることには少し寂しさを覚えたのを自分でも不思議に思った。
立ち上がろうとたが、今まで感じたことのないほど足が痺れていた。
なんとか窓のそばまでにじりより床に座ったまま、カーテンを少しだけ開けて、隙間から慎重に外の様子を確認した。
誰も、何もいない。しかし、窓がひどく汚れている。一晩でこれだけ汚れるのは明らかにおかしい。どうやら窓の外側が汚れているようだったのが僅かな救いだ。あまりまじまじと観察すると良くないものを見つけてしまいそうだ。人間の手形とか。あの声の多さだったから、窓についているのが手形だとしても、その多さ故に判別できないだけだろう。
カーテンを閉じようとして、気付いた。床にほど近い窓のかなり下の方についている小さな跡が目に入った。座っていたから気づくことができた。
それだけは形が判別できた。肉球だ。猫がそこに、窓に前足を置いたような。
鼓動が早くなった。昨晩、外に来ていたのはやっぱりむぅだったのでは?
指でその肉球の跡を触る。すると、肉球の跡の形が少し変わった。ということは、これは窓の内側についている。心底ホッとした。むぅが生前つけた跡かもしれない。もしくは──
腕にはミミズ腫れができていた。昨晩の出来事が現実なのだと告げている。
そうだ。むぅの写真。急いで座っていた場所に戻り、写真を拾い上げた。
むぅはちゃんと写真の中にいた。ただ、昨日見た険しい顔ではなく、いつもの顔だと感じた。
琴子はまだ痺れている足で立ち上がって、棚のいつもの場所に写真を戻した。
「──ありがとうね。」
窓が割れないように前足で抑え、窓に近づかないように、しかし血が出ないように引っ掻いて、恐怖に押しつぶされないように膝を暖めて、私を守ってくれた。
そうだ、ご飯とおやつあげないと!と今にも目から決壊しそうな涙を堪えて、キッチンへ向かう。
キッチンに入って、「あ」と間抜けな声を出してしまった。
キッチンの床に散乱していた。戸棚にしまっておいたはずのおやつの包装袋が。全部封が開いて綺麗に食べられている。
しばらく沈黙した後、声を出して笑ってしまった。同時に目から涙が溢れた。これはきっと笑いすぎて涙が出ただけだ、きっとそうだ。
目の端にうつる写真の中のむぅが、満足そうに舌なめずりした気がした。
四十九日の猫 麦野 夕陽 @mugino
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