第3話 過去

  琴子は田舎で生まれ育った。父も母も仲が良く、小さい頃は特に不自由したことはなかった。生まれた時から田舎にいたため、遊びに行くような店がなくても自然の植物や虫と遊ぶことが普通で、楽しく過ごしていた。近所の猫や犬とも遊んだ。猫には構いすぎて血が出るほど引っ掻かれたこともあった。

 ただ、近所に暮らしていた祖母がいつも口すっぱく言う話があり最初は怖がっていたが、耳にタコができるほどだったので琴子は聞き流していた。あのときまでは。


   *   *   *


 父親は車で離れた町の会社に通勤していた。琴子が住む村にはあまり仕事がなかったためだ。

 いつものように琴子が小学校に登校する時間よりも早く父は仕事に向かう。母と、まだうとうとしている琴子に「いってきます」と言って。父の言葉を聞いたのはそれが最後だった。

 登校してからまもなく、切迫した表情の先生から呼び出された。母が学校に迎えに来て、一緒に離れた町の病院へ向かう。

 父は車で通勤途中に交通事故にあった。反対車線からトラックが突っ込んできたと琴子は聞かされた。

 通夜、葬式、なにが起きたか飲み込めないまま怒涛のように時が過ぎていった。

 母は父が亡くなってから塞ぎ込んでしまった。父が生きていた頃はいつもにこやかだったが、力無く座り込み、焦点があっていない目をしていた。琴子が話しかけてもうわのそらな返事をしたり、そもそも琴子の声が届いておらず、なんの反応もしないこともあった。身だしなみに気を使う気力も無くなったようで、髪も肌も荒れていった。琴子は母の絡まった髪を櫛でといてあげた。痛く無いように、毛先から、といた。元気な母に戻ってほしかった。

 父の四十九日を目前にしたある日の夕方。いつものように学校から帰ってきた琴子は家の玄関を開ける。鍵は開いていた。使い込んだ靴を脱ぎなから「ただいま」と家の中に呼びかける。返事はない。母が塞ぎ込んでからは返事がないこともままあったので特に違和感は感じなかった。リビングの扉を開ける。部屋の電気はついていない。テーブルの上には母の飲みかけのお茶が置いてある。それはいつもどおり。しかしいつもと違ったことは、完全に開け放たれた窓と、母がいないことであった。薄暗い部屋から、風で大きく揺れるカーテンの向こうに入道雲が見えた光景が琴子に今でも焼き付いている。

 その日から母が行方不明になった。母の財布などの貴重品は全て家の中に残されていた。荒らされた様子もなかった。祖母が警察にも届け出て、近所の人にも聞いて回ったり探してもらったが、母の姿を見かけた人はいなかった。

 祖母がぽつりと呟いた。


「”あれ”に連れて行かれたんだ」


 琴子は”あれ”について詳しく聞かなかった。祖母がいつも口酸っぱく言っていた話のことだとすぐにわかった。しかし、そのことを認めたくなくて、母は自分から出ていって元気になったら帰ってくるはずだと信じたかった。祖母の話が本当なら、母が帰ってくることはないという考えには蓋をした。押し殺した。

 その日からは、祖母と暮らした。祖母はもう"それ"の話をすることはなくなった。


   *   *   *


 月日はたち、琴子は上京した。

 琴子の村には仕事がないことを見越し、東京の大学に進学して、そのまま東京の会社に就職した。


   *   *   *


 むぅとは社会人になって何年かたってから出会った。

 そんなむぅまで旅立ってしまった。むぅは体調が悪いのを隠していたようで、気付いたときには手遅れの状態だった。それからほどなくして亡くなった。

 そばにいた誰かがいなくなることは琴子にとっては三回目だ。慣れている。大丈夫。自分に言い聞かせだ。

 しかし、仕事中も食事中も布団に入ってからも頭のどこかでむぅのことを考えている。


   *   *   *


 ある日、カレンダーで数えてみた。むぅが亡くなってから四十八日目だった。もうそんなにたったのだ。写真を見るといつもの顔が……琴子はなにか違和感を感じた。

むぅはいつも怒ったような顔をしていた。この写真もそうだ。しかし、今見ている写真のむぅはいつもより険しい顔をしているような気がした。

まさか、気のせいだ、と誤魔化した。

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