最終話 或る小説家の戯言 其の弐

 彼女は結構長い間、話していたみたいでした。あんなにも死にそうな声をしていたのに。いや、死にそうだからこそ、ですかね。誰だって未練を遺して死にたくはないですから。


 そういえば、ああいう音が響きやすいところは、叫び声より小さい声のほうが意外と通るものなんですね。大きな声は振動が大きくて、むしろすぐ散ってしまいますから。彼女の声は枯れていたけど、僕は途中から耳が慣れたので言葉の起伏くらいは聞き取れました。


 そのとき僕は、彼女は誰かに語りかけているんだと信じて疑いませんでした。ただ、後で冷静になって考えてみると何か変なんですよね。


 それというのも、言葉への返答が何ひとつ聞こえなかったんです。彼女の声は明らかに誰かと話しているような抑揚なのに、他の声は一度だって聞こえませんでした。響いていたのはずっと、あの乾いてひび割れた声だけです。


 それに、彼女の声が途切れてから、その声のした方から出てくる人の気配はありませんでした。まあ、彼女が息絶えてからずっと、彼女のご遺体と一緒にいた可能性もありますけどね。でもそれにしたって不自然でしょう。


 それもひっくるめて考えればあれは全部独り言で、やっぱり彼女、気が狂っていたんでしょうかね。死ぬ前って皆あのように、儚げに不気味になるんですかね、本当に人間の死っていうのは変なものですね。


 ところで貴方、彼女のこと調べていてどう思いましたか。いえ、別に変な意味とかではなく、僕も一応小説家の端くれでして、できるだけ広い意見を求めている次第です。僕次の新作で彼女の話書きたいんで、ご協力いただけないでしょうか。


 ……ああ、やはり彼女にはあまり良い印象はないのですね。あの奔放な男性遍歴ですか、やっぱりね。貴方は浮気とかしなさそうですもんね、そういうのは許せない性分ですか。


 ん、彼女が汚らわしいだって、なかなかに強気なご意見ですね。でも本当にそうですか。僕は彼女のこと、まっすぐで綺麗だと思いますけどね。あの有名詩人様と別れてからずっと、彼のこと想っていたんでしょ。素敵じゃないですか、真実の愛って感じで。んん、そんなに頑なに否定することないじゃないですか。


 貴方、エログロナンセンスみたいなの読まないんでしょう。最近の流行りに乗った、露骨な作品とか嫌いでしょう。あの地下世界のようなひっそりと湿った空気を一人覗き見る、何にも代えがたい快感……全くこの上ないものなんですよ。


 好き嫌いなら個人の範疇ですしなにも言うことはないですけど、ああいう風に目の敵にして侮蔑や憎悪を向けるようでは、人間の深層には決して届き得ません。あんたのその潔癖な趣味を否定はしませんけど、そのお高くとまった視点だけから世の中を見ていたようじゃあ新聞記者なぞ務まりませんよ、今に分かるさ……


 ね、貴方今この瞬間、下卑た屑野郎だ、と僕を見下してはいませんか。……ははっ、図星ですか、あんたもそんな面白い顔できるんですね。いいですよ、本日最大の収穫ですそれ。まあそれはあながち間違ってないですからね、そんなばつの悪そうな顔しなくてもいいんですよ。


 この広い世の中には金剛石みたいに無垢で透明な人もいれば、石炭みたいに煤と馴染む人だっているんです。でも石炭が煤けてるからって捨てないでしょ、だってそれは僕らの生活を支える大事な燃料なのですから。その燃え盛る火の中の黒い光が、素直な鮮やかさを持つのですから。


 石炭にだって、金剛石には決してありえない美麗さがあるんです。それにその美しさとかいうものの価値は、僕らのさじ加減ひとつでひっくり返ったりもするんですよ。美醜は表裏一体、とでも言いますか。


 あらゆる物の様々な角度から見える美しさや醜さが絡まりあって、この世界は成り立ってるんです。このこと、気づけたら幸せでしょうね。


 ああ、もうこんな時間だ。関係ない話を長々と失礼しました、お仕事頑張って下さいね。お詫びにお茶代は僕が払っときますから。それでは。

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金剛と石炭 霜月悠 @November1101

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