月恋歌 おやすみアリス

遊月奈喩多

38万kmの彼方へ向けた墜落

 月は蒼く輝き、見上げるもの全てを優しく包み込むように微笑んでいる。それを見上げながら、私は彼女の腕に抱かれたまま目を覚ました。私が動くのを感じたのか、「んん……っ、」と眠たげな声を上げながら彼女――ルナも目を覚ました。


「眠れないの、有栖ありす?」

「うん……ごめんね、起こしちゃって」

「気にしなくていいよ、有栖。わたしは有栖のことが大好きだし、有栖のことなら何でも受け止めてあげるから。ここでは、何も気にしないでいいんだよ」

 優しく、優しい声で、ルナは私の髪を撫でてくれる。窓の外から私たちを照らす月明かりのように優しく、安心してしまうような手つきで。泣きたくなるくらいに心地よい強さで、わたしを慈しんでくれている。

 ずっとこうして、ルナは私を愛してくれる。私が寂しさを感じていたら甘えさせてくれるし、我慢できなくて求めたときにはその欲望ごと私を受け入れてくれる。わがままを許してくれて、なんでもしてくれて、それでいて時々はわがままも言ってくれるから気兼ねもしなくていい――とても居心地がよくて、安らげる時間を過ごせている。

「ねぇ、ルナ?」

「なぁに、有栖?」

「ルナはずっと、私と一緒にいてくれるんだよね?」

「当たり前だよ、有栖。だってわたしは、有栖のことが大好きなんだもの。有栖がわたしを好きでいてくれたら、きっとわたしたちはずっと一緒なの。そうでしょ?」

「そっか、そうだよね、ありがとう。変なこと言ってごめんね、ルナ」

「ふふふっ♪ そんな心配するなんて、もしかして有栖、ちょっと寂しくなっちゃったの?」


 ――――ちゅく、

「んっ、」

 いたずらっぽく笑いながら、ルナが私の中に指を滑り込ませてくる。期待していたのを知られるのが恥ずかしくて背けた顔は、そっと添えられた手で戻されてしまった。真正面から向かい合ったルナのほんのり上気した頬が、蒼白い月明かりのなかでとても綺麗。

「有栖、有栖。ここには嫌なことなんてないよ。辛いことも、痛いことも、悲しいことも、何もないの。だからなんでも望んで? 受け入れて? ここではあなたの望んだことしか起こらないの――」

 柔らかな微笑みと共に重ねられる唇。

 差し込まれる舌に応じたとき、それは不意に訪れた。

 脳裏をバチッと焼くように、鮮烈に。


『ちっ……使えな、これしかねぇの?』

『は? お前おれの奴隷になるっつったよね? いちいち干渉してくんなよ、うぜぇなぁ』

『金ないなら風俗でも行けば? じゃなきゃ保険でも入る?』

『うっせぇなほんとうっぜぇ!! 何様なんだよ、あぁっ!? 奴隷は奴隷らしく黙ってちゃんと締めとけよ!』


 ……知らない。

 知らない、知らない、知らない、知らない。

 こんなの知らない、私は関係ない、助けて、違う知らない、月明かりなんて、私は幸せなの、窓の向こうにあるものを眺めるだけ、私はここにいる、誰かどこかに、幸せなここにいたいの、どこかに逃げたい、ルナがいるから、隣で寝ている彼しかいない世界から、ルナとここにいたいのに、私を逃れさせて、誰か止めて、教えて、止めて、どうやったら、止めて、ここから逃げられるの、違う、あぁいっそ、違うの、月明かりのなかに、やめて、溶けてしまえたらいいのに――――


「そんなの、知らない……っ、」

 突然流れ込んできた知らない記憶に、知らないはずなのに胸が壊されるような気がして、すがりつくようにルナの胸にしがみついてしまう。ほんのり汗ばんだ肌の触り心地でいつもなら嫌なことなんて忘れられるはずなのに……あれ?


 いつもって、いつから?

 塗り替えられる、私が塗り替えられる、嫌だ、私はここにいる、戻りたくない、、、、、、、痛む身体を横たえながら月明かりを窓から眺めて焦がれていた頃になんて――何それ知らない、私は知らない、私はずっとルナとここにいた、いたでしょ、いたよね、いたはずなのに……!?

 なんでこんな鮮明になってくるの、痣だらけになった身体も、下腹部にずっと残る鈍い痛みも、それなのに外から見えるところは一切傷付けようとしないの冷静さに感じた恐怖も、そんなの私は知らないはずなのに……!!!


「助けて、助けてよ、ルナ……っ、」

「大丈夫だよ、大丈夫、有栖」


 温かい――囁く声も、私を見つめて流される涙も、彼女の身体も、全てが優しくて温かい。月のように蒼白い瞳が、私を照らすように、慈しむように、見つめてくる。

「有栖、有栖、泣かないで。ねぇ、有栖。ここにいよう? わたしと行こう? 嫌なことも、辛いことも、悲しいことも、怖いことも、わたしといたら二度と訪れない。

 ねぇ有栖、そうしよう? わたしが絶対にあなたをそんな目には遭わせないから。有栖、有栖、可愛い有栖。ねぇ、あなたとなら、きっと――」


 ルナの言葉は、甘く、優しくて。

 私は窓を開けて、今。


   * * * * * * *


 月の輝く夜、有栖はひとり空を墜ちる。

 身体の内外を傷に覆われながらも、その恍惚とした瞳は幸福をたたえたまま、ただ月光を求めて地に墜ちる。その様を見下ろしながら、月の乙女は涙を流した。

 遠い過去に月を愛し、月に焦がれて月に触れた代償はあまりに重く。

 彼女の愛したものは皆、月夜へと羽ばたいて地へと墜ちるのが定め――それを乙女が知るのは、見下ろす地平に愛すべき子のいなくなる時。


 月はただ、孤独に輝くのみであった。

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