月のうさぎ

紫蛇 ノア

月二還ル

 あの白い月には、兎が住んでるという。そこは美しい姫が帰る場所であるという。

 ならば、還さねばなるまい。

 出会ったあの日から、ずっとずっとそう思っていた。

 だけど機会はそう易々とは訪れなかった。そりゃそうだよね。天上人を還すことなんて、そう簡単なものでは無い。何度も何度も考えたけど、やっぱりこれしか無かった。

 そして、機会は唐突に訪れた。

 準備しておいて良かった、と心の底から思った。

 やっとこの手で還すことができる。やっと彼女がこんなにも近づいてきてくれたから。彼女を、この手で還してあげることができる。

 この分不相応な世界から、元いたあの美しい月に。

 私はこんなにも美しい人を見たことがなかった。

 私はこんなにも可愛い人を見たことがなかった。

 もしかしたらあの、彼女に出会ったときに、私は既にその白く細い指を首にかけられていたのかもしれない。

 そう、彼女に出会ったのは、さくら舞い散る春の季節。他人にとっては毎年訪れる、なんてことない出会いの季節だった。

 桜の花びらなんて、彼女を前にすれば無価値なものに見えた。風に流れる黒髪が、どんな上等な絹よりも美しく見えた。宵闇を写したような大きな黒瞳こくとうに、銀の光が差していた。


「こんにちは、私の名前は香耶かや。よろしくね」


 この世に美しい音色を奏でる名器の弦を、指で弾いたような心地いい声に胸がザワついた。熱くてあつくてアツくて堪らなかった。なにかに首を絞められたような感覚が身体中を支配して離れなかった。

 私はそれを、と名付けた。

 今でも、あの感覚が脳裏に刻み込まれている。だから、こんなにも……こんなにも求めてしまった。

 あぁ――――。

〝あたたかい〟

 愛する人は触れるとあたたかいという。

 愛する人は触れると心に熱が灯るという。

 私は彼女しか知らないが、それだけで人並み以上に愛を知った。

 赤い紅い、あかい熱が、炎が、全身を包んだかのように、私の全身は火照っていた。

 だってほら、その証拠に目の前はあかく染まっている。

 目の前に広がる赤は、情熱の赤だ。

 愛する彼女から溢れた生命の赤だ。

 あたたかい彼女をぎゅっと抱きしめる。ずっと好きだった彼女だ。これからもずっと愛し続ける。たとえ、この身が朽ち果てようと、私だけは彼女を裏切らず、永遠に愛し続ける。

 だから、安心して。

 美しい彼女の肌に刺さった白銀のナイフを抜いた。それは月に煌めき赤が伝って手首を流れる。

 あぁ、魂亡き後も美しい肢体だ。まるでビスクドールのように整ったかおだ。

「さぁ香耶カグヤ、月に帰れたかしら」

 その美貌を妬まれ、ヒトから疎まれた哀れな天上人は、私の手で空に還した。

 これから傷つくはずであろう彼女のことを考えたら、とても美しい結末だ。せっかく彼女が私を頼ってくれたのだ。私の胸にしがみつき、泣いてもう嫌だと叫んでくれたのだ。

 彼女の望む結末を、私は喜んで実行した。

 この世界がなら、帰るべき場所に帰ればいい。

 満月を目に写す。

 私は彼女ではないから、行く先は違う。

 だけど閻魔様には、きっと、尊い人を空に還した誉ある女として迎えられるだろう。

 だけど、たった一度だけ一緒になることを赦して欲しい。

 だから私は、白銀を、胸に刺した。

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月のうさぎ 紫蛇 ノア @noanasubi

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