向こうの空

尾八原ジュージ

向こうの空

 物心ついた頃から庭にあったそれは、どう見ても蓋だった。

 直径は60センチほど。金属製の見るからに重そうなやつで、全体に迷路のような溝が彫られている。マンホールのそれを想像してもらえばそう遠くないだろう。

 実を言うと、僕はその蓋のことをほとんど意識していなかった。あまりに当然のようにそこにあったため、興味を惹かれたことがなかったのだ。これが何を封じているのか、開くのか開かないのか、そもそもこれは蓋なのか……そういった疑問を感じることなく、生まれてからずっとこの家で暮らしてきた。


 そうやって無視し続けてきた蓋に手を出しのは、暇のせいだった。

 新型コロナウイルスの流行で高校は休校。たまたま長期の海外出張中だった父は外国で足止めを食らって帰ってこられなくなり、母は十年以上前に、何の前触れもなくぷいっと家を出たきり行方不明になっている。他に家族はいない。不要不急の外出を控えねばならないので、遊びに行くこともできない。

 時間を持て余した僕は、とうとう禁じられた行為に手を出した。「親のエロ本を見つけてやろう」と思ったのだ。

 父だって健康な一人の男であり、ましてやもめの身なのだから、エッチなもののひとつやふたつ所持していたっておかしくはない。今時のビジネスマンに似合わずネットに疎い人だから、未だに紙媒体に拘っている可能性は高い。DVDもあるかもしれない。

 こうして、好奇心とスケベ心に突き動かされた僕は、父の部屋を探り始めた。結局エッチなものは見つからなかったが、ベッドマットを動かしたときに、ベッドと壁の間にちょっとした隙間があることに気付いた。

 そこにはピンク色の薄いものが挟まっていた。その独特の色合いを見た瞬間、僕の幼い頃の記憶が甦った。

 それは母の手帳だった。

 さすがにエロ本のことも忘れて、僕はマットレスがずれたままのベッドに腰かけ、手帳をめくった。「穣おじいさん七回忌」とか「実家に帰省」など、平凡な予定が母のくせ字で書かれたスケジュールを通り越し、後半のメモにたどり着く。そのとき僕の目に、どこかで見た迷路のようなものが飛び込んできた。ページの端にはスケジュールと同じくせ字で、「開け方」と記されていた。

 僕は既視感のあるその模様を縦にしたり横にしたりして、ようやく庭にある蓋だということに気付いた。このメモによれば、あの表面にある模様を順番通りに動かすと、蓋を開けることができるらしい。

 僕は思いがけず発見した謎のギミックにすっかり愉快になってしまい、スニーカーをつっかけると庭に出た。

 すでに日は沈み、空は濃い青色になりかけていたが、庭の蓋をちょっといじるくらいなら大丈夫だと思えた。もちろんあの手帳の真偽はわからない。が、試してみるだけならタダだ。

 まず、蓋の溝に手をかけて力を込めてみた。動かない。まぁこの程度で開く蓋なら、もうとっくに何かのきっかけで開いているだろう。僕はスマホで手帳を照らしつつ、最初の場所に指をかけた。少し抵抗があって、迷路の壁の部分が一部、ズズ、と動いた。僕は思わず「すげぇ」と大きな声を出していた。

 手順通りに迷路の壁を動かしていくと、やがて蓋全体にガチンと震えるような手応えがあった。僕は一息つくと、ドキドキしながら蓋を横にずらした。

 蓋の向こうは穴だった。かなり深い穴のようで、底が確認できない。一体何のためのものなのかもわからなかった。

 ともかく、こんなところに何か落としたら大変だ。僕はスマホを引っ込め、穴の縁に寝そべって中を観察しようとした。

 周囲の暗さも手伝って、やっぱりどこまで続いているのか見当もつかない。だが、とんでもない深い穴の先に、何か明るいものがある気がした。それは遠すぎて、肉眼では確認できそうになかった。

 僕は家の中に走り込むと、子供部屋に置いてあった天体望遠鏡を三脚から外し、また外に飛び出した。さながら長い長い望遠レンズのついたカメラを構えるように望遠鏡を構え、落とさないようにしっかりと掴んで覗き込む。ぼやけたピントを苦労しながら合わせると、その先に信じがたいものが見えた。

 空だった。

 澄みきった青い空が、望遠鏡のレンズの向こうに広がっていたのだ。

 僕は目を疑った。今東京は午後六時過ぎで日が沈み、辺りはどんどん暗さを増している。なのに穴の向こうには明るい青空が広がっていて、時折雲まで流れていくのだ。

 腕が痛くなるまでそれを眺めながら考えた結果、僕はこの穴が、地球の裏側に続いているのだと勝手に結論づけた。地球を貫通して、向こう側の空が見えているに違いない。

 そんな穴を誰がどうやって掘ったのか、僕にはさっぱりわからない。が論より証拠、実物が目の前にあるのだから、ともかく掘れたことは堀れたのだ。

 それにしても、穴の向こう側には蓋がないのだろうか? 誰かがうっかり落ちたりしたら、取り返しのつかないことになるのではないか。

 危ないなぁと思いながら、僕はともかく蓋を元通りに戻した。開ける手順と逆さまに模様をいじると、蓋はまたがっちりと動かないようになった。

 そしてその夜、僕は穴の夢を見た。移り変わっていく穴の向こうの空をただ眺めているだけの、妙に心地よい夢だった。


 いつの間にか僕は、寝ても覚めても庭の穴と、その遠い遠い先に広がる空のことばかり考えるようになっていた。

 朝起きては蓋を開け、昼も庭に出ては蓋を開け、夜もやっぱり蓋を開けて深い穴を覗き込んだ。蓋を動かす手順はすっかり覚えてしまい、手帳がなくても、手元が暗くても問題なくなった。望遠鏡をカメラのように構えるのもやたらと上手くなった。

 日光を浴びながら眺める星空。曇って月の見えない夜に見る、どこか遠い場所の青空と白い雲。僕はそれらにすっかり夢中だった。

 僕は蓋を開けた次の日、さっそくその周りをきれいに履き清めて、万が一にも小石などが穴に落ちないよう心を配った。雨の日には大きな傘を穴の上にさし、水滴が穴の中にこぼれるのを防いだ。

 これは僕の臆病な心がなせるわざだった。このトンネルの中で、重力がどう働くのか僕にはわからない。地球の引力と回転によって生じる力のおかげで、地球の表面に立つ僕たちはこの巨大な球体から振り落とされずに済み、ものは地面に向かって落ちるのだという。が、この真っ直ぐな穴の中ではどうだろうか?

 僕が根っから文系で理系科目が苦手なせいかもしれないが、この穴を見ていると、あらゆる物理法則は力を失ってしまい、ここに落としたものは向こう側にストーンと落ちていってしまう。なぜかそんな気がして仕方がないのだ。

 仮にこの穴が地球のど真ん中を貫いていたとしたら、穴の長さは地球の直径と同じ12,742キロということになる。ほんの小さな小石でも、ちょっとした水滴でも、そんな距離を落ち続けたら、向こう側に出たときものすごい衝撃を生みはしないだろうか。万に一つ、この穴を覗き込んだ誰かに当たりでもしたら……そう考えると恐ろしかった。

 ちなみにたまたま雨が降らない地域にあるのか、それとも単に運が良かっただけなのか、穴の向こうから雨が落ちてくることはなかった。同様に小石の類いも飛び出してこなかった。そのことは僕を安堵させ、そして段々油断させていった。


 こうして日が経つにつれ、奇妙な感情が僕の心に芽生えてきた。恐怖心と相反するように、「この穴に何かを落としてみたい」という願望が、ムラムラと湧いてきたのだ。

 大きなものでなくていい。たとえば小型のLEDライトなんかどうだろう。穴の中にポトンと入れてみたら、小さな光がストーン、とどこまでも落ちていくのではないだろうか。

 それを見たい、と熱烈に思った。

 そういえば、と僕は昔を思い出した。僕には前科がある。小学二年生のとき、やっぱり「高いところから何かが落ちるのを見たい」という欲求にかられて、小学校の三階の窓からスーパーボールを落としたのだ。

 結果から言うとスーパーボールはめちゃくちゃ跳ね、そして僕は先生にも父にもめちゃくちゃ叱られた。そのときの父の剣幕があまりに怖ろしかったので、今まで思い出さないようにしていたのだ。

 しかし、落下するピンク色のスーパーボールを眺めているときの、あの何とも言えない爽快感。まるで自分が一緒に落ちていくような不思議な浮遊感。それらを一旦思い出してしまうと、僕の心臓はものすごい速さで鼓動し始めた。慌ててその記憶を押し殺そうとしたが、もう駄目だった。

 すでに「この穴に何かを落とす」ことを、僕は熱望していた。だがその一方でひどく怖がってもいた。一万キロ以上を落ち続けた物体がどうなるのか、何を引き起こすのかがわからなかったからだ。

 物理の担当教師に聞いたら何か手がかりが得られるかもしれないが、学校はまだ休校が続いていた。こんなときストッパーになるはずの父は、一向に海外から帰ってこない。

 穴に落とした小石が向こう側に到達した結果、大規模な地割れが起きて大勢の人が死んだ。そんなニュースを夢に見て飛び起きたりもした。こんなに悩むくらいなら、いっそのこと蓋を閉めて、もう二度と開けなければいいのだ、とも考えた。

 しかし、一度開け方を覚えてしまった僕の手は、止めることができなかった。穴の向こう、望遠鏡で眺める空は、肉眼で見るこちらの空とは比べ物にならないくらい美しく見えた。

 もはや向こうの空の観察は、僕の生活の中で一番重要なイベントになっていた。オンライン授業も、たまに父から来る国際電話やメールも、これに比べたら取るに足らないことに思えた。

 そして例の欲望は、蓋を開けるたびに強くなって、僕を苛み続けた。


 そんなある日の午後、僕は夜空を見たくなって庭に出た。

 東京は快晴、頭上には青空が広がっていた。僕はいつも通りに蓋を開け、望遠鏡を構えて中を覗き込んだ。

 いつもなら、穴の向こうには夜空が広がっているはずだ。ところが、その日は様子がおかしかった。暗い空とは違う、何か黒いものがレンズの向こうに見える。さては向こうでも穴に気づいて、蓋をしてしまったのか……僕は肩を落としかけた。

 しかし望遠鏡を覗いていると、その黒いものはだんだん形を変え……そして僕は悲鳴をあげて穴から飛び退いた。

 何かが向こうから落ちてきている!

 一体何が、と考える暇もなく、黒髪を振り乱した浅黒い肌の女の子が、スポン! と穴から飛び出してきた。ほんの一瞬、そのぽっかりと開いた目と僕の視線がぶつかった。

 遠い異国の少女は、僕を見て何か言いかけた、ように見えた。

 穴の中を落下してきたそのままのスピードで、彼女は東京の青空に吸い込まれていった。その姿はあっという間に見えなくなってしまった。

 僕はあっけにとられて空を眺めながら、ふと、手帳を残して突然姿を消した母のことを思い出した。それから慌てて蓋を動かし、穴を塞いだ。

 以来、二度と開けていない。

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