いっせん。

美澄 そら

いっせん。


 暗い夜空から、ぼた雪が降った後だった。

 ぶ厚かった雲を風が掃い、今は肥えてきた上弦の月が、空で日の光に成り代わろうとでもいうかのように輝いている。

 空気は張り詰め、冷気で満ちている。着ている薄い羽織も冷たくて、体の奥の熱以外に温かなものは無い。

 御用改めに入った旅籠はたごの庭の裏は、音を失ったかのように静かだった。

 月明かりと、部屋から漏れる明かりを吸って、積もった新雪がぼんやりと光っている。

 庭を横断する形で、雪には足跡が点々と残っていた。


 信三郎は自身の握っている刀の切っ先を見つめて、両の手が震えていることに気が付いた。

 柄を強く握っているはずなのに、いつもは感じる刀の重みが今はない。

 それは寒さからか、それともこの状況に対してなのか。

 呼吸を整えようと大きく息を吐き出すと、温かな呼気は一瞬だけ視界を白く濁して、風に流されていった。


 京の冬は足から冷えて、故郷の越後の冬とは寒さが違う。

 信三郎の家は貧しい百姓で、家屋はあちこちに穴が開いているあばら屋だ。

 隙間風が辛くて、毎晩小さな弟妹きょうだいを抱きでもしなければ、眠れないほどに冬は厳しい。

 京は西にある。越後の冬を経験している自分ならば平気だろうと、ろくに冬支度もせずに出てきた。

 自分がいなければ食い扶持が減り、家族がこの冬を越えられる。

 もう二度とこの地に戻らない。戻ってきてはいけない。

 どこかで食いっぱぐれて死ぬのならそれでいい。

 そう誓って、勇んで出て来た。

 けれども、どうにか自分は生かされて、今こうして寒さに震えている。

 故郷の家族はどうしているだろうか。

 目の奥に力が入って、涙が浮かんできた。


 旅籠の庭に植えられた牡丹の枝が、乗っていた雪の重さに耐えられずにしなり、雪を落とした。

 その音に信三郎は顔を上げた。


 ――いけねぇ。


 暗闇に目を凝らす。背の高い生け垣と、庭を彩る植木の陰。

 そこに何者かが息を潜めている。

 どうやって凶刃が飛んでくるかわからない。

 気を緩めたら、紙より軽い自分の命など一瞬で刈り取られることだろう。

 旅籠の庭は新撰組の屯所よりもずっと狭い。

 相手との距離は大股で十歩もないだろう。

 天然理心流は真剣での試合をするから、刀の戦い方はわかっているつもりだ。

 けれど、信三郎にとって命のやりとりはこれが初めてだった。


 京に出てきてしばらくすると、街の中を肩で風を切って歩く、だんだら模様の羽織の男の集団に目を奪われた。

 田舎から出てきた信三郎は、京のさむらいはかのように派手に振る舞い、格好いいものなのだと信じて疑わなかった。

 信三郎は花の香に誘われた蝶のように引き寄せられて、そして入隊をすることになった。

 壬生狼みぶろと恐れられた男達、新撰組は、他の浪士組らに差をつけて大きくなり、新しい隊士を着々と増やしているところだった。

 刀の扱いに慣れていないのは信三郎だけではなかった。

 同じように田舎から出てきた百姓や商人の倅なんかもさむらいになりたいと志願し入隊してきていた。

 中には自分よりも幼い子供も居る。

 武士の出や他の道場の流派を免許皆伝する者も居る中で、田舎から出てきた百姓の信三郎にも同じように稽古をしてくれた。

 隊士として日夜道場で訓練をし、やっと信三郎も市中の見廻りに出してもらえるようになった。

 今夜は、二回目の見廻りだった。


「薩摩だ」


 一緒に見廻りに出ていた隊士の一人がそう呟いた。

 視線の先にいた男が旅籠に入って行ったのを見計らって、信三郎たちも旅籠に飛び込んだ。


「新撰組だ、御用改めである」


 その一言が聞こえたのか、奥の部屋が騒々しくなった。

 物の壊れる音、女の悲鳴。ただごとではない。

 慌てて顔を出してきた主人の制止を振り切り、皆で刀の柄に手を掛けて、奥へと土足で踏み込む。

 窓から裏庭へ飛び出て行った男達を追って他の隊士達が出て行くなか、信三郎は窓枠に足を引っ掛けて転げ落ちた。

 真綿のように柔らかな雪から顔を上げたときには、既に薩摩の不逞浪士達も新撰組の隊士の姿もなかった。

 急いで追いかけようと体を起こしたところで、足跡が一つ庭の外へ行かずに途切れていることに気付いた。

 

 ここに、一人残っている。


 喉を熱い唾が通って、胃の腑に落ちていった。

 薩摩藩士は、示現流を使うと聞く。

 示現流は刀を高く構えて振り下ろしてくる一撃必殺の剣だ。

 以前斬り合って亡くなった隊士の亡骸を見たことがある。

 肩から腹まで切り裂かれて、身体は今にも二つに分かれてしまいそうだった。

 あの苦悶の表情。

 濁った目。


 ――いやだ、死にたくねぇ。


 切っ先が月明かりを浴びて、煌めく。

 震えは残念ながら止まりそうになかった。

 果たして、自分の付け焼き刃のような剣技で相手を倒せるのだろうか。


 小鳥の鳴き声のような、雪を踏むかすかな音が聞こえてきた。

 顔をそちらに向けると、葉の陰で月明かりの届かない深い夜の闇の中から、今度は雪の落ちる音がした。

 気配はすれども、姿は見えない。

 相手は相当な手練だと察する。


 風が雪片を巻き上げる。

 この風が止めば、相手は闇から一気に距離を詰めてくるに違いない。

 

 信三郎は震える切っ先を見下ろして、もう死からは逃げられないことを覚悟した。

 家族のために死んでもいいと思っていた。

 けれど、いざ命のやりとりの場に立つと、怖くて怖くて堪らない。


 それでも、逃げたくない。逃げられない。


 信三郎は刀を納めると、腰を低くして身構えた。

 技術では劣るかもしれない。

 だから、一瞬の閃きに賭ける。


 風は止み、雪がしろがねのように光る。

 その中で、先ほど雪を落とそうと揺れた牡丹の枝から大ぶりの花が落ちて、鮮やかな赤を散らしていた。

 信三郎の目に、もう迷いはなかった。

 相手のいるであろう闇を一点に見据えて、逸らさない。

 柄に掛けた右手に、鞘を支える左手に力を込めた。



 ――この世に、命を残した者が勝者だ。





 了




 








 


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