第27話(最終話)和解

 大学生で最初の夏休みも、間もなく終わりを迎えようとしている。時刻は夕方の六時過ぎ。僕は自分の部屋で、外出するための準備をしていた。


 今日は父さん主催で、日光屋のビアガーデンに行くのだ。母さんや時さんはもちろん、長宮さんから千代さんまで皆が集合する。大勢で会話をしながら飲んだり食べたりするため、とても楽しいはずだ。


「広樹。開けるわよ」


「はい」


 部屋に母さんが入ってきた。身支度を万全に済ませ、外出着の格好をしている。


「広樹。父さんも準備ができたけん、ビアガーデンに行くわよ」


「本当? 僕もちょうど準備ができたよ。行こう!」


「今日は沢山食べて、沢山飲むわよ。行きましょ!」


 母さんが嬉しそうな表情で部屋を出ていく。そして鼻歌を歌いながら、階段の方へ向かい始めた。どうやら母さんも、今日のビアガーデンを楽しみにしていたようだ。


 僕も部屋の電気を消し、ショルダーバッグを肩に掛けた。そして母さんの後に続くように階段の方へ向かう。


「あなた、広樹も準備ができたみたいよ」


「そうか。わしも準備できたぞ」


 母さんの後ろから下の階を見ると、そこには身支度を万全に済ませた父さんが立っていた。父さんの表情も、普段とは打って変わって明るい。久々に休みが取れた上に、ビアガーデンに行くことができたため、とても晴れ晴れとした気分でいるのだろう。


「それじゃあ行くか?」


「えー。行きましょ!」


 父さんが明るい声で、階段を降り切った母さんに言った。それに元気な声で、母さんが返答する。


「よし! 今日は沢山飲んだり食べたりするぞ」


 父さんが大きく伸びをしながら、玄関の方へと向かい始めた。父さんも先程の母さんと同じようなことを言っている。そのことが可笑しくなった僕は、思わず笑みがこぼれた。


「おい広樹。お前笑ったな」


「だって。いつも気難しい顔しとる父さんが、珍しく陽気なんやもん」


「こいつめ! 父さんはいつも陽気やぞ!」


 父さんが、笑いながらげんこつのポーズをする。ここまで陽気な父さんを見るのは、何年ぶりだろうか?


「ハイハイ二人とも。早く靴を履いて外に出てください」


 母さんが僕たちの様子を見て、可笑しそうに微笑んだ。


「じゃあ。僕が先に外に出るね」


 そんな中、僕は一番に靴を履いて立ち上がった。そして玄関の扉を開けて外に出る。父さんも僕に少し遅れて後に続いた。


「涼しいな」


「そうやね」


 父さんが、風で揺れる庭の木々を見ながら言った。確かに外は、昼間よりも涼しくなっている。


「広樹。見ろ! とても大きな夕日が出とるぞ」


「本当や! すごい」


 父さんの指差す方角に、大きなだるま夕日が出ていた。こんなに大きな夕日を見るのは、何か月ぶりだろうか? すっかり見とれてしまった僕は、目を細めてその光景に見入った。


「まあ。綺麗な夕日」


 遅れて玄関から出てきた母さんも、目を細めて夕日を見た。母さんも普段は室内で仕事をしているため、この美しい光景を見るのは久しぶりなのだろう。


「夕日なんて、まともに見たのは子供の時以来ね。いつも仕事に追われていて、こんな美しい景色のことはすっかり忘れていたわ」


「そうやな」


 母さんの言葉に、父さんが穏やかに返事をした。眩しいほど輝くオレンジ色の光が、僕たちを優しく包み込んでくる。


 今思えば、家族全員で揃うのは本当に久しぶりだ。そして全員が揃うから、普段は当たり前のことにも、じっくりと目を向けられるのだと気づいた。


「さあ行きましょう。今日は何だか、楽しいひと時になりそうだわ」


 我に返った母さんが、玄関の鍵を閉め始める。僕と父さんは、母さんが鍵を閉め終わるのを待った。


 母さんの言う通り、今日は楽しいひと時になりそうだ。食べ物はどんなものが並んでいるだろうか? そして皆とどんな言葉を交わすのか? 想像を膨らませるだけで、僕の胸は高鳴った。


        *


「まあ。とても賑わっとるわね」

  

 エレベーターを降りると、ビアガーデンの会場がすぐに見えた。母さんが目を輝かせながら僕と父さんに言う。


「凄い人やな」


 父さんも少し驚いた様子で、会場の方を見た。エレベーターホールと会場は、ガラス戸で仕切られている。それにもかかわらず、外からは皆の話し声がワイワイと聞こえてきた。


「見よるだけで楽しい気分になるね」


 僕も賑やかな会場を見ながら、明るい声で二人に言った。母さんが嬉しそうに僕に微笑みかけてくる。


「そうね。私たちも負けないくらい楽しみましょ!」


「うん!」


 僕が返事をすると、母さんは会場へと続く扉を開けた。僕と父さんもその後に続いて外に出る。


 すると出入り口を挟んで両サイドに、沢山のテントが並んでいた。そしてその下では、様々な種類の料理が充実していた。そこから放ついい匂いが、僕の食欲を掻き立ててくる。


 そして屋台の前に並ぶテーブルには、沢山の人が腰を下ろしていた。美味しそうに料理を食べている人。お酒を飲んで顔を真っ赤にしている人。楽しそうに会話をしている人。皆がそれぞれにビアガーデンを満喫しているようだ。


「小林さん!」


 するとその時、屋台から少し離れたところにあるテーブルから、老婦人の声が聞こえてきた。時さんだ。真っ先に気付いた父さんが、時さんに大きく手を振る。


「あそこが席みたいだ。行こう」


「ええ」


 父さんが僕たちに言った後、席の方へ向かい始めた。母さんも父さんの言葉に返事をして、歩き始める。僕はそんな二人の後ろを付いていった。


 今日は時さんは休みの日だったのだ。そのため、僕たち家族とは会場で会うことにしていた。時さんは早めに到着して、僕たちを待っていてくれたようだ。


「こんばんは」


「こんばんは。時さん」


 父さんの後に続くように、母さんも時さんに挨拶をした。時さんが笑顔になり、丁寧に頭を下げる。


「こんばんは。績さん。吉実さん」


 時さんが父さんと母さんに挨拶をした。僕も二人に少し遅れて、時さんに手を振る。


「こんばんは。時さん」


「コウ君もこんばんは。今日は楽しみましょうね!」


「うん!」


 挨拶を交わした後、父さんと母さんが荷物を置いて椅子に座り始めた。父さんが入り口寄りの角席に座る。そして母さんは、父さんから見て右前の席に腰を下ろした。


「広樹も座って待っていましょ」


「うん」


 どこに座るか迷っていた僕は、母さんの向かい側の席に座った。時さんも母さんのすぐ隣に、ゆっくりと腰を下ろす。


「実はもう、池野さん達が来ているのです。お手洗いに行っているので、その内戻ってくると思います」


「そうなんですね。来られたら、私たちの隣の席へ案内しましょ」


「分かりました吉実さん」


 母さんの言葉に、時さんが返事をした。どうやら陽菜ちゃん達は、もうここに来ているようだ。長宮さんと千代さんも一緒にいるのだろうか?


「あ、来られたみたい。長宮さんと千代さんもいるわ。隣の男の子は、真柴君かしら?」


 母さんの視線の先に、戻ってきた陽菜ちゃん達の姿があった。その隣には、長宮さんと千代さんもいる。


 そしてもう一人、眼鏡をかけた男の子の姿が見えた。真柴君だ。真柴君もみんなと並んで、こちらに向かって歩いてきている。


 母さんがみんなに大きく手を振る。僕も手を振ると、真柴君と陽菜ちゃんが手を振り返してくれた。その一方で長宮さんと千代さん、そして陽菜ちゃんのお母さんは、僕たちにお辞儀をしてくれている。


「「「こんばんは」」」


「「「こんばんは」」」


 僕たちは声を揃えて挨拶した。するとも、ほぼ同時に僕たちに挨拶してくれた。


「さあ。どうぞお座りください」


 立ち尽くすを、母さんが案内し始める。みんなが軽く会釈して、僕たちの隣の席に座り始めた。


「小林。久しぶりやな」


「うん。久しぶり」


 真柴君が、僕の左隣りの席に腰を下ろした。父さんも笑みを浮かべ、真柴君に何か言いたそうな顔をしている。そんな父さんの方に真柴君が視線を向けた。


「今日はよろしくお願いします」


「ああ。こちらこそだ。今日は心行くまで食べてくれ」


「はい。ありがとうございます」


 父さんの言葉に、元気のいい声で返事をする真柴君。隣に座っている母さんも、嬉しそうに真柴君に微笑みかけた。


 すると真柴君は、床に置いていたリュックサックをまさぐり始めた。そして中から、ビニール袋に入ったものを取り出した。袋から中の物を出し、それを父さんにさっと差し出す。


「こちら柿の種です。ビールのにぴったりかと思います」


「ありがとう。とても嬉しい」


「ありがとうね真柴君」


 父さんがそれを両手で受け取る。母さんも笑みを浮かべながら、真柴君にお礼を言った。


「実はこれ、わしの好物なんだ」


「そうだったんですね。良かったです!」


 父さんが嬉しそうにパッケージを眺めている。確かに父さんは、ビールを飲むときいつも柿の種を食べていた。真柴君は、父さんの好みを見事に見抜き、持ってきてくれたようだ。


「ありがとう真柴君」


「いえいえ。あ、広樹の分もあるぞ」


「え、僕の分もあるん?」


「ああ。後で渡すけんな」


 真柴君が僕にささやいてきた。一体何を用意してくれているのだろうか? 気になるのと同時に、受け取るのが楽しみになってきた。


「ありがとう真柴君。楽しみにしとくよ」


「おお」

 

 するとその時、時さんの左隣りに座っていた長宮さんと千代さんが、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そして何かを手に持って、父さんと母さんの方へ向かい始める。


「広樹君のお父様とお母様、初めまして。私、別子村で占い師をしております。長宮春花と申します。そして隣は、私の助手である千代です。本日はよろしくお願いします」


「おお。長宮さんですね。話は聞いておりました。広樹の力になってくれたみたいで、ありがとうございます。こちらこそ、今日はよろしくお願いします」


 父さんが言い終えた後、腰を上げた。それに続いて母さんも椅子から立ち上がる。そして二人は、長宮さんと千代さんに頭を下げた。それに対して長宮さん達も、丁寧にお辞儀をしてくれている。


「実は私も、占いには興味があるんです。また色々と教えていただけますか?」


 母さんが親しみを込めて長宮さんに話しかけた。すると長宮さんは、嬉しそうに笑みを浮かべた。


「はい。もちろんです。こちらよろしければ、私の名刺です。またいつでもご連絡ください」


「まあ。綺麗な名刺ですね。ありがとうございます」


 母さんが、長宮さんから名刺を受け取った。紫色の蝶が描かれたあの名刺だ。長宮さんから受け取った後、母さんは目を輝かせてそれを眺めた。


「あとこちら、別子の名物である銅山飴です」


「まあ。お気遣いいただきありがとうございます。とても美味しそうですね」


「長宮さん。ありがとうございます」


 母さんがお礼を言うと、父さんも頭を下げた。そして母さんが、嬉しそうに長宮さんから銅山飴を受け取った。


 僕も銅山飴のことは知っていた。だが今まで、一度も食べたことはなかった。長宮さんが持ってきてくれたものであるため、とても美味しいはずだ。


「長宮さん。ありがとうございます」


 僕も椅子から立ち上がり、長宮さんにお礼を言った。


「小林君。久しぶりね! 元気?」


「はい。おかげさまで元気です!」


 僕が元気よく言うと、長宮さんと千代さんは微笑んだ。二人の優しいところは、二年経っても全然変わっていない。


「今日はよろしくね」


「はい。こちらこそよろしくお願いします」


 二人に対し、丁寧に頭を下げる。すると長宮さんと千代さんは、再び僕に微笑んでくれた。そして二人は、先程のように父さんと母さんの方へ向き直った。


「では席に戻ります。本日はよろしくお願いします」


「こちらこそ。よろしくお願いします」


 父さんが言うと、長宮さんと千代さんは席に帰っていった。そして今度は、入れ替わりで陽菜ちゃん達が立ち上がった。陽菜ちゃんのお母さんも、手土産のようなものを手に持ち、父さんと母さんの方へ向かい始める。


「小林さん。こんばんは」


「あら美由紀さん。お久しぶりです」


 母さんが、陽菜ちゃんのお母さんに手を振った。陽菜ちゃん達も、父さんと母さんにお辞儀をしてくれている。


 実は母さんと陽菜ちゃんのお母さんは、この二年で食事に行くほどの仲になったのだ。だが最近は、お互い忙しい状態が続いていたのだろう。今日会うのはかなり久しぶりだった様子だ。


「私たちからも、つまらないものですが……」


「まあ。ありがとう。とても嬉しいわ」


 陽菜ちゃん達は、小さなスイーツの詰め合わせを持ってきてくれたようだ。中に入っているお菓子が、ここからも見える。どれも美味しそうなものばかりだった。


「池野さんも、お気遣いいただきありがとうございます」


 父さんも陽菜ちゃん達に頭を下げた。すると二人は、父さんと母さんに穏やかな笑みを浮かべた。


「いえいえ。本日はよろしくお願いします」


「こちらこそ! 美由紀さんも陽菜ちゃんもよろしくね」


 母さんが陽菜ちゃん達に手を振る。陽菜ちゃん達は会釈をして、元の席に帰っていった。


「こんばんは。遅くなって申し訳ありません」


 するとちょうど、また入れ替わりで男の人が走ってきた。おじさんだ。おじさんも紙袋を片手に持っている。


「藤崎さん!」


 母さんがおじさんに手を振る。するとおじさんも手を振り返してきた。そして紙袋から手土産のようなものを取り出し、それを両手で父さんに差し出した。


「今日はよろしくお願いします」


「藤崎さんも、本当にありがとうございます」


 父さんがお礼を言い、おじさんから手土産を受け取る。箱を見る限り、和菓子のようだ。おじさんも僕たちに気遣ってくれて、本当にありがたい。


「藤崎さん。お体は大丈夫ですか? 色々とショックなこともあったかと思います……」


 母さんの言う通り、僕もおじさんの体調が心配だった。するとおじさんは、少しだけ寂しそうに笑みを浮かべた。


「正直、将太のことはとてもショックでした。今でも受け入れられない気持ちがあります。ですが泣いてばかりでは、天国の将太が悲しむんで……」


 おじさんが少しだけ悲しさを滲ませ、空を見上げる。空はいつの間にか、日が沈んで真っ暗になっていた。


「将太君には本当に感謝してます。うちの広樹とも仲良くしてくれて、本当にありがたかった。藤崎さん、今日はそのお礼も兼ねて、ゆっくりしていってください」


「はい。ありがとうございます」


 母さんがおじさんに微笑みかける。するとおじさんは、表情が少しだけ明るくなった。


「さあ。どうぞお座りください。あちらの席が空いております。真ん中の席で丁度良いと思いますよ」


「ありがとうございます。ではお邪魔します」

 

 おじさんが父さんに促され、真柴君の隣の席へ向かう。みんなに会釈しながら、椅子を引いて腰を下ろした。


 これで全員が揃ったようだ。いよいよみんなで、楽しいひと時を迎えることができる。父さんが顔を上げ、周りを見渡した。


「それでは皆さん揃われました。改めまして、こんばんは」


 父さんが椅子に座ったまま頭を下げる。僕を含めてみんなも、父さんに頭を下げた。


「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。天気も良い状態で、今日のビアガーデンを迎えることができました。皆さん、今日は盛大に楽しみましょう!」


 父さんが言い終えると、拍手が起きた。みんな表情がとても明るい。そんなみんなの様子を見て、父さんは満足そうに微笑んだ。


「それでは、食事と飲み物を取ってきてください。皆さんで盛大に乾杯しましょう!」


 いよいよ料理と飲み物を取りに行くことができる。父さんの言葉で、皆が立ち上がった。僕も少しだけ椅子を後ろに引き、腰を上げる。


「小林行こう」


「うん」


 既に立ち上がっていた真柴君が、僕に声をかけてきた。テントの方を見ると、ちょうど料理が補充されているのが見える。僕は真柴君とともに、急ぎ足で料理と飲み物を取りに向かった。


        *


「それでは乾杯!」


「「「乾杯!」」」


 料理と飲み物を取りに行った後、みんなで乾杯をした。父さんの掛け声の後に、みんなが一斉にグラスを合わせる。そして盛大に、最初の一口目を口にした。


 汲んできたウーロン茶がとても美味しい。氷を沢山入れているため、とてもさっぱりとしている。後味も非常に良く、何杯でも飲めそうな感じだった。


 十分に飲んだ後、僕はグラスをテーブルの上に置いた。そして左隣りの真柴君の方に目を向ける。真柴君も美味しそうに、果汁百パーセントのみかんジュースを飲んでいた。


「真柴君はみかんジュースが好きなんやな」


 父さんがビールを口にしてから真柴君に聞いた。


「はい。最近好きになりました」


 真柴君が笑顔で父さんに答える。大学で地元を離れているため、ふるさとの味が恋しいのだろう。飲み干したグラスをテーブルの上に置き、満足そうな表情を浮かべた。


「好きなだけ飲んでいいけんな。料理もどんどん食べてくれ」


「はい。ありがとうございます」


 真柴君が、空になったグラスを持って立ち上がる。そして再び、飲み物を取りにテントへ向かった。


「真柴君は本当にいい子やな。みかんジュースが好きやとは、愛媛県民らしい」


「そうね」


 父さんが柿の種を食べながら、ビールを口にした。母さんも美味しそうに料理を食べながら返事をする。


 僕もその様子を見て、手元にあった割り箸を割った。そしてそれを手に持ち、料理を食べ始めようとしたその時だった。


「おー凄い!」


「綺麗ね」


 目の前にある日光屋の看板が点灯した。円の中に、“日”と書かれた大きな看板だ。僕たちの前に座っている人たちが、感嘆の声を上げる。


 看板は暗くなったから点灯したのだろう。それにしても赤色のランプであるため、とても迫力が感じられる。


「父さん。新しい日光屋の看板、綺麗やね」


 僕は箸を皿の上に置き、父さんに話しかけた。顔を少し赤らめた父さんが、ゆっくりと看板の方に目を向ける。


「そうだろ広樹。あの看板は、わしらのご先祖様が代々受け継いできたものや。あの灯を失った百貨店は、全国に数多あまたある。やけん父さんと母さんは、今後何があっても、この日光屋という暖簾を守り抜いていくつもりや」


「父さん……」


 父さんが一生懸命僕に語り掛けてきた。その様子を見て、僕は少しだけときた。確かにあの看板は、ご先祖様あってのものだ。目の前で輝くネオンが、とても逞しく立派なものに見える。


「広樹。料理が冷めちゃうわよ」


「あ、うん」


 看板に目を奪われていると、母さんが声を掛けてきた。母さんは父さんの言うことを気にも留めず、美味しそうに料理を食べている。隣の時さんは、グラスを手に持ったまま僕の様子を見て微笑んでいた。


 皿の上に置いておいた箸を再び手に取る。そして料理を掴み、口に入れようとしたその時だった。


「おい小林」


 みかんジュースを汲んできた真柴君が、慌てて僕の所に駆け寄ってきた。


「真柴君どしたん?」


「本村が……。本村が向こうにおるぞ」


「え?」


 真柴君が、僕から見て後ろの方角を指差した。突然の出来事に、僕は一瞬混乱した。本村など、この二年で完全に忘れ去っていたからだ。


「本村って、高校二年生の時の担任の先生?」


「そうや。ほら見ろ。あそこにおるぞ」


 真柴君の指し示す方角に目を向ける。するとそこには、確かに本村らしき人物がいた。当時肩に当たるか当たらないかだった髪は、別人に見えてもおかしくないほどロングになっている。


「広樹。本村先生がおるの?」


「うん。あそこにおる」


 僕は母さんと共に、もう一度本村の方を見た。するとジッと見ていたせいか、本村と目が合ってしまった。気付かれただろうか? 僕は思わず視線を反らし、真柴君の方に目を向けた。


「どうする真柴君……? 目が合ってしまったけど、挨拶しにいく?」


 僕が聞くと、真柴君の表情が少しだけ真剣になった。


「まあ、一応世話になったもんな。今何しよるんかも気になるし、挨拶しにいってみるか」


「うん。そうやね。行こう」


 真柴君がテーブルの上にみかんジュースを置いた。僕も箸を置き、椅子から立ち上がる。すると僕たちの様子に気が付いた陽菜ちゃんも、立ち上がってこちらに駆け寄ってきた。


「広樹君。本村先生がおるって本当?」


「うん。あそこにおる。陽菜ちゃんも挨拶しにいく?」


 僕は本村のいる方角に目を向けて言った。すると陽菜ちゃんも、迷う様子を見せることなく頷いた。


「私も一緒に行くわ。付いて行ってもいい?」


「もちろん。行こう」


 それから僕たちは、本村のいるテーブルへ向かった。心臓の鼓動が速くなり、体が妙に強張り始める。また怒鳴られるのではないかという強迫観念が、どうしても頭から離れない。


 本村のいるテーブルが、だんだんと近くなってきた。すると一早く気付いた本村が、僕たちの方に視線を向けてきた。


「こんばんは本村先生。お久しぶりです」


 先頭を歩いていた真柴君が、強めの口調で本村に言った。真柴君の後ろにいた僕と陽菜ちゃんも、前に出てきてお辞儀をする。


「真柴君、小林君、池野さん……」


 本村が、目を見開いて僕たちを順番に見た。隣に座っている男の人も、怪訝そうに僕たちを見てくる。


 すると本村が、突然椅子から立ち上がった。そして僕たちに深々と頭を下げてきた。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい。二年前貴方達には、本当に酷いことをしてしまったわ」


 本村が頭を下げたまま、肩を震わせている。そこから見せかけの態度は、一切垣間見えなかった。そしてその様子を見た瞬間、僕の中で引っ掛かっていた何かが、音を立ててプツリと切れた。


「本村先生。もういいですよ。全て終わったことなので」


 僕は落ち着いた声で本村先生に言った。本村先生がゆっくりと顔を上げる。僕の両サイドにいた真柴君と陽菜ちゃんも、少し驚いた様子で僕の方を見た。


 本村先生に掛けた言葉は本心だった。先程の謝罪を見て、もやもやしていた何かが取れたのだ。許すことができたから素直に言えたのかもしれない。


「本当にあの時はごめんね。みんな元気にしてた?」


「はい。みんな元気ですよ。僕と池野さんは地元に残っていますが、真柴君は県外の大学に通っています」


「まあ。そうなのね。みんな元気そうで良かったわ」


 僕が言うと、隣の陽菜ちゃんも本村先生に微笑んだ。それに対して本村先生も、柔らかい笑みを浮かべている。そこから当時のは、一切感じられなかった。


「先生は今、どうされてるんですか?」


 すると左隣の真柴君が、若干ぶっきらぼうに本村先生に聞いた。


「実は私、学校を辞めてから結婚したの。隣の席に座っているのが私の夫よ」


 どうやら学校を辞めてから結婚していたようだ。本村先生が、隣に座っている男の人を紹介した。すると男の人は、座ったまま僕たちにお辞儀をしてくれた。僕たち三人も、立ったまま男の人に頭を下げる。


 本村先生よりは、少しだけ若い感じの人に見える。旦那さんは何をしている人なのだろうか? そう思っていると本村先生が、一枚のチラシをポケットから取り出した。


「そして今、私は夫の実家の屋さんを一緒に切り盛りしているの」


「そうだったんですね。今度食べに行ってもいいですか?」


 うどん屋さんを切り盛りしていると聞き、僕は思い切って踏み込んだことを聞いてみた。さすがに断られるだろうか? すると本村先生は嬉しそうに微笑んだ。


「もちろん。是非食べに来て」


「分かりました。必ず行きます!」


 食べに行ってもいいと言ってくれて、僕はとても安堵した。右隣の陽菜ちゃんも、再び本村先生に微笑みかける。一方で真柴君は、笑みを浮かべてはいたものの、まだどこか腑に落ちないような顔をしていた。


「こんばんは。本村先生」


「小林君のお母様。お久しぶりです」


 するとその時、母さんが僕たちのいる所に来た。母さんが本村先生に挨拶をし、丁寧に頭を下げる。それに対して本村先生も、深々とお辞儀をしてくれた。


「先生。本当にお久しぶりです。お変わりありませんか?」


「はい。お陰様で元気です。それとあの時は、本当に申し訳ありませんでした」


 本村先生が先程よりも深く頭を下げる。母さんはどう対応すれば良いか分からず、戸惑った表情を見せた。


「大丈夫ですよ先生。もう全て終わったことなので、気になさらないでください。それより先程のお話聞いたのですが、うどん屋さんを切り盛りされているんですか?」


「はい。そうなんです。こちらがお店のチラシです」


 どうやら母さんも、先程の話を聞いていたようだ。本村先生が明るい声で返事をし、手に持っていたチラシを再び広げた。


「まあ。とても美味しそう」


「ありがとうございます」


 母さんがチラシに釘付けになっている。先程よく見ていなかったため、僕も母さんが見ているチラシを覗き込んだ。すると真ん中に堂々と、コシの良さそうなうどんが載っていた。


「吉田屋さんですね。私知ってますよ!」


「本当ですか?」


「はい。結構有名ですよね? 今度食べに行ってもいいですか?」


「もちろんです! そちらのチラシ、よろしければ差し上げます。またいつでもお越しください」


「まあ。ありがとうございます!」

 

 母さんがお辞儀をしながら、持っていたチラシを丁寧にたたんだ。そしてそれを、そのままポケットにしまい込む。それから手を前に組んで、母さんは再び本村先生の方に視線を向けた。


「では私たちは席に戻ります。お楽しみ中失礼しました。またうどん屋さんにもお伺いしますね」


「いえいえこちらこそ。今日はお会いできて本当に良かったです。ありがとうございました」


「こちらこそありがとうございました。さあ、みんなも席に戻りましょう」


 母さんが席に戻ろうとし始めた。僕は席に戻る前に、再び本村先生の方に体を向けた。両サイドにいる真柴君と陽菜ちゃんも、僕に倣って本村先生の方を向く。


「じゃあ本村先生、僕たちも失礼します。ありがとうございました」


「ありがとうございました」


 僕のすぐ後に、陽菜ちゃんもお礼を言ってお辞儀をした。一方で真柴君は、何も言葉を掛けず、不愛想に頭を下げたのみだった。


「こちらこそ。本当にありがとうね。またお店で会えるのを楽しみにしているわ」


「はい。またお会いしましょう。では失礼します」


 僕たちは最後にもう一度お辞儀をして、自分達の席へ戻っていった。すると真っ先に、真柴君が後ろを振り返りながら、僕の方へ近づいてきた。


「小林。本当にあれで良かったんか?」


 真柴君が不服そうに、僕に小声で聞いてきた。


「うん。許すって言ったのは本心やったけん、あれで良かったよ。それに昔のことをいつまでも引きずるの、僕は嫌やけんね」


 僕は先程感じたことを、素直に真柴君に言ってみた。すると真柴君の気難しい表情は、一気に穏やかになった。


「そうか。小林が納得したんなら、俺は全然良かったんよ」


「うん。ありがとう。僕はもう大丈夫やけん。それより席に戻って、料理の続きを食べよう」


「おお」


 先に戻っていた母さんと陽菜ちゃんが、既に食事を再開している。僕と真柴君も小走りで戻り、椅子に座った。


 席に着くと、ウーロン茶に入れていた氷は溶け、水っぽくなっていた。そして料理も湯気は出ておらず、すっかり冷めきっている。


「広樹。本村先生とお話ししてきたんか?」


 箸を手に持つと、顔を真っ赤にした父さんが僕に聞いてきた。


「うん。もう過去のわだかまりは、完全に解消することができた」


「おー。それは良かった。まあとにかく食べなさい。お腹が空いたやろう?」


「うん。お腹空いた。いただきます」


 冷めきった料理を口にする。だが不思議と、どの料理も美味しく感じられた。もやもやを解消することができ、心が軽くなったからかもしれない。その時僕は、本村先生と和解することができて、心の底から良かったと思えた。

      

        *


 それから二時間くらい経過しただろうか? みんな食事はとっくに切り上げ、デザートも完食しようとしていた。


 僕ももうお腹が一杯だ。そのためお代わりはやめ、最後に取ってきたを一つずつ食べていた。隣の真柴君も、まだデザートは口にしているものの、段々とペースが落ち始めている。


 僕の右前に座っている父さんは、ビールを更に飲んで酔っ払っていた。だがそんな父さんよりも凄いことになっているのは、僕から一番遠い席に座っている陽菜ちゃんのお母さんだ。


「あー。私とっても幸せだわ。こんなにお酒を飲めたのは何年ぶりかしら? ヒック!」


「美由紀さん飲み過ぎですよ!」


 向かいに座っていた千代さんが、先程から付きっきりで陽菜ちゃんのお母さんを介抱している。そんな状況に、陽菜ちゃんもどうすれば良いか分からず、困惑した面持ちでいた。


「美由紀さん、とっても酔っぱらっているわね。績さんは大丈夫ですか?」


 時さんが陽菜ちゃんのお母さんを見て、心配そうに父さんに聞いた。顔も目も真っ赤な父さんが、ぎこちなく手を左右に振る。


「時さん。わしは全然酔ってないですぞ。ヒック!」


「あなた。そのくらいにしといたら……?」


 父さんの様子を見て、母さんも眉を顰めた。時さんも不安そうに、酔っぱらった二人を見比べている。


「それより吉実、そろそろ写真を撮らないか?」


 父さんがとろんとした目つきで、眉を顰める母さんに聞いた。


「――そうね。そろそろ終盤やし、撮りましょうか」


 母さんが少し考える素振りを見せてから返事をした。確かにこれ以上酔いつぶれて、写真が撮れなくなってしまったら台無しだ。


 すると父さんが、勢いよく椅子から立ち上がった。だが立ち上がった瞬間、父さんの足はよろついた。その様子を見た時さんの表情が、ますます強張っていく。


「では皆さん、ここで記念写真を撮ろうと思います。カメラは私が持っておりますので、それで撮影しましょう」


 父さんはみんなに宣言した後、ゆっくりと母さんの方を見た。


「かばんの中に折り畳みの脚立がある。やけんその上にカメラを置いて、ピントを合わせよう。それからタイマー設定にして、誰かにボタンを押してもらうんや」


「そうね。ボタンは誰に押してもらおうかしら?」


 母さんが周りを見渡した。カメラのピント合わせも、ボタンを押すのも僕がしてみたい。僕は母さんに向けてゆっくりと手を上げた。


「僕がやってもいい? ピント合わせも、ボタンを押すのも全部するけん」


「本当? 助かるわ」


 母さんが嬉しそうに笑みを浮かべる。操作しても良いと言ってくれて良かった。すると父さんが、椅子に座ったまま脚立とカメラを僕に渡してきた。


「任せたぞ広樹。この上にカメラを乗せて、上手くピントを調節してくれ」


「分かった」


 僕は椅子から立ち上がった。そして父さんのぎこちない手から、脚立とカメラを受け取った。


 写真撮影は、長宮さんと千代さんのいる後ろ側からするのが良さそうだ。父さんを一番後ろにすることで、全員を写すことができる。僕は脚立とカメラを両手で持ち、小走りで後ろ側へ回った。

 

 後ろ側へ回ると、僕は大体の目星をつけて脚立を置いた。そしてその上に、上手くカメラをはめ込む。脚立が丁度良い高さであるため、細かい調節はしなくても良さそうだ。


 カメラの電源を入れた。やはり丁度良い高さだった。みんな枠内に収まり、とても綺麗に映っている。一番遠くの父さんの顔も、はっきりと映っていた。


「ではタイマー設定にしますね」


 カメラをタイマーモードに切り替える。十秒ほどがちょうど良いだろう。設定をしていると、早くも陽菜ちゃんのお母さんがポーズをとり始めた。その隣で恥ずかしそうにしている陽菜ちゃんも、しっかりと画面に映っている。


 カメラの設定が完了した。シャッターが切れるまでの時間は十秒になっている。後はボタンを押し、撮影をするのみだ。


「それじゃあ押しますよ!」


 僕は手を上げて合図をした。カメラ越しに見ると、みんなが頷いている。その様子を確認してから、僕はカメラのボタンを押した。


 カメラが音を立てて秒数をカウントし始める。早く席に戻らないといけない。走って自分の席へ向かい、椅子を後ろに引いた。


 カメラの秒ごとになる音が、速くなり始める。そろそろシャッターが切れるだろう。僕は座って椅子を前に引き、カメラに笑顔を向けた。


 すると笑顔を向けた瞬間、カメラのフラッシュが光った。写真が撮れたようだ。みんな目を瞑ることなく、しっかりと写っているだろうか?


「上手く撮れたかしら?」


 母さんが心配そうにしている。その様子を見た僕は、立ち上がってカメラを確認しに行った。


 脚立からカメラを外し、それを手に取る。そして履歴のボタンを押して確認した。するとみんな、とても良い状態で映っていた。目を瞑っている人も全然見当たらない。


「ちゃんと撮れとるよ!」


「本当!? 良かったわ!」


 心配そうにしている母さんに言うと、母さんは安堵したような表情を浮かべた。そんな母さんの表情を見たみんなも、嬉しそうにしている。僕も何だか幸せな気分になり、自然と笑みがこぼれた。


 再び撮った写真に目を向ける。みんなで集まることができて良かった。現像したら大切にアルバムへ保管しよう。一生の思い出ができた喜びを胸に、僕は脚立とカメラを丁寧に片付けていった。


        *


「「「さようなら」」」


「「「さようなら」」」


 それからしばらくして、僕たちは解散することになった。僕と父さん、そして母さんの三人で、みんなに大きく手を振る。僕たちとは反対方向のみんなも、笑顔で手を振り返してくれた。


「さあ。帰りましょ」


「うん」


 母さんがみんなに手を振ってから、僕たちに言った。僕が返事をして、三人で家に向かって歩き始める。

 

 外の大通りは、いつの間にか車が少なくなっていた。そして隣の上松堂も、看板以外電気が消えている。人通りもまばらになっており、行きに通った時よりも落ち着いていた。


「今日は楽しかったわ。広樹も真柴君と陽菜ちゃんから、プレゼントが貰えて良かったわね」


「うん。良かった。帰って開けるのが楽しみ」


「本当。開けるのが待ち遠しいわね」


 母さんの言葉に、父さんも微笑んでいる。僕は手に持っていた二つのプレゼントに目を向けた。


 実は陽菜ちゃんからも、帰り際にプレゼントを貰ったのだ。真柴君のも綺麗だが、陽菜ちゃんのもそれに負けないくらい華やかだ。中には一体何が入っているのだろうか? 帰って開けるのがとても待ち遠しい。


「それに、本村先生とも再会できて良かったわね。またうどん屋さんにも行きましょうね」


 プレゼントを眺めていると、母さんが続けて僕に言った。僕も顔を上げて、笑顔で母さんに頷いた。


「うん。行きたい。今度四人で行こう」


「そうね。時さんも誘って、みんなで行きましょ! 私も美味しいうどんを食べるために、明日から仕事頑張るわ」


 母さんが歩きながら大きく伸びをする。母さんは早速、明日から仕事のようだ。


「わしも明日から、今治に戻るよ」


 母さんの様子を見て、続けて父さんも言った。父さんも明日、今治に戻るようだ。少しずつ酔いが覚めてきているのか、返事に若干気合がこもっていた。


「あなたも、気を付けて戻ってくださいね」


「あー」


 母さんの言葉に、今度は穏やかに返事をした父さん。その様子を見て、僕もそろそろ新学期の準備を始めようと思った。


 もう少しで夏休みが終わる。そして代わりに、楽しい新学期が始まる。万全の準備を整え、また父さんと母さんのように頑張っていこうと思った。


        *


 無事に家まで帰ってきた。自分の部屋の扉を開けて、電気をつける。

 

 僕は部屋に入ると、真っ先に椅子に座った。そして二つのプレゼントを、そっと机の上に置いた。早くプレゼントの中身が見てみたい。


 だがプレゼントを前にすると、どちらから開けるか迷った。そこで僕は、手前にある真柴君のから開けてみることにした。四角く包装された紙を、丁寧に剥がしていく。


 丁寧に剥がした後、紙を机の上に置いた。包装紙に包まれていたのは、少し小さめの木箱だった。この中には何が入っているのだろうか? 続けて上の蓋をゆっくりと開ける。


 すると木箱の中には、立派な木製の万年筆が入っていた。高級で使い心地が良さそうだ。中から香る木の匂いが、僕を優しく癒してくる。


 この香りは恐らくひのきだ。それにしてもありがたい。使うのが勿体ないと感じてしまうほどだ。僕は喜びを感じながら、一旦万年筆を箱に戻した。


 次は陽菜ちゃんのプレゼントだ。陽菜ちゃんのプレゼントも丁寧に包装されている。平たくて長い物のようだが、中身は一体何なのだろうか?


 ゆっくりと包装紙を外した。すると中には、大きな冊子が三組入っていた。読書感想文などでよく使う原稿用紙のようだ。三組とも同じ種類のものだった。


 すると原稿用紙の一番上に、手紙が入っていることに気が付いた。僕は破らないようにしながら、それを慎重に取り出した。


――広樹君へ

 

 以前一緒に食事に行った時、小説が書きたいって言っていたわよね。そこで私からは、原稿用紙を三組プレゼントするわ。広樹君ならきっとできる。最後まで書き上げることができるわ。私も手伝えることがあったら何でもするけん、また気軽に相談してね。いつもありがとう。 陽菜より


 手紙を読んだ後、僕は涙が出そうなほど嬉しくなった。確かに僕は、以前から小説が書きたいと思っていた。デートした時さりげなく呟いただけなのに、陽菜ちゃんは覚えていてくれたようだ。


 そっと手紙を机の上に置いた。すると真柴君の万年筆が、再び目に飛び込んできた。その後に続いて、陽菜ちゃんから貰った原稿用紙も、再度視界に入ってくる。


 それらを交互に見た瞬間、僕はハッとした。これで小説を書くことができる。僕は早速原稿用紙を開け、万年筆を手に取った。


 タイトルはもちろん、“クラス小戦争”だ。だが題名を書き始めると、僕の脳裏に不安が過った。本当に上手く表現できるのか、そして最後まで書き上げることができるのかと。


 だがそんな疑念は必要ない。僕は即座に振り払った。そして自分にできると言い聞かせ、止まりかけていた手を再び動かした。クラス小戦争という出来事を、未来へ残してゆくために。


クラス小戦争 (終)

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クラス小戦争 しんたろー @shintarokirokugakari

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