凍えるほどにあなたをください
野森ちえこ
今度こそ
黄金色に輝く空の下。とがった冷気がビリビリと顔面を攻撃してくる一月の夕暮れ。
白に近い水色のコートに身を包んだ若い女の子が、二十メートルほど向こうから、とぼとぼとこちらに歩いてくる。
艷やかなストレートの黒髪を巻きこんだタータンチェックのマフラーに、顔をうずめるようにしてその視線を足もとに落としている。
見間違いでなければ、彼女はつい先ほど、赤い屋根の一戸建て――おれが今まさに帰ろうとしている家から出てきた。
それはいい。いや、ほんとうはよくないのだけれど、女の子の出入りはいつものことなのでもう諦めている。
問題は、彼女がおれの見知った人間であるということだ。
まだ記憶に新しい中学時代。彼女とは二年三年とおなじクラスだったのだ。それだけならまだしも、よりによってというか、なんというか。
彼女はおれの、初恋の人だった。
❅
きりっとした美人なのに、くしゃっと顔ぜんぶをくずして笑う。そうすると、ふだんのクールさはかき消え、とたんに子どものような、あどけない顔になる。
きっかけはたぶん、そのギャップだった。
氷と太陽。夜と朝。ナイフと毛布。どうたとえたらいいのかわからないけれど、気づけば彼女の姿を目で追っている自分がいた。
でも、それだけだ。
告白どころか話しかけることもろくにできず、ほんとうに、ただ見ているだけの初恋だった。
それは当時のおれが硬派キャラでとおっていたせいもある。
もっとも、なろうと思ってなったわけではない。気づいたときにはすでにそういうことになっていた。ほんとうは、ただ口べたなだけだというのに。
彼女に対してはなおさら――というか、もはや病気レベルだったような気がする。
名前を呼ぼうと思うだけで心臓が誤作動を起こしたように暴れるものだから、心のなかですら彼女の名を呼んだことがないくらいだ。
そうして、ぐずぐずしているうちに卒業を迎えてしまい、高校は別々。彼女との接点もなくなってしまった。
❅
今、家にいるのは兄だけだ。
彼女がうちから出てきたということは、つまり兄とそういう関係なわけで、とりあえずここで鉢あわせるのは気まずい。おもにおれが。
そうは思うのだけど、どうしたことか指一本まともに動いてくれない。
彼女がおれの知っている彼女であると認識したとたん、脳からの伝達経路が遮断されてしまったみたいだ。
そうこうしているうちに、彼女はもう目のまえに迫っていて、このままではぶつかる――というところで、彼女はようやく足をとめた。うつむけていた顔を、だるそうあげる。
そのうつろな目を見て、おれの胸にわき起こったのは、気まずさでも心配でもなく、あろうことか安堵だった。
おそらく、兄との関係が『おわった』のだ。そして彼女の気持ちは、きっと真剣だった。真剣だったからこそ、ダメージを受けている。
そのことに、おれはホッとしていた。
彼女はただ、男を見る目がなかっただけなのだと。
あの兄と同類ではなかったことに。
自分の初恋が汚れなかったことに。
おれは胸をなでおろしたのだ。あきらかに傷ついているようすの彼女をまえにして。
これでは兄のことをどうこういえないじゃないか。
❅
兄は現在十九歳の大学生で、おれの二歳上だ。ただし、血のつながりはない。だから正確にいえば義理の兄なのだが、そこになにか面倒くさい事情があるのかといえば、そんなこともない。単純に親が再婚同士で、おれは母の、兄は父の連れ子だったというだけである。
なんにせよ、見た目さわやかで人あたりもいい兄は、女の子によくモテる。
最初は純粋にうらやましかった。
いや、本音をいえば今もちょっとうらやましい。けれど、兄のようになりたいかといえば、まったくそうは思えない。見習いたいとも思わない。むしろ、ああいう男になってはいけないと思う。
なにせ兄の相手は、月がわりどころか週がわり、へたをすれば日がわりなのではないか――と思うくらい、いれかわりが激しいのである。
なぜおれがそんなことを知っているのかといえば、兄はいつも家をホテルがわりにつかっているからだ。両親が共働きなのをいいことに、勝手放題好き放題。おれがいてもおかまいなしだ。おかげで、知りたくもない相手の情報が勝手にはいってくるのである。
ちなみに『ひとりの子とまじめにつきあうなんて面倒だし、そもそもすぐに飽きる』というのが兄のいいぶんである。
こんな女の敵のような男がなぜモテるのか。
世のなか理不尽だ。
それにしたって、まさかこんなかたちで中学時代のクラスメートに、それも初恋相手に再会することになるなんて、まったく想像もしていなかった。
しかし高校も二年、春からは三年生である。初恋だって、さすがにもう過去になっているかと思ったのだが――そうでもなかったらしい。
気まずいなんてものではない。一瞬の安堵のあとにやってきたのは、全身が砕けるのではないかと思うくらいの、激しい動揺だった。
❅
バカみたいに立ちつくしたままのおれになにを思ったのか。
「わたしね、すっごい冷え性なの」
挨拶も質問もなく、彼女はだしぬけにそういった。どうやら、おれの顔はおぼえていたらしい。
「ほら」と手袋をはずした手をつきだされ、恐るおそるさわってみれば、確かに氷のほうがまだあたたかいのではないかと思うほどだった。つめたいというよりも痛い。こちらの体温が、ぐんぐん奪われていくのがわかった。
驚くおれに「ね?」と、彼女は諦めたように笑った。おれの知らない、さみしい、乾いた笑顔だった。
「わたしにさわるのも、さわられるのも、みんな嫌がるの。冬場は特に。家族も、友だちも、恋人も」
ほかの人間は知らないが、兄はたぶん、別れる『口実』に彼女の体質を利用しただけだろう。恨まれないよう、別れることになったのは自分のせいだと相手に思わせるのが、兄のいつもの手だった。そういう男なのである。
それにしても、ほんとうに芯からつめたい。冷えきった鉄柱でも握っているみたいだ。
これほどつめたいと、人の体温程度であたためるのは不可能なのではないかと思える。
それならいっそ、凍えるほどにあなたをください――なんていったら、彼女はどんな反応をするだろう。ふとそんなことを思う。
驚くか、苦笑するか。それとも怒るだろうか。少なくとも、よろこばれることはないような気がする。むしろどん引きされるかもしれない。
けれど、おれの気持ちとしては、わりと本気である。
ただきっと、今いうべきことではない。
彼女にとっておれは、ろくに話したこともない、おなじクラスだったことがあるというだけの人間だ。友だちですらない。いってしまえば赤の他人である。そんなやつにいきなり『あなたをください』なんていわれたら。たぶん、気持ち悪いだけだろう。
なにより、義理とはいえ、おれはあいつの弟なわけで、それだけでもうマイナスなのではないかと思う。
だいたい、失恋につけこむような真似はしたくない――って、いや、ちょっと待て。
そういえば、おれたちが兄弟であることを彼女は知っているのだろうか。
うちの苗字なんて、そのへんにゴロゴロ転がっているし、そもそも彼女がおれの名前をおぼえているかどうかも怪しいし……え? あれ? これは確認したほうがいいのか? ていっても、なんて聞けばいいんだ?
「あのぉ……」
困惑したような彼女の声に、プチパニックに陥っていたおれはハッと我に返った。握ったままだった手をあわててはなす。
「わ、悪い!」
「う、ううん、わたしこそ。いきなりごめん。寒いのに」
まずは、なんだ。とりあえず落ちつけ。落ちつくんだ、おれ。
「ええと……あ、ラーメン」
「え?」
「近くに、うまいラーメン屋があるんだ」
「うん?」
「いや、あのー」
おれはなにをいってるんだ! と、プチパニックふたたびである。
なぜいきなりラーメン。誘うにしたってそれはない。と、自分でも思うのだけど、一度口から出てしまったものをなかったことにもできない。
どうやら、寒い→あたたかいもの→ラーメンと、脳が勝手に連想してしまったらしい。
「ラーメン、嫌いか?」
なんか口をひらけばひらくほどドツボにはまっていくような気がする。
どうすりゃいいんだと心のなかで頭を抱えていると、きょとんとしていた彼女が「ぷっ」と吹きだした。
こらえきれないというように笑うその顔は、おれが大好きな、顔ぜんぶの笑顔だった。
「好きよ、ラーメン」
好きよ。好きよ。好き――
彼女の声で発せられたその言葉だけが、ものすごい勢いで脳内をかけ巡る。
いや、だから、落ちつけ。彼女が好きだといったのはラーメンである。
大丈夫。わかっている。
笑いすぎたせいか、それともほかの理由か。彼女の目尻からこぼれた水滴に、おれもわずかながら冷静さをとり戻す。
思いもよらない再会に動揺しているのは、たぶんおれだけじゃない。失恋したばかりだろう彼女も、きっと混乱している。
彼女は顔に笑いを残したまま、ふいに空を見あげた。先ほどまで鮮烈に燃えていた空が、急速に夜の色に染まっていく。
「案内してくれる?」
「え?」
「ラーメン屋さん」
失恋につけこむようなことはしたくない。だけど、このチャンスを逃したくもない。
最初の目標は、あれだ。名前を呼べるようになること。
人にいったら笑われそうだけれど、おれにとっては一大事なのである。
苗字でいい。なにも特別なことはない。いくらそういい聞かせても、声にすることができなかった中学時代。
今度こそ。
決意も新たに、おれは勢いよくうなずいた。
(おしまい)
凍えるほどにあなたをください 野森ちえこ @nono_chie
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