夢の香り

 天近い空中庭園に、小さな銀の翼を持つ娘が一人ぽつんと座っている。

 娘は、空から恋人が戻ってくるのを待っている。

 蜃気楼を統べ、楽を奏で、香を喰べて生きる半神半獣の乾闥婆ガンダルヴァ。彼らが卵や母のはらではなく輪廻サンサーラの糸の震えから生まれるということは、ここに来てから知った。やがて戻るはずの恋人は、娘がおのれの生を嘆き悲しみ輪廻サンサーラの糸からちた時の糸の震えによって生まれ、生まれ落ちた瞬間に娘の手を掴んだのだという。


――私だけの夢。不動の夢デリヤ


 娘は、自分のために生まれた乾闥婆ガンダルヴァをそう呼ぶ。

 そしてデリヤは、自分を生み出しこのあぶくの夢世界を存在させる娘を、世界の秘密ラハシャと呼んでいた。

 デリヤは千目鳥アクシャたちと共に砂漠を見回り、無数の泡世界を支配する天帝に楽の音を捧げに行くこともあるが、必ず娘のもとに帰ってくる。死と消滅を恐れる娘が病みつかないように。

 そうして、娘がその生涯の出来事や苦しみを徐々に忘れていくのを見守っているのだという。自分が忘れたのかどうか、娘には分からない。忘れてしまったことはもう思い出せないからだ。

 忘れるほどに、娘の背の銀翼は大きくなる。


――いつかこの翼で、お前が飛べるようになったら。


 デリヤは繰り返しそう話す。


――それはお前が生前の出来事をすべて忘れたということ。無我となり、再び輪廻サンサーラの糸に戻れる時が来たということだ。

――その時、この世界も俺も消えるが、悲しむことはない。お前も、ナイラであったこと、俺の愛しい秘密ラハシャであったことを、すべて忘れているだろうから。


――秘密ラハシャよ、すべてはくうなのだよ。

――今ただ一時、まぐれのように俺たちという意識があるだけ。


――だから、恐れることはない。



 千目鳥アクシャの鳴き交わす声が聞こえてくると、娘は立ち上がり、広い空を見上げた。天高きところから、黄金の翼を広げた乾闥婆ガンダルヴァがこの蜃気楼の城に舞い降りる。

 紅い肌、紅い髪、金の瞳と、優しい声。


「ただいま、ラハシャ」


 ラハシャとは、どんな意味だったろうか。


「お帰りなさい、デリヤさま」


 デリヤとはどんな意味。ああ、少しずつ少しずつ薄れてゆく。

 温かな胸に抱かれ、溶けるように夢の香りを感じて、ラハシャは目を閉じた。

 そうして花の咲きこぼれる樹下の寝台に横たえられ、天の楽師に護られながらその永遠の唄を聴く。




――生生生うまれうまれうまれうまれて暗生始せいのはじめにくらく

――死死死しにしにしにしんで冥死終しのおわりにくらし


――くうくう、空の空なり、すべてはむなしい。



――この世はすべて、泡沫うたかたの夢。







〈了〉

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糸の震え 鍋島小骨 @alphecca_

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