僧侶の惑い
一人の僧侶が
山中に行き倒れた旅人を見るたび
生きてまた森の外へ戻る希望は持っていない。多くの先人たちがそうであるように、自分もまた
生還した数少ない僧侶たちの言い残した内容はばらばらで、いずれが真実とも判断しがたい。ただどうやら、気が触れて出てきた者たちに限ってこう証言している――白い砂漠と海を見た、と。
そうして今、僧侶は思いがけず森を抜け、彼方に海を望む白い砂漠に踏み出しているのだった。
――つまり、私もついに正気を失ったのか。
だが、それならそれでよい、と僧侶は真っ直ぐ歩み続けることにした。方向など、どう歩こうと変わりはない。砂漠には目視しただけでも数え切れないほどの人骨が散らばっていたからだ。もはや骨の砂漠である。一歩進むたびに弔いながら、恐らくは永遠に渡り切れぬであろうこの砂漠で死ぬと心を定めて僧侶は進んだ。
そうして、転がる骨の一つ一つからその生涯の
この骨は商人。浅ましいまでに利を求めて
この骨は商人の従者。無理な荷物を背負わされて満身創痍となり、従者の命より荷物を大事にする
この骨はまた別の商人。信じて続けた取引で裏切られすべてを失い、家族を皆手にかけたあと、自分を
この骨は遠国の王族。傲慢から偽善に走り人々の失望を浴びて国を追われたが、伝説の
この骨は故郷を追放された娘。身分の低さ、容姿の珍しさから
こうして骨たちの記憶を視続けた僧侶は、骨たちが必ずしもこの森、この砂漠で死んだ者ばかりではないのを不思議に思った。骨は何故ここへ来たのか。
もうひとつ不思議なことがある。これほどの数の骨をみると互いに知り合いという場合もあるが、それぞれの記憶に食い違いがあるのだ。さらに、一つの骨から複数の物語が視えることもある。
例えば先ほどの商人。夜逃げ寸前で打ち殺されているが、一方でこの砂漠まで旅し、冷遇した娘に出会った記憶を宿していた。
その従者の骨も同じだ。殺されたはずの
また、親に殺された娘にしても、この砂漠で再びその親に
これは、どうしたことか。
一向に分からないが、それでも弔い、弔い、弔いながら、僧侶はゆっくりと砂漠を進む。白い砂漠の彼方には
皆、あれを
それなのに、人は何故。
気がつくと風の音が止み、砂漠はひどく静かだった。
何か起きたのか。僧侶は辺りを見回す。
変わりなく、同じ風景だ。ほっとして再び前を向くと、視線の先に頭から布を
僧侶はたちまち緊張した。
どこから現れた? この見通しのいい砂漠で、どこにも隠れられなかったはず。
娘の痩せた手足には金色の輪が
あの商人の骨だ、と僧侶は思った。先ほど弔ったのに、また同じところへ戻ってしまったのか。真っ直ぐ進んだつもりでいたのに。
そしてこの娘は、死者たちの記憶に垣間見えた
ならば、やはり死人。魔物の試しに違いない。
しゃん、と
「魔よ、
娘の手足は打ち身だらけの色をしている。白い砂に落ちる影がやけに濃い。細い影の背中には翼のような何かが――翼?
しゃん。再び錫杖を鳴らした時、ついに
片眼は青。片眼は闇。頬に赤黒い涙の痕。
そうして、震える唇が誰かを呼ぶ。
「……デリヤさま」
たちまち砂漠に風が巻き起こった。僧侶は思わず衣の
「俺は魔物ではない。天帝の楽師、
その声は、僧侶にはまるで砂嵐の
「僧侶のお前が、命の
「いいえ、私は永遠の命など求めません。ただ、
「魔か否かの見分けもつかぬのに? お前はこの娘を魔物と断じた」
「それは――その娘は既に死人――」
「今は俺の眷属だ。死に際の夢に命の
「では
「いずれはな。しかし今はすべて夢。だからこそこの娘は、世界の
大きな羽ばたきの音に僧侶は一瞬目を閉じ、また開くとすでに娘の姿はない。そして金眼の
ただ、声だけが降ってくる。
――
ここは
ああ、と
では、これまでの旅で見聞きしてきたこと、今この砂漠にいることも。
私は、死に際の
――あるいはもっと初めから、
膝が砂に沈む。白い砂が流れていく。
――お前が生まれたことすら、この夢の。
全ては偽りかもしれぬ。
全てが幻かもしれぬ。
――
空が
流砂が僧侶の脚を巻き込んでいく。
その目前に、こめかみを砕かれた頭蓋骨が一つ転がっていた。
記憶が見える。
父の下僕に目玉を
川に沈められた娘の最期の願いが。
苦しい。
痛い。
寒い。
悔しい。
悲しい。
……死にたくない。
ああ、
誰かが私を救ってくれたなら。
私、
こんな、
なにもない、
つらいだけの、
なんのために、
この生は、
なにも叶わなかった、
私は消えるの?
いや。
いや。
嫌だ、死にたくない!
神や仏でなくてもいい、
魔でも幻でもいいから、
誰か、一度くらい。
私を助けて――
そうして暗闇の中、娘の手を掴む者がある。
紅の肌、黄金の翼。
楽の音の声で告げられる、言葉。
――
――俺はお前が生んだ
――生まれては消える
――ずっと一緒にいよう。
――いつかこの世が溶けて消え、無我に還って再び六道を巡る時まで、
――二人、この夢の中に。
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