商人と娘

 気がつくと、ひどく静かだった。あんなに風の音がしていたのに――いや、あれは従者の声だったか?

 サンティは辺りを見回す。後を歩いていたはずの従者たちがいない。

 森。白い砂漠。自分ひとりの足跡。彼方の海。海を背にした乾闥婆ガンダルヴァの城。

 そんなはずはない。

 暑かったはずなのにひどい寒気を覚えた。こめかみを、背を、大粒の汗が流れていく。

 これはもしや、噂通りの、試しの砂漠。魔物にとらわれたか。


「あるじさま、」


 耳の後ろに生ぬるい息と声が当たって、サンティは飛び上がった。

 慌てて振り返り、少し離れたところに立っている人影を見て舌打ちする。

 ナイラいやしい奴隷女が堕胎に失敗して産んだ娘。急に緊張が抜けて、サンティはいつもの自分を取り戻した。

 そうだ、従者たちは不出来にも森の中で動けなくなったり逃げたりしてもういない。背負わせてきた財宝は森に隠した。乾闥婆ガンダルヴァに捧げる時はそこまで戻ればよい、何しろ乾闥婆ガンダルヴァは飛べるのだから。

 一人で砂漠を渡ろうと踏み出した時、このナイラが現れたのだ。


「あるじさま、どうなさいました。風も止み、進みやすくなりましたよ」


 ああ、とサンティは生返事をした。

 そうだったろうか? ナイラは生きていただろうか? いろいろな町で死んだのではなかったか? いや、追い出すと言って町の外に連れていった時、そこで殺してしまうように下僕に命じたのではなかっただろうか?

 下僕はそのあかしに、ナイラの青い目玉を持ってきて見せたのではなかったか?


乾闥婆ガンダルヴァは天帝のしもべ。とても慈悲深く、私のようないやしく醜い娘にもお恵みをくださいました」


 サンティはうなずいた。ナイラは、旅の果てにこの砂漠に辿り着き、行き倒れかけたところを乾闥婆ガンダルヴァに救われたのだと言っていた。今は彼方に見えるあの城に仕えているのだという。生き別れの父がここまで来たことを知り、願い出て迎えに来たと、さっき聞いたばかりだ。

 この娘と連れ立って歩くことなど初めてかもしれない、とサンティは気付く。奴隷が産んだ子は奴隷だ。サンティと同じ世界に生きる者ではない。だからサンティは、自分の前を歩くナイラを初めて見た。普段は平伏していたから。

 娘は手足に鉄の輪をめ、両足の輪は鎖で繋がれている。重りはない。どこにいったのだろう、長く歩いて逃げられぬようつけておいたのに。あの時下僕も、その重りごと川に死体を捨てたから絶対に上がってこないと言ったのに。


「お城に着いたら、思いの丈をお話なさいませ。あるじさまにも命のアグルを分けてくださるかもしれません」


「というと、お前にも」


「ええ。ですから私、すっかり元気になり傷も癒え、こうして幸せに暮らしているのです」


「お前は何の話をした」


「すべてです」


「すべてとは」


 聞いてはいけない、と誰かが大声で知らせてきているような気がしたが、それを感じるより先に口が動いた。娘は城に向かって歩きながら穏やかに答える。


「すべてとは、すべてです。

 あなたが母に、私をろすよう命じたこと。

 生まれた私を殴り、蹴り、罵って気が狂うまで働かせたこと。

 母に私を殺すよう命じたこと。

 下僕に私を殺すよう命じたこと。

 私のように生まれ殺された子がほかに二十八人いること。

 商売の失敗がばれる前に持てるだけの財宝を持って逃げてきたこと。

 乾闥婆ガンダルヴァからアグルを手に入れられなくても、偽物をこしらえて傷病者たちからお金をとる商売を始めようと考えていること」


 ぞくり、と背筋が震えた。太陽の照りつける真っ白な砂漠で。

 その通りだった。サンティは、一代で身を立てたその才で、誰よりも早く自分の商売のしくじりに気がついた。どう考えても挽回は不可能で、発覚次第罪人として衆目の前に首をねられても不思議はないほどのしくじり。慢心から部下に仕事を任せすぎた結果だ。だから乾闥婆ガンダルヴァアグル探しを名目に、二度と帰らないつもりで逃げてきたのだ。自分がいなければ代わりに罪を問われるかもしれない部下や妻子を騙し、捨ててきた。

 そして、誰も自分を知る者がいない地で、アグル探しの旅からの奇跡的な帰還者としてあぶくぜにを稼いで暮らせばよい、と考えていた。

 だがそれを、なぜナイラが知っているのか。

 白い砂に落ちる影がやけに濃く見える。サンティはナイラの両足の輪が金色に変わったことに気付かない。立ち止まり振り返ったナイラの顔に目が引き付けられる。

 ナイラの青い眼が見ている。しかし、片方のがんは目玉をえぐられて深い闇だけになっていた。左右の頬を赤黒い血が流れていく。

 その唇はいつしか薄く笑っており、口の中からはサンティが最も恐れる言葉が流れ出した。


「あなたが乾闥婆ガンダルヴァの城近くまで旅を続けるなんて大それたこと、本当にできるとでも? 同じ町の中を移動するのでさえ自分の足で歩かなかった怠惰なあなたが。

 あなたは死んだのですよ。旅に出ることもなく、あなたのしくじりのせいで破滅した商売相手に命を狙われ、役にも立たない財宝をき散らかしながら醜く命乞いして殺されたのです。でなければでしょう? 私は死人なのだから。

 あなたはみっともなくみじめな死に方をした。この先なんてない。あなたはこれから生前の報いを受ける。無になる」


 ああ、では、私がこれまでの旅で見聞きしてきたこと、今この砂漠にいることは。

 全ては偽りであったのか。

 全てが幻であったのか。


 私は、死の間際の夢を見ているに過ぎないのか。



 サンティは絶叫した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る