(SIDE)キャロライン視点(後日談は後半からです)

アストリア王国で伯爵家長女として生まれたキャロラインは、類稀な美貌と高い魔術の才能を持つ、天が二物を与えたと噂される少女だった。16歳を迎えたアストリア王国の国民が一斉に受ける魔術試験では、歴代最高に近い成績でトップを飾り、若干16歳にして王国の5本の指に入る魔術の実力と評価されたほどである。


薄桃色の軽くウェーブのかかった艶のある長い髪に、森の奥の深い湖水を映すような神秘的な深緑色の瞳。道行く人が思わず振り返るような美しさを持ち、客観的には恵まれた存在に見えるであろう、一見気の強そうな彼女は、幼い頃からその目の奥に憂いを浮かべていた。それは、彼女がいつも1人の少女の日陰にいたからだ。


その少女とは、彼女の実の妹、アリシアである。

キャロラインの年子の妹であるアリシアは、稀代の魔女から一国の運命を左右するほどの膨大な魔力を預言され、また、優れた魔術の能力者のみが持つと言われる赤紫の髪色をしていた。

魔術の能力が、家格を決める唯一の価値となるアストリア王国において、アリシアの存在は家族の期待を一身に背負った。

キャロラインが妹に負けじと、どれほど魔術に勉学に励んでも、それは伯爵家長女として当然のこととして扱われるだけで、褒められることなど一度もなかった。家族の期待は全て妹のアリシアに向き、家族以外の人々からもキャロラインは「アリシアの姉」として見られた。……キャロラインと会った人々は、こう言って彼女を称賛した。何と美しく優秀なのだ、さすがはアリシアの姉だ、と。


妹のアリシアは魔術の才能を期待されるだけでなく、美しく、朗らかで優しく、周囲の皆に愛されながら健やかに成長していった。

キャロラインも、幼い時分はそんな妹を可愛がっていたけれど、ある日を境に、キャロラインの目に宿っていた憂いは、妹への憎悪へと一変することとなる。


それは、キャロラインが心深く想いを寄せる、金髪碧眼のアストリア王国の美しき皇太子ーー「花の皇太子」の二つ名を持つフレデリック王子の婚約者候補筆頭として、妹が推されていることがわかった日からだった。


***

……どうして、いつもあの子なのかしら。


私は涙に頬を濡らしながら、震えるような悔しさに唇を噛み締めていた。


眉目秀麗と名高いアストリア王国皇太子であるフレデリック様は、アストリア王国の女性たちの憧れであり、私もその例外ではなかった。まだ幼い彼の姿を遠くから見ただけで、私は一目で彼の虜になった。

彼は美しいだけではなかった。凪いだ海のような深い青色の瞳に聡明さを映す彼は、優れた為政者の片鱗を幼い時分から感じさせていた。また、彼には一際優れた剣の腕が認められ、高い魔術の才能も期待されていた。


優れた魔術の能力があれば、アストリア王国で重用され、将来はフレデリック様のお役に立つことが出来る。

まだ魔術の封印が解かれる16歳になる前から、私は彼に一歩でも近付き、少しでもそのお力になりたい、その一心で、ありとあらゆる努力をしてきた。

魔術に関して先取りの学習をするだけでなく、伯爵令嬢には珍しいと言われながら剣の腕も磨いた。礼儀作法は当然ながら、政治や外交、そして王国に時々出没する魔物についても、幅広く貪欲に知識を吸収していった。


私がどれほど努力をしても、両親の目には私の姿は映らない。

満たされない思いの裏で、私はフレデリック様の存在を心の支えに、将来彼に役立てる存在になりたいという気持ちだけを糧として、必死に努力した。

……そんな私を尊敬の眼差しで見つめるのが妹のアリシアだけだったなんて、何という皮肉なのだろうか。頭抜けた期待を集める彼女がいるせいで、私は家族の視界から外れ、これほどに自分の気持ちを胸にしまうほかなかったというのに。


そんなある日、アリシアが近々王宮に行くという話を聞いた。何でも、父の仕事の都合で王宮を訪れる際、フレデリック様にもお会いするという。


今まで我儘を言うことすら諦めていた私だったけれど、初めて父に懇願をした。私も一緒に王宮に行きたい、フレデリック様にも一目でいいからお会いしたい、と。


私に答える父の表情は冷たく、とりつくしまもなかった。アリシアは将来、皇太子妃になる予定だ。これはそのための皇太子との顔合わせなのだ、お前を連れて行くことはできない、と。


私はその時、足元から崩れ落ちるような感覚を覚え、今まで溜まりに溜まっていた、抑えていた感情と共に、涙が溢れ出した。

……私の大切なものを、なぜ、妹はすべて奪っていくのだろう。

私は、何もフレデリック様の隣に立ちたいとまで高望みしていた訳ではない。その美しいお姿を目にするだけで、胸は甘く高鳴ったけれど、フレデリック様のお側近くでお仕えできれば、それで構わないと思っていた。

それなのに。


……フレデリック様は、たった一つしか年の違わない妹のものになろうとしている。

これがもし、よくは知らない他の貴族令嬢だったとしたら、フレデリック様の婚約者候補の話に心が痛んだとしても、その気持ちに蓋をすることができたのかもしれない。

これほどまでに、身が捩れるような、心臓が素手で握り潰されるような絶望感にまでは苛まれなかっただろう。

妹が隣に立つフレデリック様のお側で仕えるなんて、彼女に微笑む彼の姿を近くで見なければならないなんて、想像するだけでも心が悲鳴を上げた。


妹が持つと言われる強大な魔力や、生まれ持った赤紫の髪は、私がどれほど努力を重ねたところで、追い付けるようなものではない。

近くて遠いその存在に、私は例えようのないほどの妬みと、黒い感情が胸に渦巻くようになった。

……私は、笑わなくなった。


しかも、その当人である妹は、フレデリック様の婚約者候補筆頭になったことがどれほどのことなのか、その事の重大さにもまったく気付いていないらしかった。顔合わせの際には、なぜか彼女が持って行ったという難しい魔術書を、フレデリック様が優しく解説してくれたと屈託なく笑って喜んでいた。

後から知ったところによると、私を笑顔にすることができる魔法を知りたいと、彼女なりに必死だったらしい。

……いくら魔術の能力が重視されるこの国とはいえ、普通の貴族令嬢なら、少しでも美しく着飾り、フレデリック様の歓心を得るようにと努める筈だろう。けれども、どうやらそんな、飾らないアリシアのことを、皇太子様はお気に召したようだった。


私が16歳を迎え、他を引き離した1位で魔術試験を通った時、表彰のための式典に参加されたフレデリック様と、初めて言葉を交わした。

喜びに頬を染めた私は精一杯の笑顔で彼に挨拶をした。彼も微笑みを返してくれたけれど、それは儀礼的なものにすぎなかった。


その帰り、魔術試験を見に来ていたアリシアと家路に向かおうとしていた時、フレデリック様とお会いした。フレデリック様は、優しい瞳でアリシアに話し掛けた。それは、明らかに彼女だけに向けられた、私を見るのとはまったく違う愛おしそうな表情だった。

私は思わずアリシアに冷たい視線を浴びせた。……私が主役のこの場でさえ、私ではなくこの子が、フレデリック様の熱い眼差しを受けている。アリシアは私の気持ちを察してか、彼とは挨拶もそこそこにその場を辞した。


魔術試験の結果があまりに秀でていたからだろう、私はフレデリック様の婚約者候補第二位と目されるようになった。

同じ家の姉妹が、1人の相手の婚約者候補と目されることは例外的だ。けれど、何より魔術の能力が重視されるこの国では、高い魔術の能力を持つ跡継ぎを残すために、魔力の高い貴族家令嬢を確保しておくことは、歴史上も見られないことではなかった。


私の心は踊った。今までは夢で見ることしかなかった、フレデリック様の隣という輝かしい場所が見えてきたのだから。けれど、一方で、婚約者候補筆頭の席がアリシアのために空けられているのを、嫌というほど感じていた。

国王陛下は慎重な方だ。皇太子様の希望がどうであれ、アリシアが16歳を迎え、その魔術試験の結果を見てから、フレデリック様の婚約者を定めることとされたようだった。


そして、迎えたアリシアの魔術試験の日。

結果は、期待に胸を膨らませていた家族の期待を裏切る、意外なものだった。

彼女には、魔術の才能がほんの少しでさえも認められなかったのだ。


父に我が家の恥と罵られ、家を追われるアリシアを目にして、私は隠し切れずに口角を上げた。

顔面蒼白で父の前を辞すアリシアを、私は内心、小気味良い思いで見つめていた。

……今まで、彼女のせいで私は肩身を狭くし、我慢と忍耐を強いられてきた。それが、彼女はいなくなり、とうとうフレデリック様は私のものになる。笑いが止まらなくなったとしても、何ら不思議ではないだろう。



けれど、現実は私が思うほどには甘くはなかった。

国王陛下が定めた婚約者なのだ、私は当然フレデリック様に受け入れられるものと思っていた。しかし、フレデリック様はアリシアを忘れられない様子で、彼女に魔術の才能がないことも腑に落ちてはいないようだった。


私の心には、嫉妬の炎が燃え上がった。……目の前から姿を消してもなお、彼女は私の邪魔をする。妹の存在そのものがなくなれば、フレデリック様もその目を私に向けてくれるのではないだろうか。

彼女が姿を消した先が、アストリア王国が侵攻を予定していた隣国だったとわかり、私は歪んだ想いに駆られ、敵国への攻撃という名の下にアリシアの命を狙った。彼女は、魔術は使えないものの、膨大な魔力持ちという魔女の預言は当たっていたようだ。…彼女の魔力を分け与えた結果だろう、隣国には僅かな間に国全体にわたる結界が張られており、アストリア王国の国王陛下はその事実に怒り心頭だった。


彼女の、優しく、自分よりも人のために尽くす性格を利用して、私は予想通りに事を運んだ。……アリシアは、彼女を慕う弟を救おうと、自分の残る全魔力と引き換えに、つまり彼女の命と引き換えに、弟を助けた。

……彼女は魔力切れを起こして命を落とした、確かにその筈だった。


しかし、どうしたことだろうか。

妹のアリシアは生きていたどころか、どうやったのか、フレデリック様の庇護の下に入ったらしい。フレデリック様からは私宛に一通の手紙だけが素気無く送られてきた。私との婚約を破棄し、膨大な魔力を分け与えられる能力が判明したアリシアと婚約する、と。その手紙に、私は全身から血の気が引くと、膝からその場に崩れ落ちた。



けれど、そんなアリシアは、次の戦の終わり際に、フレデリック様を置いてあっさりと隣国に去ってしまった。どうやら、隣国に想い人がいるらしい。

フレデリック様とアリシアとの婚約は白紙に戻った。


アリシアが去っても、フレデリック様は新たに婚約者を定めようとはせず、その席を空けたままにしていた。そんな彼に、私の胸は虚ろな想いを抱えていた。


ある時、仕事で王宮に立ち寄った。美しい中庭の景色を、同じ王宮のどこかにいるであろうフレデリック様を想いながらぼんやりと眺めていた私に、半分魔族の血を引く幼い男の子が何気なく話し掛けてきた。

フレデリック様も、私と似たような、心がここにないような表情で、遠くを眺めるような目をしている、と。


……フレデリック様の気持ちは、痛いほどよくわかった。だって、振り向いてくれない相手を想うその切なさも、苦しみも、私が嫌というほど知っているものだったから。


一度は我が手で庇護し、婚約者にまで据えたにも関わらず、自分の手をすり抜けて去ってしまったアリシア。そんな彼女を、フレデリック様は、今も忘れられずに想い続けているのだろう。


フレデリック様にぶつけたくともぶつけられない、この辛く切ない、時に黒く湧き上がるような感情を、フレデリック様にも味わわせているのは、他ならぬアリシアなのだ。自分でも意外だったけれど、その事実に胸のすくような思いがし、思ってもみなかった笑いが漏れた。



アリシアは、私たちが次に敵味方に分かれて対峙したアストリア王国の王宮で、どうしてか私を助けるような真似をした。

なぜ、以前あの子の命を狙った私にまで、手を差し伸べようとしたのだろうか。

……どこか寂しげな笑みを浮かべた彼女の性格は、昔から変わってはいなかったのだと理解する。


そんな彼女に、心の奥に押し込めていた感情が疼いた。


私だって、心の底ではわかっていた。

私の彼女に対する妬みが、いかに理不尽なものだったか。彼女は、望んでそのような能力を持って生まれた訳ではなかった。私のことを純粋に慕っていた彼女は、彼女の存在に醜く顔を歪める私を笑顔にしようとさえするほどに、健気な子だった。

彼女が優しく素直であればあるほど、自分にないものを持っていることが身に染みてわかるほどに、私は彼女を憎んだ。けれど同時に、そんな彼女の命を狙うことが、いかに人の道を外れているかということも、心のどこかで理解はしていた。それでも、自分を止められなかった。自分が誤ったことをしている、その事実と向き合い認めれば、このやり場のない感情をどうすればよいかもわからなければ、今までの自分自身をも否定することになる。


けれど。近付いてくる恐ろしい気配に自らの死期を悟ってみれば、そんな自分の心の奥底の感情に向き合ってみようかという気になった。

たった一度だけ、だったけれど。

最後に一度くらい、彼女を笑顔に変えてみたいと思った。


……結局、それは成功したとは言えなかったのかもしれない。

でも、アリシアが助けようとしていた、あの王宮で私に話し掛けてきた半魔の男の子の命を、すんでのところで救うことはできた。

自己満足かもしれないけれど、私は胸のつかえが取れたような清々しさを覚えていた。



身震いするような気配は、魔族を統べる長が、彼の妹の魔力をアストリア王国の人間に利用されたことに激怒したことによるものだった。

アストリア王国側の人間の私も、当然その怒りの標的になる。


彼は魔族というよりも、神々しいほどの人外の美しさを誇っていた。光を弾くような艶のある黒髪に、闇までも吸い込むような黒目の彼に、私は恐怖を感じるより前に、一瞬、我を忘れて見惚れてしまった。


そして、私は剣を抜いた。

もし助かりたいと願っても、それが叶わないことはわかっている。それすら私にとっては救いだった。…私は、この場で命を燃やし尽くすことを望んでいたのだ。


私は、疲れ果てていた。

醜く歪んだ心で妹の命を狙うようなことをした自分自身にも、どれほどに想っても私の想いの一片でさえ返してくださることのない、フレデリック様への諦め切れない気持ちにも。

そして、現在進められている隣国への三度目の侵攻も、恐らく失敗に終わるだろうということも予想がついていた。


深い闇を映すような姿の彼に全力で向かって行った私に、彼はまるで私の力を確認しながら子供と戯れているかのようだった。彼と私とではその能力は比べ物にならないのに、彼は一息に私の命を奪おうとはしない。私が助けた半魔の男の子が、彼の甥だったせいもあるのだろうか、明らかに手加減をされていたのが、少しずつ、少しずつ彼はその攻撃の威力を増していく。それが私にはもどかしかった。


必死で防戦一方に回り出し、まったく余裕なく肩で息をして汗を滴らせる私に、彼がふっと口元を緩めて放った言葉は、予想もしないものだった。

「たいしたものだ。…無論生まれ持った才能もあるだろうが、これほどまでになるには、血の滲むような努力をしただろう、娘よ」


今まで、心の奥底で望んでも、誰も私に掛けてはくれなかった言葉。

…どうしてこんな時に、死闘を演じている相手が、私の努力を認めてくれるその言葉を口にするのかしら。


思わず目に熱いものがじわりと滲み、私は奥歯を食いしばった。


その黒髪の男の力は、今までに見たことのないほど強大だった。私を軽くあしらいながら、彼が私以外に放ったたったの一閃で、その場にいた皆が倒れ伏した。

……彼の実力に、私は思わず目を瞠った。


まだ息のある彼らに、黒髪の男がとどめの魔法を放つ。そこで私の目に映っていたのは、ただ1人、フレデリック様の姿だった。


(フレデリック様……!)


声にならない叫びが漏れたが、なぜかその魔法はフレデリック様に届く直前、ふっと姿を消した。

私にはわかった。……きっと、アリシアが遠くからフレデリック様を助けたのだろう。安堵の気持ちが押し寄せ、素直に彼女への感謝の感情が湧いた。

黒髪の男は驚いたように少し目を瞠ったけれど、なぜか薄く笑むと、フレデリック様に背を向けて、私に再度向き直った。


……私も、もう、これで最後。

フレデリック様に、この自分の最後の姿をほんの少しでもその目に留めてもらえるなら、本望だった。


残りの魔力をすべて込めた魔法を黒髪の男に放とうとした瞬間、彼はすいと私の前に移動し手を翳すと、私の魔法をかき消した。ほんの僅か残っただけの魔力に、私は足元が覚束なくなりその場に倒れ込んだ。


虫の息で、目を見開いているのもやっとという私の瞳を、彼の闇のような真っ黒な瞳が覗き込む。


「どうしてそれほど生き急ぐ、娘よ」


私は返事もできないまま、ただ黙って彼の美しい深淵のような瞳を見つめ返していた。

早く私の命を奪って、もう終わりにして欲しい。そう願いながら。


すると、なぜかじっと私を見ていた彼は急にその整った口元を綻ばせ、にやりと笑んだ。


「気に入ったぞ、美しい娘。キャロラインと言ったか、……お前、俺のところに来ないか」


信じられない言葉に、私は思わず驚きに目を見開く。

最後の力を振り絞って彼を睨みつけてから、私の目は、無意識のうちにフレデリック様を追っていた。

そんな私に、黒髪の男はすべてを見透かすような目をして、少し顔を顰めると、その姿を揺らめかせた。


私の元にゆっくりと跪いた彼が、揺らめきの中から姿を現した時、私は自分の目を疑った。

そこには、私に対してふわりと微笑みかけるフレデリック様の姿があったからだ。


「フレデリック様?どうして……?」

その後ろには、唖然としてこちらを見つめるフレデリック様の姿がある。


……夢にまで見たフレデリック様が、目の前で私に甘く優しい微笑みを向け、手を差し出している。そんなことは、ある筈がない。それはわかっていた。向こうにいるフレデリック様が、私にはほんの少しでさえも振り向いてすらくれない彼が、本当のフレデリック様だ。


……なのに。

混乱で私の目から涙が溢れ出す。これは夢なのだろうか。

目の前のフレデリック様の瞳を覗き込むと、そこには見たことのないような、私に対する温かい光があった。

私は思わず、魅入られるように、彼から差し伸べられた手を取ると、彼と私の周りを柔らかな光が覆うのを感じた。


***

(……ここは、どこかしら)

私は、ずきずきと痛む頭を抱えて上半身を起こし、辺りを見回した。どうやらベッドに寝かされているようだ。

ふかふかとしたそのベッドは上質なもので、私がいるこの部屋も、壁に施された繊細な美しい彫刻に、飾られた上質な調度品の数々からも、高位貴族の邸宅か城のような場所なのだろうと思われた。


魔力切れを起こしかけて、どうやら意識を失っていたらしい。意識を失う直前のことは、記憶が混濁していてはっきりとは思い出せない。


……愛しいフレデリック様が私に初めて笑顔を見せてくださったような、でも、本当のフレデリック様はその側で呆然としていたような……。


(そうだ、あの、私に手を差し出した男は)


はっとして起き上がろうとした私の側で、一体いつ現れたのか、あの男性の声がした。


「……目を覚ましたのか」


びくりと身体をのけぞらせる私の目を、ベッドサイドに立っている、驚くほどに美しい黒髪黒目の男が覗き込んだ。

会った時には怜悧な刃物のような冷たい恐ろしさを纏っていた筈の彼は、意外にも今は穏やかな目をしていた。


「ここは、いったい何処なの?」


記憶が徐々に蘇ってくる。私たちは、剣と魔法を交えて戦っていた筈だ。

警戒心の込められた私の瞳に、彼はふっと目を細めた。彼は開かれた窓の外を指差した。窓からは、爽やかな涼しい風が入って来ている。


「……ここは、魔族が住む城だ。人間のいう結界に近いものが張ってある。……人間がもし近付いても、こちらに入ることも、見ることも出来ない。人間から見れば、外側からは鏡を覗くようなもので、この城の存在はわからない」


私は窓の外の景色を見ようと立ち上がろうとしたけれど、まだ体調が戻りきっていないためか、足元がふらついて足がもつれた。そんな私を支えるため、抱き留めようとした目の前の彼の手を、思わずぱしりと叩く。

私は彼を睨みつけた。


「どうして、私などのことを助けたのです?あの場で私の命を奪うことは、あなたには簡単なことだったでしょう。……私をこんな所に置いて、いきなり私に背中を刺されても知りませんわよ」


敵意を剥き出しにする私のことを、彼は意に介さぬようにくすりと笑った。


「随分と威勢がいいな。大分回復してきたようで結構だ」


ベッドサイドに手をついて立ち上がると、私は彼に視線を留めながら、ゆっくりと歩いて窓際に向かった。

視界に映る景色に目を瞠る。

「……!」


窓の外から下を見下ろすと、そこには大きな青く美しい河が緩やかに流れ、その両脇には新緑の輝く森が広がっていた。鳥の囀りが微かに聞こえる。ここは河の中腹に聳える城のようだ。窓からは白い城の外壁を見下ろすだけだけれど、この城の規模が大きいことはわかる。大きな窓からは温かな陽光が室内に差し込んでいた。


(……こんな城が、存在したのね)


ほうと目の前に広がる景色に息を飲んでいると、男が窓際に歩み寄って来た。

じり、と身体を固くして後ずさった私に、彼は穏やかに微笑んだ。思わず見惚れてしまうような笑顔で。


「俺はラディリアスという。

まあ、そう怖がるな。……お前も、俺とわかって、俺の手を取ってここに来たのだろう?」


虚を衝かれたように一瞬私は口を噤んだけれど、確かに彼の言う通りだった。

フレデリック様の姿をした、けれど、フレデリック様ではない彼の手だと知りながら、私に差し伸べられたその手を取ったのだから。


負け惜しむように、私は俯いてぽつりと呟く。

「あんな、騙し打ちのようなことをなさらなくても……」

「ああ。ここに連れて来るためには、その者の同意がいるものだから、仕方なく、な。

俺が無理矢理連れて行こうとしても、お前は首を縦には振らなかっただろう?」

と、彼の綺麗な瞳が急に悪戯っぽい色を帯びる。

「ただ、お前の言う通り、騙し打ちのようなことをしたのも確かだ。……その代わり、お前の望むことを一つだけ叶えてやろう。

さあ、何を望む?」


ひとりでに、口が言葉を紡いでいた。

「1日に、一度で構いません。……どうか、フレデリック様の姿で、私と話してはいただけませんか」


私は、言ってしまってからはっと両手で口を押さえた。

……どうして、そんなことを望んでしまったのだろう。

元いた場所に戻して欲しいでも何でも、もっと合理的な、まともな願いは幾らでもできた筈なのに。


目の前の黒髪の男はその大層美しい顔に眉根を寄せつつも、仕方ないというように頷いた。


「……よかろう。約束したことだからな」


早速、目の前の彼の姿が揺らいだかと思うと、フレデリック様の姿が現れた。

その姿を見るだけで、目元がじわりと潤んで熱を帯びる。


そんな私に、目の前の彼はフレデリック様の姿で溜息を吐くと、フレデリック様の声音で言った。


「キャロライン、……君は、よっぽど私のことが好きなんだね?」


頷くことすらできずにただ彼を見つめる私に、彼は苦笑すると、ぱちりと細く長い指を鳴らした。


部屋のドアが控えめにノックされる。通されたのは、中性的な容姿をした、淡い緑色の髪の年若い女性だった。


「キーラ、この者に仕えよ。

キャロライン、彼女をお前の侍女にする。好きに使え」


それだけ言い置くと、彼はフレデリック様の姿のまま、部屋から出て行ってしまった。


驚いて彼女を見た私に、彼女は丁寧に頭を下げた。

「旦那様からキャロライン様のことは仰せつかっております。何かありましたら、いつでもお申し付けください」

キーラと呼ばれた彼女は表情に乏しいようにも思われる。微笑みを浮かべたように見えなくもなかったけれど、その本心は窺い知れなかった。


「あの……あなたは?ここで捕らえられて侍女をしているの?」

私の言葉に、彼女は驚いたように少し目を見開いた。

「いいえ?

……元々、私はこの城を囲む森の樹なのです。旦那様の魔法で、このような姿を取っております」

「えっ……?森の樹、ですって。……そんな魔法が存在するの……?」


訝しむ私を見つめ、彼女は穏やかに続けた。

「キャロライン様がどのような経緯でここにいらっしゃったのかは、存じませんが。

旦那様はお優しいお方です。私たちのありのままを認め、守ってくださる。

……きっと、キャロライン様もいつか、旦那様の本当のお姿にお気付きになると思います」


そう言うと、キーラは私の衣服に目を移した。

私もはっと自分の身に付けている服を見る。……戦いで汚れ、所々破れてぼろぼろの衣服のままだった。


キーラは着心地の良さそうな、さらりとした深緑色の絹のドレスを差し出してきた。

「こちらに、お召し替えを。私がお手伝いいたします」


表情には乏しいものの実直そうな彼女に、私は戸惑いながらも頷いた。


***

ラディリアス様という、この城の主人である彼は、私を城内で自由にさせてくれた。

侍女や執事と思しき人々は、みな魔法で動いているのだろうか。キーラと同じように緑の髪色の者が多い。彼らはみな穏やかな表情をしていた。


不思議なことに、この城に来てからというもの、ラディリアス様はちっとも私に恐怖を感じさせなかった。

はじめのうちこそ、彼と顔を合わせるだけでも緊張が走ったものの、キーラたちの醸し出す穏やかな雰囲気に絆されるように、私も自然に彼に馴染んでいった。

彼は、私との約束通り、1日に一度はフレデリック様の姿で、私と他愛のない会話を交わす。

だんだん彼に慣れて来た私は、黒髪黒目の彼本来の姿でも、一緒に散歩をしたり、食事をしたりするようになっていった。



(……ここでは、時間の流れが違うようだわ)

時間に追われるように、必死に日々駆け回っていたアストリア王国とは、何もかもが違った。

ここでは、ただ穏やかに時間が流れて行く。時の流れに、ゆったりと身を委ねているうちに、日々が過ぎ行くとでも言うのだろうか。

自然に囲まれた静謐な日々に、心の奥に沈んだ澱が流れ、まるで心身が浄化されて軽くなっていくように、私は感じていた。


彼と一緒に、城を取り巻く森を散歩していると、彼のもとに小鳥が囀りながら下りて来た。彼が手を伸ばすと、小鳥はそこに留まり、彼に顔を近付ける。小鳥にふわりと笑いかけ、柔らかな木漏れ日を受ける彼は、心臓を掴まれそうなくらいに美しかった。


(……魔族とは魔物の一種というけれど。魔物どころか、彼はこの場所を守り司る神のようね)


じっと彼を見つめる私の視線に気付いたように、彼は首を傾げた。

「どうした、キャロライン?」


彼に聞きたいと思っていた質問が、ぽろりと口から溢れた。

「あなたほどの力があれば、人間の住む世界を含めた全体を支配することだって、難しいことではないでしょう。

……どうして、あなたはここで、これほど慎ましやかに、穏やかな日々を過ごしているのですか?」


彼は微かに顔を顰めた。

「……俺に人間界を征服して欲しいのか、キャロラインは?」


私は慌てて首を横に振る。

「いいえ。そういう訳ではないのですが……。

私のいたアストリア王国では、他国を侵略し、自国の利に傾ける機会をいつでも狙っておりました。それが、国力を強め、国民を豊かにする手段だと、疑いもせずに。

だから、私には不思議なのです。それほど強大な力を持ちながら、何もせずここに留まっているあなたのことが」


彼はふっと溜息を吐いた。彼の腕から小鳥が空へと羽ばたいて行く。

「人間は愚かだ。……限られた時間の生に見合わないほどの財を求め、権力を求め、一旦欲望が満たされたとしても、さらに飽くことのない際限のない欲望に踊らされる。

満たされることのない欲に溺れることが、俺には意味のあることには思えん」


彼は軽く屈むと、落ちていた赤く透き通った石の一つを掌に乗せた。

ここでは、宝石のような美しく澄んだ石がぽろりと道端に落ちているのをよく見かける。彼はふわとそれを掌から浮かせると、パリンと高い音が響いて、赤い石は彼の手の上で粉々に砕け散った。

彼は風に飛び行く石の破片を見ながら続けた。

「形あるものは、すべて滅びゆく。目に見えるものだけが価値あるものではない。……そうは思わないか?キャロラインよ。

広大な領土に、強大な権力、溢れんばかりの財……これと定めたものへの執着は虚しいものだ」


……執着。その言葉には、私も痛いくらいに覚えがあった。

その時、彼が思い出したかのように、その姿を揺らめかせる。……フレデリック様の姿が揺らめきの中から現れた。


彼もきっと気付いているだろうし、最近は私も自覚してきていた。

あれほど会いたいと望んだフレデリック様の姿を目の前にする度、胸の苦しさに顔が歪むのだ。

幼い頃からお慕いし、その力になりたいと、できれば隣に立ちたいと、ずっと想い続けていたフレデリック様。相手の感情を無視して一方的に想い続けた彼の存在は、いつしか私の心の支えから、執着の対象になってしまったようだということに、私は少しずつ気付き始めていた。

……フレデリック様の姿を取ることを、本人でないラディリアス様に依頼すること自体、執着に駆られた歪んだ行動だったのだとも。


フレデリック様の声で、彼は気遣わしげに私に口を開いた。

「……私を思い出すのがそんなに辛いのなら、君の記憶を消してあげようか?」

「記憶を消すことなんて、できるのですか?ラディリアス様」


フレデリック様の姿をした彼の言葉に驚いて、思わず彼本来の名前で呼び掛けると、彼はまたその姿を揺らめかせて元の姿に戻った。黒髪黒目の彼の姿を見て、なぜか安堵が私の胸に広がる。


そんな私を見ながら、彼は頷いた。

「ああ、消したい記憶だけを消すことは可能だ」


私は自分の表情に影が差すのを感じた。

「ならば、なぜ、ラディリアス様はフレデリック様に関する私の記憶を、すぐに消さなかったのですか?……もしも私の心を手に入れたいと思うなら、それが一番容易い方法だった筈でしょう」


私のことなんて、戯れでここに連れて来ただけで、特に何とも思ってなどいないのだろうか。私を側に置いてくれる日々も、いつしか終わりを告げるのだろうか。

誰にも見てもらえなかった期間が長かった私の心細さに気付いたように、彼は滑らかに私の髪に指を潜らせた。


私は言葉を止めることができなかった。

「……ラディリアス様は、なぜ、私をここへ?

私は、あなたに助けられるようなことは何もしておりませんし、妹の命を狙ったこともあるような人間ですわ。愛される資格なんて、とうにありませんし……」


最後の言葉が消え入りそうになった私の瞳を、彼は真っ直ぐに見つめた。

「言っただろう、キャロライン。私は、お前が気に入ったのだ。

お前の過去なんて、俺にはどうでもいい。俺は、今ここにいるお前を見ている。……過去のことを言うのなら、俺はお前の父親も覚めない悪夢へと追いやったのだ。お前はそれを許せるのか」

「……ええ」


父への尊敬は、とうの昔に失せていた。権力だけを追い求め続けた、冷酷な父。むしろ、我が父ながら当然の報いとも思われる。


私が頷くと、彼は続けた。

「……お前のように美しく、才能に溢れ、努力も惜しまない者が、なぜか自らを苦しみに絡め取らせている。そんな複雑なものを抱えながらも、気の強さを失わない瞳を持つお前のことを、もっと見ていたいと思ったのだ。

……不思議なものだな。人間は愚かだと、あれ程までに思っていたこの俺が、お前に心を惹かれたのだから」


嘘がないと信じられる彼の言葉に、私は顔がかあっと熱を帯びるのを感じた。

彼は、安心させるように私を軽く抱き寄せた。

「お前の記憶を消さなかったのは、それがどれほどお前にとって辛いものであったとしても、それはお前には代えるもののない、大切なものだと、そう思ったからだ。

キャロライン、お前がその瞳に何を映し、ある出来事をどのように感じ、その胸にどのような感情を留めたのか。俺は、その記憶こそが、形ある物よりも尊い、掛け替えのないものだと思っている。……だから、お前の記憶を私の判断で勝手に消すことはしなかった。

それでも、もしお前が記憶を消したいと望むのならば、構わないが。……どうする?」


私は、彼の服をきゅっと握り、首を横に振った。

「ありがとうございます。……いいえ、私の記憶は消していただかなくて結構ですわ。その代わり、一つお願いがありますの」

「何だ?」

「もう、これからはフレデリック様の姿にはならないでくださいませ、ラディリアス様」


私に軽く腕を回しているラディリアス様の身体を私も抱き締め返すと、微笑んで彼を見上げた。

今まで一度も返したことのなかった私からの抱擁に、彼の身体が一瞬硬直する。いつも悠然としている彼らしくなく、彼の頬に血が上るのを見て、私はさらにくすくすと笑った。

彼が私に回す腕に込められる力も、より強くなる。


いつも、私を軽く抱き締める以上は何もして来なかった、ラディリアス様。口付けでさえ、髪にしか落とさない。……そんな彼に、少しでももどかしいと感じる日が来るなんて。


フレデリック様の影が完全に心から消え去るまでには、まだ時間がかかるかもしれない。

……それでも。

辛くて苦しい、報われない想いの記憶でも、それを抱えたままで、ラディリアス様をさらにずっと想える日も、遠くないと思うから。


一見すると漆黒の闇を纏うような姿ながらも、瞳の奥には穏やかで優しい光を灯したあなたの美しいその姿を、これからも私の瞳に映していきたい。

そう心の奥で呟いて、私はラディリアス様の温かくて広い胸にそっと顔を埋めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

転落令嬢、氷の貴公子を拾う 瑪々子 @memeco

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ