(SIDE)ヴェントゥスの眼差し

僕は野犬の群れの中で生まれ落ちた。


僕は、生まれたときからほかの兄弟たちとは違っていた。


まずはその見た目。母犬やほかの兄弟たちは茶褐色の毛並みをしている中で、僕だけが真っ白で、陽光に照らされると銀色に光る毛並みをしていた。母や兄弟と似ていたのは、金色の瞳だけだった。


そして、見た目以上に違っていたのは、僕が、自分が犬の姿を借りた、けれど犬ではない何かだということをどこか認識していたことだろう。

それがいったい何なのかを、生まれ落ちた時からはっきりと理解していた訳ではない。身体は確かに犬の形をしていて、怪我をすれば痛みも感じるし、餌を食べなければお腹だって空いた。けれど、自分だけが違うという、その僕の感覚が誤りではないことをまざまざと認識させられたのは、僕が魔物に襲われる率が異様に高かったからだった。


魔物が野生動物を襲うことは、別に珍しいことではない。彼らとて生きるためには食料が必要なのだから、肉食獣よろしく、野生動物を仕留め、その肉を食らう姿も見掛けることがあった。


けれど、僕を襲う魔物たちは少し違っていた。

彼らは、群れの中でもなぜか明らかに僕を狙って攻撃してくる。僕の身体の色が目立つからかとも思ったけれど、それでも不自然なほどに僕を標的にしていた。それに、僕のような幼犬を1匹仕留めたところで、たいして腹の足しにもならなかったに違いない。それでも、瞳に残忍な色を浮かべて僕を狙う魔物は後を絶たなかった。


今になってみればわかる。……あれは、僕の本当の姿を察して、幼く力の弱いうちに、僕を亡きものにしようとしていたせいだろうと。

僕は魔物と明確な対立関係にある訳ではない。でも、本能的なものなのだろうか、いずれ自分たちを凌駕することとなる力に対する怖れを、きっと彼らは感じていたのだろう。


魔物に襲われると、決まってどこからか風が起きた。旋風に巻き込まれて吹き飛ばされる魔物もいれば、風で木や地面に叩きつけられて命を落とす魔物もいた。ある程度小型の魔物なら、僕自身で仕留めることもできるようになった。


そんな魔物たちから逃れながら何とか生き抜いてきた僕たちの群れだったけれど、ある時、絶体絶命の危機に陥った。宙を舞い、炎を吐くグリフォンの群れに襲われたのだ。


やっぱり、彼らは僕を狙ってきた。グリフォンの吐く炎の威力は強く、いつものように旋風が巻き起こっても、僕を逸れた炎は群れの仲間に向かってしまう。

今まで、僕がこれほど魔物に襲われながらも、母犬も兄弟たちも、そして群れの仲間たちも僕を見放すことはなかった。僕が何者なのかを知ってか知らずか、僕ばかりが狙われて、そんな僕に巻き込まれて襲われることになったとしても、見捨てないでくれた。……それだけで、もう十分だった。


今回ばかりは、このまま僕と一緒にいては群れが全滅してしまう。母犬に、群れの仲間たちに、逃げて欲しいと伝えた。

母犬は去り際に名残惜しそうに振り返ってくれたけれど、それが群れの仲間たちを見た最後になった。


せめて仲間たちは無事に逃がそうと、僕は仲間たちが逃げたのとは反対の方向へグリフォンたちをおびき寄せた。数匹のグリフォンたちの炎が一斉に向かってきた時、今までで一番大きな旋風が湧き起こった。……いや、その風を起こしているのが僕だということを、僕は風を自由に操れるのだということを、初めて自覚したのがその時だった。


風に揺らめきながら、グリフォンが吐いた筈の激しい炎の先がグリフォンに返っていく。それは、自分でも驚くくらいの凄まじい威力の風だった。けれど、数匹ならともかく、彼らが群れでいたことが致命的だった。思わぬ事態に慌てた彼らを撒いたと思った時には、力を使い果たした僕は崖底で動けなくなっていた。


身体は傷付いてはいなかった。けれど、力尽きたように、動けないのだ。

身体を丸めて蹲っていると、まだ大分離れてはいたけれど、遠くの方から、グリフォンに並ぶほどの強力な魔物がこちらに向かってくる気配がした。それも、二匹。

風を操れることを自覚した僕が、もし力を十分に蓄えた状態だったなら、彼らに負けることはない。でも、今彼らに襲われたとしたら、確実に僕は命を落とす。

……僕は、死を覚悟した。


しばらく蹲っていると、じゃり、じゃりと石を踏む、軽い足音が近付いてきた。

音のする方向を見ると、心細そうな顔をした赤紫の髪の華奢な少女が、たった1人で歩いていた。

強い力を感じる気配ではなかったから、気付くのが遅れた。……何でこんなところを、人間の少女が、悲しげな表情で歩いているのか。驚いて顔を上げた拍子に、その少女の澄んだエメラルドのような両の瞳と目が合った。


彼女もまた、僕に驚いたように目を瞠ったけれど、僕を怖がらせないようにだろう、そっと近付いて膝を折ると、僕に優しく微笑みかけながら、僕のことを抱き上げた。


その時、僕は心底驚いた。……温かな何か、僕がさっき使い果たしてしまった何かが、彼女から僕に流れ込んで来たのだ。それは、彼女が触れた手からどんどん流れ込み、空っぽになりかけていた僕のことを潤していった。

それと同時に、理解した。温かく包み込むような、優しく穏やかなこの力は、彼女をそのまま体現するものであると。


……僕を助けてくれた、そして、瞳の奥に隠し切れない絶望が滲むこの子を、守ってあげたい。僕はそう思った。


彼女は携えていた食料も僕に分けてくれた。初めは匂いを嗅いで様子を見ていた僕だったけれど、予想以上に、人間の食べ物は美味しいとわかった。

僕が彼女についていきたいと彼女の後を追い、尻尾を振って示せば、僕の意図を汲み取った彼女はにっこり笑って僕を抱き上げ、一緒に連れて行ってくれた。彼女の腕の中はとても温かかった。


彼女の歩いて行く方向の先には、僕がさっき感じた強い魔物の気配があった。けれど、どうやら既に先客がいたらしい。鋭く強力な力が魔物とぶつかっているのを感じたかと思うと、立派な馬車が魔物に追われながら目の前に落ちて来た。


僕を腕に抱いた少女は、僕を庇うように飛び退くと、そこにいた魔物…二匹の氷の大蛇に気付いて足を竦めた。

氷の大蛇は、少女を見、彼女の腕の中にいた僕を見た。

彼らは驚いたように目を見合わせていた。……それもそうだろう。ついさっきまで消え入りそうだった筈の僕の力が、完全に回復していたのだから。しかも、僕は自分の能力に覚醒している。今の僕にとって、彼らは敵ではない。


そんな僕に怖れをなした氷の大蛇たちが逃げ去ると、馬車に乗っていた、同じく空っぽになり掛けていた魔術師の青年を少女が回復させるところを見守った。赤紫の髪をした可憐な少女は、アリシアという名前だった。



アリシアは僕に、風を意味するヴェントゥスと名付けた。

風を自由に操れるようになった僕だったけれど、彼女が微笑んで名付けてくれたその時、自分の中で何かがぴたりと嵌るような感覚があり、自分が何者かを理解した。

そう、僕は、風の精霊。……犬の姿を取る、精獣だった。


アリシアは、僕を仲間として、友として大切にし、そして可愛がってくれた。

甘えれば優しく抱き上げてくれるし、同じベッドに潜り込ませてくれる。彼女と触れていると、その体温と溢れ出す魔力の両方で、いつも温かかった。

僕のことは尊重し、縛りもしない。いつも僕の行動は任せてくれて、僕は常に自由だった。僕が彼女について行くのは、自らの意思だ。そして、僕が彼女を助ければ、いつも心からの感謝をしてくれた。

それは、僕が精獣とわかった後も変わらなかった。


……人間というものを見ていて、思った。

アリシアや、その周囲の人間は、物のわかった人が多いように感じたけれど。

気に入った何かを見付けると、自分のものだと縛り付けようとしたり、何かをしてもらうことを、だんだん当然のことと感じるようになっていったり。あるものが貴重だと気付いた途端、目の色や態度を変えることもある。

そういう利己的な部分が出て来る場合も、多いのではないだろうか。

けれど、アリシアにはそういうところが一切なかった。


それから、アリシアについて思ったことと言えば。

……君は存外、勘が鋭い。


僕の名付けについてもそうだけれど、グレンが自爆しかけた時にも君は不穏な兆候を感じ取った。そして、ディーク王国の結界を張った時、弟のアルスを救おうとした時。……僕の見立てでは、少しでも君が魔力を出し惜しみでもしていたら、いずれも成功していなかっただろう。

無意識に自分の勘に自信があるのか、その分、君は自分のことを後回しにし過ぎるのが玉に傷だけどね。危なっかしいから、つい目が離せなくなる。


初めて会った時には、悲しい色を瞳の奥に覗かせていた君だったけれど、今ではたくさんの君を慕う仲間に囲まれて、心からの笑顔が見られるようになった。僕には、それがとても嬉しい。……どうも、君に慕う以上の気持ちを持つ者も多いようにも見えるけれど…皆、君の笑顔を大切にしているし、良識もありそうだから、まあ大丈夫だろう。


そして、君がリュカード様と呼ぶ、飛び抜けて強い力を持つ魔術師の青年。君が選んだのなら、きっと間違いはない。

……君は、彼からもらったという婚約指輪を頬を染めて見せてくれたね。澄んだ青色の大振りで美しいサファイアが、花弁のような意匠の台座に輝くその金の指輪は、君にとても似合っているよ。……でも、その宝石の色は、彼の髪が陽に透けた時の色だということを、僕は知っている。彼の君への独占欲をなかなかに感じるような気もするね。


僕は、君が幸せならばそれでいい。君が心から笑う姿を見ていたい。僕の願いは、それだけだ。

精獣としては、1人の人間に入れ込み過ぎかもしれないけれど、君は平和を愛する、優しい心の持ち主だから、きっと問題ないと思っている。

僕がこの犬の姿を借りている間に、君たちが幸せに過ごす姿を見守り、そして見届けたいと思っているよ。


……えっ、僕は人間の姿にはなれないのかって?

成長して、人間の姿も取れるようにはなった。精獣として姿が割れてしまったから、時に人間の姿も取ったのだけれど、なぜか女性から熱のこもった視線を投げられることが多くて、慌てて犬の姿に戻ることも多かった。そんな惚けたような目でアリシア以外から見られても、全く嬉しくはない。


……でも、アリシアの前で人の姿を取ることはやめておくよ。

だって、もしそうしたら、きっと君は恥ずかしがって、今までみたいに甘えさせてくれなくなるような気がするからね。

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