4. 私は物が見えないのだ
夜空に漂っているような、光の瞬く水底に潜っているような空間だ。呼吸ができないぶんだけ水底に近いとユエは思う。
瞬いているのは「場所のかけら」なのだと教わった。人から見られていない間だけ現れ、見られた瞬間に消えるかけらたち。そういったかけらの中から、行きたい場所を選びとる。
こごに初めて来たとき、リールーにはまだ真珠色の体があった。十四歳の時に出会い、使い魔の契約を結び、馬鹿な
その右目が、ひとつのかけらに目をとめた。ユエの左目も右目を追って、かけらを選び取る。
猫はどこにでも現れる。
選び取ったかけらが広がる。かけらをくぐり抜ける。体の重さが、周囲の音や熱が、帰ってくる。
小さく街の喧騒が聞こえる、湿った木の匂いを感じる、落とし戸の隙間から夕陽が漏れる、閉め切った室内。
(この家は、なくさなかったのだな)
「ここに一人で住んでる、と思ってる。でも、二人だったんだね?」
(そうだ)
「そっか。──やっぱり書き置きぐらい残してあげた方がいいのかな。その人、字は読めるの?」
(行商人だからな、読み書き算盤はなかなかのものだよ)
「行商──それで留守か」
(もう帰っていそうなものだが。なぁ、ユエ。やはり、元の生活には戻らんか)
「──うん。王太子殿下をわたしが殺したことになってるんでしょ? 何がどうしてそうなったのか知らないけど、もうこの国にはいられないって」
ユエはさらし布を手に炊事場に向かって、水瓶を覗き込む。底に残った水を桶に汲み、さらし布を浸して絞る。血で汚れた服を脱ぎ捨てて裸になり、体を拭き上げていく。
「それに、普通の人がわたしと一緒に暮らしていくのは、やっぱり無理だよ。モノの怪を食べないと居候が飢えるし、そのために危ない目に遭うのはリールーもよく知ってるよね。今回みたいなことだって……また起きるよ」
布を洗い、もう一度絞って髪を拭く。
「もう産まれた街の名前も、元の名前も思い出せない。じわじわと空になっていくような、そんな人と暮らすなんてさ」
(そうならんように、私がいる)
「うん。そうだね。わたしの過去のほとんどは、リールーが一生懸命話してくれたことだよ。リールーがいなかったら、今頃『わたし』なんてどこにもいないんだ。だけど、ふるさとを捨てて、別の土地で新しい思い出ができても、わたしはそれもなくしてしまう」
箪笥を開いて下帯に
「リールーには、感謝してるんだよ。どんなに感謝してもしきれないぐらい。いつも優しくて、わたしは今でもそれに甘えちゃってる。──この繰り返しをずっと続けて、それでどうなるんだろう。魔女を追い出す方法は全然見つからないし、わたしは、ずっと年もとってない。わたしがユエになったのはもう十年も前なのに、鏡を見ると十五歳ぐらいだなって思うよ。このままずっと、たとえば百年たって、それでもこのままで、とかさ。そうなったら、どうしよう」
(
「だけど! わたしをなくすたびに、リールーを悲しませてる。それは……すごく、嫌だよ」
右目が沈黙する。黙って、目としての役割を果たしている。
ユエは箪笥の小引き出しから櫛をとり、髪をとかしていく。
「……ごめん。こんなこと言われても困るよね」
ぶーん、と長めの震えが返ってきた。
(なぁ、そなたの右目を抉った時に、私は使い魔ではなくなった)
「うん……だからわたしは魔女に喰われずに済んだんだ」
ユエがまだ元の名前で生活していた頃、迂闊にも魔女の魂に手を出し喰われかけた日。使い魔リールーは
娘の構成が変わった事で、魔女の魂は喰うべき相手を見失い、子宮に寄生して居候となった。しかし、誰かがユエを元の名で呼べば、魔女は欺瞞に気づいて乗っ取りにかかる。
(さて)
と元使い魔が続ける。
(使い魔でない以上、私がそなたに協力するのは契約ゆえではない。これは意地だよ)
明晰で、雑味のない低音で、頭蓋に少しくすぐったい右目の声。
(私と共に見聞きした事をユエがなくしてしまうのは、やはり忍びないのだ。こればかりはな。だが、私はあきらめん。猫はあきらめが悪いのだよ。だから何度でも話して聞かせよう。もし私を忘れてしまったとしても、また初めから話して聞かせる。奪われてばかりであっていいものか。この十年そなたはあがき続けておって、そのユエを、私のユエを、空っぽにされてたまるものか。これは私の意地であるし、意思であるし、このように生きると決めたのだ)
ユエの手が止まり、リールーの言葉は止まらない。
(今の我々の姿はそなたの失態が引き起こしたかもしれんよ。だが報いはもう十分だ。元の名を名乗れず、元の名を知る者に会えず、思い出をなくして見知らぬ土地で放浪を繰り返す。もう十分ではないか)
ユエの視界がぼやける。
(ユエ。そなたは幸せを求めてよいし、幸せになってよいのだ。私はそれで報われる。そなたの目として見たそなたの生が、私の中のそなたの思い出が、私の生を彩っておるよ。だからユエ。なぁ、ユエ。泣くな。そなたが泣くと私は物が見えないのだ)
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