5. 欄外の月

 早くに目が覚めた。


 右の眼窩で眠る相棒が愛おしく思えて、ユエはそっと瞼を手で包んだ。

 そして、左目だけを開けて起きだし、蚊帳を出る。


 昨晩、蚊帳を吊ってやけに安心する自分がいることに気が付いた。簡素な寝台に横になり、ふわりとやわらかな幸福感を感じたことも思い出した。

 つるみの枕が二つあって、ここで抱かれたんだろうと思いもしたけれど、気持ちの悪さはなかった。胸を締め付けるような、甘い痛みだけがあった。


 この家のあちこちに、気分のかけらが散らばっている。朝日に温まりだした室内でかけらを集めているうちに、古い帳簿がしまってあるのを見つけた。

 帳簿から感じる気分は特にない。おそらく触った事がないのだろうと思う。ただ、ぱらぱらとめくってみると、時おり欄外に短かく書き付けがあるのに気が付いた。


 平麺はあまり喜ばれず。出汁か? 茹でか? 月は蒸し鶏と香菜が好みと。


 日記のようなものだ、とすぐに分かった。

「喜ばれず──」

 誰に? と考えるまでもなかった。磁白シーイーの言葉でユエは月という意味だし、平麺の具は蒸し鶏と香菜が一番だ。

 ぱらり、ぱらりと書き付けを追って帳簿をめくっていく。




〝今日から買い付け。戻るまで何事もありませんように。

 鶏で支払われた。上手に捌けるだろうか。

 月、素手で鶏を捌く。右目殿の助力だと。心臓に悪い。

 平麺、褒められる。月は笑うと鼻に小じわが寄る。かわいらしい。唄にしよう。

 月が平笠を直している。この笠が降ってきた日を思い出した。

 小じわの唄は不評。

 家に一人だとどうにも落ち着かなくなったな。

 月と暮らすことに口を出された。大きなお世話だ。

 右目殿とも直接話してみたいが、なにか方法はないものか。

 月、戻る。怪我をしていた。大したことはなく安堵。

 お守りをつくってくれた。月のお守りだ。効くに決まっている。

 月、なかなか帰らず。

 まだ帰らず。たしかホン市の方と言っていた。探しに出る。

 腕を折って熱を出していた。民家に礼を述べ、どうにか連れ帰る。喧嘩をした。

 生活のためではなく、なくさないためにモノの怪を喰うのだと。悩む。

 モノの怪か人間かと月に問われる。不安げ。人間と答えたが、違和感。なぜだ。

 問いの答え、出ず。

 どちらでもいい。どちらでも。何をいまさら悩んだのか。

 月の怪我、癒える。とくに曲がったりもしていないようで、安堵。

 城下まで物見遊山。どちらでもいいと伝えた。月がいてくれれば嬉しい。

 幽霊のホァを連れてきてしまい、送り出しに立ち会う。月も花もよく頑張ったと思う。

 生地の買い付けの手伝い。美しい生地ばかりだ。月にも見せてやりたかった。

 晴れ着を作ろう。月は色が薄いから、きっと鮮やかな色が似合う〟

 



 ──どこかぼかして書いてあるのは、帳簿だからかもしれないし、見られるのが恥ずかしかったからかもしれない。

 誰に見られるのを心配していたのか想像して、おかしくなった。ふっと笑みがこぼれた。


 符合する記憶はある。鶏を捌くのに「猫の爪」を使った覚えがある。だが、その鶏をどうやって手に入れたのか思い出せない。腕の骨を折って、道中の民家で世話になった覚えもある。だが、どうやって帰ったのか思い出せない。城下に行った覚えもある。だが、なぜ行ったのかを思い出せない。幽霊のホァを送り出したのを覚えている。だが、その花とどうして行き遭ったのかを思い出せない。

 飛び飛びの記憶を、短い文章が埋めていく。


 この小さな家で過ごした時間を思い出せば、なにもかもちぐはぐだった。その隙間に、この帳簿の持ち主がいたのだろう。

 この小さな家で過ごした気分を思い返せば、どこか安らぎを覚えた。その気分は、この帳簿の持ち主がいたからなのだろう。

 密林でリールーの言っていたことが、急に実感できた。


 ──わたしは、ここで、幸せだった。


 会ってみたいと思った。昨日までの自分を慈しんでくれた人に。顔もわからないけれど、昨日までの幸せに、せめて礼が言いたいと思った。

 ここで待っていれば、帰ってくるのだろうか。そう思った時、外にぞろぞろと足音が聞こえ、ついで


 ばがん!


 と戸を叩く大音声がした。

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