Our Little Angel

遊月奈喩多

天使の羽は汗の味

「ひゃ――っ!? もう、何いきなり?」

「……なんでもないよ、もえ」


 痩せた背中に舌を這わせて、ちょっとだけ強く吸ってみた。当然驚いたような反応が返ってくるけど、ほんのりとした塩辛さと、吐き気すら覚えてしまうくらい甘ったるい香りが私を満たしていく感覚がたまらなかった。

 彼女はきっと、今日は帰ってこない。それがわかっているから、少しでも私の痕跡を残しておきたかった。たまたま気付いた相手が、思わず引いてしまうくらいに、強く、強く。

「んっ――、くすぐったいよ、夏海なつみ

「いいからいいから~」

 知ってるよ、どうせあんたにとってはこのやり取りすらも、『善行』のひとつでしかない。私がどれだけ想いをのせても、それに答えてどんなに蕩けた顔を見せてくれてても、所詮はそういう関係だ。その限界を超える勇気は、私にはない。


 ねぇ、今日は誰と過ごすの?


 噛み痕をつけるよりも、そう尋ねたかった。

 でも、それを尋ねるのはたぶん、私たちの終わりと同じだ。きっと、それを尋ねたら彼女はきっと正直に答えてくるし、そしてそのまま私のところには来なくなってしまうに違いない。それに耐えられるほど、私は強くない。天使のような清らかな笑顔と、まるでとっくの昔に堕ちてしまっているかのような、普段とは違う妖艶な笑み。

 心の隙間にするっと入り込んでくるような彼女の優しさや、無垢な瞳、鈴を転がしたような声、苦しくなるくらいに私を捕らえて離さない、彼女の言葉。

「雪が降ってるね、夏海」

 少し嬉しそうな声で窓の外を見つめるもえ――彼女にはきっと、本心からこの白く積もっていく美しい雪を喜んでいるのだ。そんな清らかな笑顔を見せてくるくせに……違う、そこまで清らかだからこそ逆に、なのかな。

 もえは、他の痕跡を一切隠そうともせず、私のところにやって来る。キスマークも、絞め痕も、こびりついたものも、何もかも。きっと他のところへ行くときもそうなのだろうと思うし、そこでどんな目に遭っているのか、たまにあざだらけになって来ることもある。心配になってどうしたか尋ねても、『心配しなくていいよ』と朗らかに笑うばかり。

 明らかに何かあったのはわかるのに、本人が話してくれないことには私からどうこうすることもできない――そんなもどかしさを抱えたままお互いに愛撫が始まって、身体を包む熱に浮かされて。


『あっ、や――なつみ、な、つみぃ……、』


 思い返すたびに、胸の奥が疼く。

 余裕なんて全然ない顔で私を求めてくるくせに、絶対に底のところは見せてくれないのが、もえだった。もしかしたら、もえには裏表なんてないのかも知れないけど。

「もえ、」

「ん?」

「ありがとね、今日来てくれて」

 舌を背中から離して、強い力で抱き締める。ありがとう、じゃなくて本当に言いたかった言葉を託すように、腕で彼女を捕まえる。このまま閉じ込めておけたらいいのに。

 抱き締める手に、柔らかい指先がそっと重ねられる。頷く首筋に吸い付いたら、どんな反応をするだろう? 想像しても、たぶん私が予想するようなものしか返ってこなさそうで。


 きっと彼女は、私たちとは違う。

 あの日の私のように、世界を見限りたくなるような孤独に苛まれた人の前に現れては、その孤独を自分の身体で慰めようとする――本心からそれが私たちへの救いになると思い込んでいる――、怖いくらいの、天使みたいに“いい人”なんだ。

 彼女のまっすぐさ、何かと目につく清さ、人に対する溢れんばかりの慈愛――きっと何気ない会話から窺えるそれらこそが、私と一緒にいてくれる理由で、私以外の人とも会っている理由なんだと思う。


 ねぇ、もえ。

 もえが愛だと思ってるのは、愛なんかじゃない。ただの残酷な自己満足なんだよ。そう口から溢れそうになるたびに押し殺して――いつまでそれを続けたらいい?

 いつになったらあなたは、みんなの“天使”じゃなくなるの?


 そう訊きたいのに、訊いたらこの関係が終わってしまいそうで訊くことなんてできなくて。

 あぁ、もし本当にもえが天使なんだったら、その輪っかを割って、羽も毟ってしまえたのに。


 痛む胸を愛撫でごまかして、今日も私は時間稼ぎをするんだ、性懲りもなく。

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