ノー・サレンダー ③
小島くんは、最終の飛行機で帰ると言った。そろそろ空港に行かないと間に合わないので、駅まで送って行く事にした。
団地を出て、すっかり暗くなった町を並んで歩く。道中の彼は口を開かなかったので、私も同じように黙り込んだ。
無言のまま駅に着き、改札の前で「じゃあね」と声をかけた。ずっと黙っていたせいで、少し擦れた。すると小島くんは私の耳元へ顔を寄せ、聞き取るのがやっとの小さな声で「唯子」と私の名を呼んだ。
「また、会おう」
彼は囁くようにそう言うと、ものすごい速度で自動改札を抜けていき、電車の前でこちらを振り返って片手を上げた。
応えるように手を振った私を見て、彼は照れたように笑うと、目の前の電車へと乗り込んでいった。
すぐに扉が閉まり、電車は滑らかに走り出す。その姿が見えなくなるまで、私はずっと改札の先を見つめていた。
これで、私たちの縁は本当におしまいだ。生まれ育った団地がなくなった今、彼がこの町に来る理由なんて何もない。再会の約束もリップサービスに決まっている、私たちは連絡先の交換すらしないままだ。
今日の記憶は、少しずつ薄れてゆくのだろう。そして私たちは元通りの「懐かしい存在」へと変わっていく。
だけど私の心は、もはや元通りにはなれそうもなかった。
家に帰った私は、引き出しの奥から小島くんが使っていたシャープペンを探し出し、机の片隅へ飾るように置いた。
それから少し経った日曜日の早朝、小島くんからSNSにメッセージが届いていた。アカウントを教えた覚えはなかったけれど、長年同じクラスだったのだから、同級生を辿って探すのは簡単だっただろう。
本文の最初にURLが貼られていたので見てみると、それはオンラインアルバムで、中身は団地の風景だった。昔の写真をスキャンしたものが大半だったけれど、あの日スマホで撮ったらしい画像もあった。
一番最後は、私たちのツーショット自撮りだった。二人揃って酷い顔をしているけれど、それがとても愛おしいもののように思えて、表示されている画面を指先でそっと撫でた。
メッセージに戻ると、URLの後に「写真送っとくわ。そっちも何か送れ、サボんじゃねーぞ!」と書かれていた。
「写真撮れないって言ったのにっ、バカ小島っ!」
あまりの強引さに笑いながら、そのメッセージを何度も読み返した。
押入れの奥で眠っていたカメラを手に、私は団地へと向かった。
まだ外は薄暗く、これから夜が明けようとしている。凛とした空気の中、私は写真を撮り始めた。
解体用の足場が組まれつつある団地、隣接する母校、展望台から見える町並み、駅から延びていく線路。そのどれもが私にとっては日常の傍の風景であり、彼にとっては遠い過去の思い出。それらを彩る朝焼けは綺麗で、夢中でシャッターを切り続け、気が付けば心の中で何度も「忘れないで」と繰り返していた。
もう、認めるしかない。私は恋に落ちてしまった。
気まぐれにキスなんてするのが悪い、何もかもバカ小島のせいだ。どうせ奥様だか恋人だか、誰かしら特別な人がいるんだろうに……それでも私は願ってしまう、どうか忘れないで欲しいのだと。一緒に過ごしてきた長い時間を、ずっとずっと覚えていて欲しい――ただそれだけが、私の望み。
家に帰った私は、最後にシャープペンの写真を撮った。彼は覚えているだろうか。
仕事終わりにSNSを確認すると、メッセージの返事は既に届いていた。写真を褒める言葉のあと、このシャープペン俺専用だったよな、と書かれていた。覚えていてくれた事が、本当に嬉しかった。
もっともっと、たくさん話がしてみたい……そんな気持ちを止められなくなった私は、電話番号を教える事に決めた。
寝る前にメッセージを送ると、スマホはすぐに着信を表示した。蛮行を後悔する暇もなかった。
「唯子、俺だよ。番号ありがと……」
眠そうな声が聞こえたところで、小島くんではない人の声が割り込んできた。
「ねえねえ、あしたなんじにおきればいいのー?」
幼い女の子の声が聞こえて、電話の向こうの気配が遠ざかる。子供がいるんだ――そう思った時、心臓がばくんと音を立てた。
「明日は七時までに起きてって、ママに伝えておいて」
「わかったー! おやすみなさーい!」
電話は容赦なく、ぱたぱたと走り去る足音を拾った。何も望んでいないつもりだったのに、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。
「悪い、もう平気」
「無理に電話しなくていいよ、家族団欒しておいでよ」
つい、棘のあるような態度を取ってしまう。自分でも可愛げがないとは思う。すると小島くんがぶくくく、と謎の音をたてた。どうも笑っているらしい。
「唯子、あれ姪っ子。姉貴が来てんだよ、明日はネズミの国に行くんだと」
「めっ……!」
予想外の発言に、私は言葉を失った。小島くんは「ベタな展開にハマりやがって」とさんざん笑ったあと、ひとつ大きな咳払いをした。
「俺は正真正銘の独り身だから、変な気なんて遣うなよ」
「うっそだあぁ!」
「マジマジ、とにかく仕事が楽しくてさ。だいたい俺がモテないのなんて、お前が一番知ってるだろうよ」
確かに学生時代、浮いた話は一度も聞いた事がなかった。だけど今の彼ならば、結婚してても何ら不思議はない。疑う私に、小島くんは「お前はどうよ」と言った。
「そういう唯子はどうなんだよ、彼氏くらいいるだろ?」
「残念ながら独り身も独り身、独り身歴イコール年齢ですが何か!」
てっきり自虐全開の私をからかってくると思ったのに、小島くんはそのまま黙り込んだ。
「じゃあさ……会いに行っても、いいか?」
緊張してますと言わんばかりの、とても硬い声だった。
その「独り身なら会いに行く」という流れは、期待をしても良いのだろうか。それとも単に、厄介事を避けたいだけなのだろうか。
「それは、もし私にパートナーがいたら、会う必要はないって事?」
疑問をストレートにぶつけてみると、小島くんはそうだな、と呟いた。
「自分の恋人が下心丸出しの男と会ってたら、俺だったら嫌だからな」
「下心、あるの?」
「あるよ。俺、唯子の事が好きだったんだぜ」
その告白に、私は一気に舞い上がった。落ち着け私、過去形だ。今がどうだとは言っていない――必死に自分を諌めている私に、小島くんが止めを刺した。
「もちろん、ずっと好きだったなんて調子のいいことは言わない。今の唯子の事、俺は全然知らないからさ……だからこそ、もっと知りたい。俺はもう、懐かしがってるだけじゃ終われないよ」
その言葉は、とても誠実なもののように思えた。小島くんがいいというのなら、私も向き合ってみたい。釣り合わないかどうかなんて、彼自身が決めればいいことだ。
悲しい結末かもしれないけれど、私だってもう、懐かしがるだけじゃ終われない。
「私も……もっと、知りたい」
「わかってる。唯子だってそう思ってたから、番号を教えてくれたんだろ?」
「そうだけど、そういうの言わないでっ!」
「ぶ、お前ほんっと変わんないな! 恥ずかしいと怒鳴るんだよな、わはははは!」
小島くんだって、全然変わらないじゃないか。そんな大声で笑ったりして。
昔に戻ったような空気が心地良くて、まだ彼と同じ場所にいられているような、そんな錯覚をしてしまう。
もう一度、この人と同じ場所に立ちたい。
胸を張って「好きだ」と言えるようになりたい。
私の気持ちをわかってるみたいに、小島くんは「頑張ろうな」と言った。
「いい歳こいた俺たちだって、夢を見る権利くらいはあるさ。俺は絶対諦めないから、唯子も諦めないでくれよ」
ノー・サレンダーだ、と小島くんは言った。
ただ羨ましいだけだった、彼のひたすらに強気な言葉が、今は勇気をくれる呪文のように思えた。
(了)
ノー・サレンダー 水城しほ @mizukishiho
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