ノー・サレンダー ②
ぼんやりと建物を見ながら歩道を歩いていると、中央広場の前で何かにぶつかってしまって、私は盛大に尻餅をついた。
慌てて正面に視線を向けると、黒いロングコートを着た男性が立っていた。どうやら私は、広場から出て来た彼とぶつかったらしい。
「ごめんなさい、余所見をしていて……」
「こちらこそすみません、上ばかり見ていたもので。大丈夫ですか」
彼もぶつかるまで気付いていなかったらしく、助け起こそうと手を差し出してくれた。その手を取ろうとした時、正面から視線が合って――うえぇ、と同時に声が出た。
「小島くん!」
「唯子かよ!」
間違いなく、小島くんだ。よりによってこの人に会ってしまうとは……さっきまで紳士だったはずの彼は、一瞬で少年のような顔になった。
「お前、ほんっと相変わらずだな」
「どっちがよ!」
「ほら、やっぱ変わってない。すぐ怒鳴るし」
からかうように、ニヤリと笑う。やっぱりコイツも変わってない。そもそも服装が大人な感じを出してるだけで、髪型もツンツン頭のまま。少し背が伸びたかもというくらいで、顔立ちも雰囲気も全然変わってない。ある意味すごい。
「昔からドジだよなぁ」
「ぶつかったのはお互い様じゃん!」
「いいから早く立てって、俺が悪さしてるみたいだろうが」
中途半端な位置で固まっていた私の手はそのまま掴まれて、強引に引っ張られる。立たせてくれたのには違いないので「どうも」と頭を下げたら、彼は掴んだ手にますます力を込めた。
「せっかくだから、しばらく捕まえとくか。なぁ唯子、ちょっと思い出話でもしようぜ?」
小島くんの大きな手は、完全に私を捕らえてしまった。
どうしよう、逃げ出したい。ただでさえ、真っ当に生きてる人に合わせる顔なんて、今の私は持ち合わせていないというのに……よりによって、相手が小島くんだ。
そんな事を考えていたら、彼はすんなり手を離して「ごめん、悪ノリがすぎた」と気まずそうに言った。
少し話そうと小島くんが食い下がったので、自販機でホットコーヒーを買い、敷地の一番高いところにある展望台へ上った。町並みが見渡せるこの場所からは、遠くに駅の光が、そして線路を走る電車の窓明かりが見えた。
二人並んでベンチに座ると、小島くんが自分のマフラーを私に差し出した。断っても強引に巻かれてしまって、ほのかに男の人の匂いがして、うっかり意識してしまう。小島のくせに生意気な、と心の奥で呟く。
「これじゃ、そっちが寒いでしょ」
「俺スーツだし、首元詰まってるから平気」
「……仕事帰り? こっちで就職してるの?」
「いや、たまたま出張と重なったから、同窓会に顔出してきたんだ。そしたら
小島くんは「写真撮るには暗いかな」と言いながら、自分のスマホを弄り始めた。高校を卒業するまではこの団地に住んでいたのだから、実家がなくなっちゃうような感じなのかもしれないな……なんて彼の心情に思いを馳せていたら、急に小島くんがこちらにスマホを向けた。
「ちょ、止めてよっ」
「いいじゃん、記念に一枚」
「許可取ってから撮りなさいよ!」
彼のスマホを取り上げようとした私の手は空を切り、前のめりになった私の方へと小島くんの腕が伸びる。そのまま肩を抱かれてしまった私が悲鳴をあげる前に、彼はツーショット自撮りを完遂してしまった。
「んなっ、ななな、え、SNSにアップしたりしないでよ!」
「しねーよ、俺は見る専門なんだよ。お前はやってんの?」
「……み、見る専門です……」
「だろうな、お前がスイーツ撮ってるとことか想像できない」
悔しいけれど、完全に見透かされている。たとえ充実した生活を送っていても、きっと私はそれを人前に晒したりはしない。私にとっての写真とは、自分自身を飾るためのものではないのだ。
「でもお前、大学は写真科だったよな。写真で食ってたりしねーの?」
「うぐっ」
不意打ちを食らった感じがして、思わず呻く。どうしよう。正直に言うのは恥ずかしすぎる……興味も将来性もない仕事でお小遣いを稼ぎながら、親に食べさせて貰って生きています、だなんて。
「あ、悪い。言いたくないなら別に、無理に言わなくてもいいんだけどさ」
「……就活、失敗したから。今は駅前のワンダフルバーガーでバイト、カメラはもう触ってないの」
ヤケクソで暴露すると、当然のように気まずい空気が流れた。申し訳なさそうな顔の小島くんに、こちらがいたたまれない気持ちになる。
「なんつーか、その、ごめん」
「いいよ、笑い飛ばして。むしろ笑って下さい小島さん」
「いや、笑うのはさすがに無理だろ」
「そういうそっちはどうなの?」
空気を変えたくて強引に話を振ると、彼は少し考え込んだ後、ぽつぽつと話し始めてくれた。
大学卒業後は都内に住んでいて、大学の専攻とは関係のない仕事に就いた事。夢を諦めきれなくて、思い切って転職した事。今の仕事が本当に好きで、毎日が充実している事――話しているうちに彼の言葉は熱を帯び、どんどん表情が変わってきて、ついには本当に楽しそうな顔になった。
高校までは同じ場所に立っていたはずの小島くんが、手の届かない遠い世界で、強い輝きを放っているように思えた。
「……凄いね、頑張ってるんだ」
「お前だって、まだやれるだろ?」
まだやれるなんて、とても言えなかった。ギリギリのところで涙はこらえたけれど、情けなくて恥ずかしくて、俯くことしかできなくなった。
その時、頭に何かが優しく触れた。
「何か溜め込んでるなら、話してみろよ。聞く事しか出来ないけど」
小島くんの手が、私の髪をそっと梳いていた。それはまるで恋人の髪を扱うような丁寧さで、私の視界をじわりと滲ませてゆく。
彼の優しさに、つい甘えたくなってしまう。相手は小島くんだというのに。他の誰にも、こんな気持ちになったことはないのに。
「私ね、カメラ扱う仕事したくて、フォトスタジオの内定貰ってたの。でも潰れちゃって……他は、全然ダメで」
面接に挑み続けた日々が、脳裏によみがえってくる。悪くないですねと微笑みながら、興味なさげにパラパラと捲られるポートフォリオ。必死に作り上げた作品たちの否定――カメラと生きる道を諦めた時、私はもう自分の撮るものに、価値を見出せなくなっていた。
「結局、気持ちが折れちゃった。あんなに好きだったのに、カメラ見るのも苦しくて……写真なんか、もう、撮れない」
「そうか……生きてくって、思うようにならない事ばかりだよな。わかるよ、俺も結構ヤバい時あったし」
小島くんは、寄り添う言葉をくれた。その気持ちは嬉しかったのに、素直に受け入れることができなかった。
だって小島くんは、全てが上手くいってるじゃないか。気安く「わかる」なんて言うけど、いったい何がわかるというの?
「小島くんに、わかるわけない!」
八つ当たりだ、と自分で思った。
昔は対等だったはずなのに、今はどうしてこんなに違うんだろう……違いを見せ付けられているみたいで、自分が情けなくて、悔しくて、零れてしまう涙を止められなかった。
「あー、自分だけが苦労したと思ってんなら、他人の努力を舐めすぎだぜ?」
小島くんは、私の甘えをバッサリと切り捨てた。そういう人だとわかっていたのに、私はどうして悲しいんだろう――頭の中がぐちゃぐちゃになってしまった私は、みっともなく、吠えた。
「そんなこと言わなくてもいいじゃない!」
「優しい言葉が欲しいだけなら、素直に受け止めてればいいだろ。半端に拗ねるから言われるんだぞ、お前そういうとこヘタクソだよなぁ」
「うるさい! バカ小島!」
「お、それ懐かしいな。いいぞ唯子、叫べ叫べ。俺に噛み付く気力があるなら、お前はまだやれるって事だよ」
小島くんは、そっと私の肩を抱き寄せた。その伝わる温もりに、私はとうとう声を出して泣いた。
「う、やだ、もうやだ、見ないでよ、放っておいて……!」
「放っとけるかバカ。付き合ってやるから、好きなだけ泣け。必ずまた笑える日が来るから……いいか唯子、ノー・サレンダーだ。自分の未来を諦めるな」
彼の口癖、「
小島くんの強さが、羨ましかった。
なんとなく惰性で生きてるだけの私には、苦しい程に眩しすぎた。
「気安く言わないでよ、今更どうにもならないんだから……小島くんとは、違うんだから」
「あのな、お前が楽しく生きてるのなら、俺だって何も言わないんだよ。だけどそうじゃないんだろ? このままじゃ嫌だから、何年経っても苦しいままなんだろ?」
「それは……」
「俺はな、唯子が俯いたままで生きてるのが悔しいんだ。自分を他人と比べ続けて、卑屈なままで生きるなんてさ、全然お前らしくねーんだよ!」
小島くんは、必死だった。言葉は荒かったけれど、心の奥までするりと入り込んでくるみたいで――私はもうこれ以上、自分の気持ちを隠すことはできなかった。
「私、怖いんだよ……誰も私なんて必要としてないって、思い知らされるばかりで」
「そんなの、誰だって怖いさ。俺だって本当は怖いよ。だけど黙ってたって、欲しいものは手に入らないから……怖くても、手を伸ばすんだよ。こんな風に」
小島くんの指が、私の頬に触れた。
顔をあげると、彼の顔もすぐ近くにあった。
思わず目を閉じると、一瞬だけ、唇に柔らかなものが触れた。
「……嫌、だったか?」
目を開けると不安げに問われたので、自然と左右に頭を振った。彼が突然キスしてきたことを、私は全く嫌だと思わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます