ノー・サレンダー

水城しほ

ノー・サレンダー ①

 何も好きで、こんな人生を選んだわけじゃなかった。

 私の夢見ていた場所に、私の席がなかっただけのことだった。

 惰性で呼吸をするような未来に辿り着いてしまった私は、ひっそりと日常を繰り返す。

 ここより酷い場所へ転がり落ちないようにするだけで、精一杯だ。


 バイトから帰ってリビングに入ると、テーブルの上に私宛の郵便物が置いてあった。差出人は中学の頃の同級生だ。その素っ気無い白封筒を、開封しないままバッグへ放り込む。

 ダイニングでコーヒーを淹れていた母親が、私のマグカップも用意したのが見えたので、そのままソファに腰掛けた。


「団地、老朽化で建て替えかと思ってたら、分譲住宅になるんですって」


 二人分のコーヒーに砂糖を入れながら、母親が言った。我が家から駅と逆方向へ向かった先にある、全部で十棟ほどの小さな団地の話だ。

 丘の上にある団地は、小中学校が隣接していたこともあり、放課後は子供たちが駆け回っていた。親しい友人と数人で遊んでいたはずが、通りかかった同級生が一人増え二人増え、気付けばクラスのほぼ全員で広場を占領していた……なんて事も珍しくなかった。何かトラブルがあれば親同士で筒抜けになってしまうので、みんな仲良く暮らしていたのだ。少なくとも表面上は。

 しかし高校生になると、次第に友人関係は外の世界へと向いていく。電車通学になった事もあり、何となく団地は遠くなった。

 それでもこの町には、常に団地の気配があった。給水塔のチャイムは町中に優しく響き渡り、まるで団地そのものが町のシンボルのようだった。私が気にも留めなくなったのは、一体いつの頃だっただろうか。


「もう誰も住んでないんだから、気をつけなさいよ? 学生の頃みたいに、カメラ持って変なとこに入り込んだりしないのよ?」

「……わかってるよ」


 心配性の母親から小言とマグカップを受け取って、半ば逃げるように自室へ戻った。

 机にコーヒーを置いてからベッドに腰掛け、バッグから白封筒を取り出した。端を破って中身を出すと、案の定それは同窓会の案内状だった。

 出席する気にはなれなかった。久しぶりに会う知り合いばかりの集まりなんて、近況報告会みたいなものだ。三十路アルバイターの私にはハードルが高い。

 その日の夜は、子供の頃の事を思い出していたせいか、よくわからない夢をみた。


 夢の中の私は、通っていた高校の制服を着て電車に乗っていた。

 他に乗客は見当たらない。座席はロングシートで、後ろの窓から夕日が差している。車内に伸びている影のせいで、自分の存在がとても大きなもののように思えた。

 視線を落とすと、首からカメラが下がっていた。押入れで眠っているはずの、相棒だったデジタル一眼レフ。私にとっては、既に過去のものだ。

 カメラだけでなく、夢の中にある全てが「過去」だった。

 窓の外にあるのは、高校からの下校時と同じ風景。今は無いはずの建物も、数年前に建て替わったはずの駅舎も、私が日常的に電車を使っていた頃のままだ。

 懐かしい景色から目を離せないまま、私は電車に乗り続けた。そのうち電車は自宅の最寄り駅へ到着して、車内アナウンスで駅名が連呼された。

 この駅は終点なので、電車は折り返し運行で市街地へと戻ることになる。その先には新幹線の駅や空港があり、この町の人を外の世界へと吐き出していくのだ。

 ホームへ出てみると、同じ高校の制服を着た男子がいた。小島くんという、幼稚園から高校まで同じ学校に通っていた、いわゆる「腐れ縁」の同級生だった。


「小島くん!」

「おっ、唯子じゃん」


 ニッと白い歯を見せて、爽やかに笑った小島くんは、私の横をすり抜けるようにして電車へ乗り込んだ。私はただ懐かしくて、もっと話をしたいと思った。


「待って、どこに行くの? ちょっと話そうよ」


 彼を追うようにして、もう一度電車へ乗り込もうとした私を、小島くんは片手で制した。


「違うだろ、唯子。俺は出て行くけど、お前はこのまま残るの」

「なんでアンタがそれ決めるの!?」

「俺じゃねーよ、決めたのは自分だろ。俺はただ、ノー・サレンダーを貫いてきただけだぜ」


 その荒い口調が、懐かしかった。「ノー・サレンダー降伏という選択肢はない」は、現実の彼も口癖だった言葉だ。

 私が次の言葉を告げないうちに、ドアが閉まりまぁす、と間延びした声が聞こえた。扉が閉まり、私たちは遮断される。もう声は聞こえない。届かない。

 ぴいいぃぃ、とホームに威勢よく笛の音が響き渡り、車体はぷしゅうと音を立て、彼の唇が「じゃあな」と動いたように見えた。

 電車はゆっくりと動き出し、成す術も無くそれを見送った。まるで永遠の別れであるように思えて、気付いたら涙を零していた。


「まってよ、おいていかないで……」


 自分の声で目を覚ますと、現実の私も、情けないくらいに泣いてしまっていた。


 団地の二号棟に住んでいた小島くんは、なぜか事あるごとに絡んでくる男の子だった。

 小テストの点数を張り合ってきたり、廊下を歩いていると無駄に早足で追い抜いて行ったり。私も負けん気が強かったので、気付けば常に何かを競い合っていた。ずっと同じクラスだったこともあり、それが私たち二人の日常で、当時は腹を立ててばかりだったけど、今思えばちょっと楽しんでいるところもあった。

 時折、彼は私のペンケースを勝手に開けてシャープペンを使う事があった。文句を言おうと止めるような人ではない。私はペンケースを二段式のものに変え、上段には男子が使っても違和感の無いデザインのシャープペンを一本だけ、小島くん用として入れておくようになった。

 はからずも同じ高校へ進学して、また同じクラスになった私たちは、周囲の目を気にして「普通のクラスメイト」になった。シャープペン係だけは続いていたけれど、二年生でとうとうクラスが別になり、その後は会ったら話す程度の関係になっていった。

 小島くんは関東の大学へ進学して、私は地元に残ったので、腐れ縁はそこで途切れた。それっきり、小島くんに会ってはいない。彼の実家は隣町に引っ越したので、おそらくもう会うことはない。


 それから二ヶ月程が経ち、同窓会の日になった。まだ十一月だと言うのに、真冬用のコートが必要なくらいに寒い日だった。

 私は普段通りに、駅前のハンバーガーショップで働いていた。バイトの身ながら店長より勤務歴が長い私は、他のバイトたちに「姐さん」などと呼ばれている。不本意だ。

 休憩時間にスマホをチェックすると、同じ写真部だった友達がメッセンジャーのグループトークで盛り上がっていた。誰と誰が結婚しただの子供が何人だの、あまり興味の持てない話が並んでいる。

 その空虚なログを眺めていると、ふと「団地へ行ってみようかな」と思い立った。

 自分が未来を信じていた頃の風景が、無性に見たくてたまらなくなった。


 仕事の後、その足で団地へ立ち寄った。既に薄暗くなっていた。肌を突き刺すような寒さの中、外灯の明かりに背を押されて進む。

 まだ解体工事は始まっておらず、敷地の通り抜けはできるようになっているけれど、さすがに建物の入口は全て塞いであった。

 人の気配がない建物の群れは、少し怖い。私の記憶の中の団地は、この時間なら各家庭の窓明かりと、夕飯の支度の匂いに満ちていたのに……今はもう、別の世界のようだ。

 こんな未来なんて、幼い頃の私は可能性すら考えなかった。ずっと団地は当たり前にあって、何年経ってもみんながそこにいると信じていた。いつまでもこの町にいるのは、私だけなのかもしれない……そう思うと、一人で取り残されているようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る