貴方は月を眺め、救いと解放を願った(後編)
『委員長の方がずっとマシだよ!』
珍しくワタルの声が
切られた受話器をいつまでも耳にあてがっていようと仕方がないので、女神ちゃんは静かにそれを固定電話の本体へ戻した。
もう用事は済んだのだから、TVの前に戻って番組が始まるのを待っていればよいのだけれど。なぜか彼女の両足はその場に張り付いて動こうとしなかった。
人はそれを放心と呼ぶのだが、生憎そのような精神の
―― OK、どうやらこれからもワタルと仲良くやっていくには、今すぐ行動する必要があるみたいよ?
独りで腕を組んでうなずくと、彼女はギシギシと
目指すのはパパの書斎。この廃屋みたいな洋館にもちゃんと住人はいるのだ。
「入るよ、パパ」
ノックしても返事はなかった。扉を開けると左右にそびえ立つ本棚がまず人目を引く。その
作業中には何を言っても返答はない、心ここに在らずといった様子だった。
パパは大体いつもこんな感じ。では、ママは?
ママの正体は月の女神。だから昼間のあいだは寝ているし、夜は「お月様から街を見守る仕事」があるので留守にしていた。もっぱら女神ちゃんの面倒をみてくれるのは家政婦のお婆ちゃんであった。
パパの背中を横目で眺めながら女神ちゃんは右手の本棚へと向かった。
そこにはパパの描いた数々の絵本がズラリと並んでいた。その背表紙を女神ちゃんは指でなぞって一冊ずつ確かめていった。
『泣き虫な誘拐魔』『おっちょこちょいな釘刺し男』『見えっ張りなキレイさん』
あった。これこそが探す本に間違いなかった。
それは、ママが話して聞かせた寝物語をパパが本にしたもの。
これを読めば「夜の住人」がどのような過去を持ち、どんな習性があって、何を弱点としているかまで、全てが判ってしまうのだった。しかし、とても子ども向けとは思えぬ
何だか判らなくなってしまうのだった。自分は本当に人間なのか、それとも絵本から抜け出してきた架空のキャラクターなのか。それでも友達を救う為だ、我慢して目を通さねばならなかった。
石橋ワタルが自転車を走らせ公園の噴水に辿り着いた時、
見れば委員長は噴水の
「あっ、無事だったか。君、携帯は持ってる? 電話したら知らない奴が出たぞ」
「携帯? ポケットにあるで? 着信履歴は特にないなぁ」
狂気を
「まったくもう! そんなカードの為に、危ないだろ」
「そんなに心配してくれたんか、ゴメンな。でもなぁ、やっぱり諦めきれんかった。このカードは特別なんや。兄貴にもらった誕生日プレゼントやから」
エリカの兄は大学生で、今年の春から実家を出て一人暮らしを始めたという。
そのせいで家の中は随分と静かになり、両親も物思いにふける時間が多くなったそうだ。
「だからこそウチが気張らんといかん。そう心に決めて、明るく振舞っていたんやけど。アカンね、どうしても兄貴との
「気持ちは判るけど。でも、早く帰ろうよ。何かあったらどうするんだよ」
「なんや? 昼間の都市伝説を気にしてるん? アホらし、あんなん嘘っぱちや。硫酸に沈めるってなんやねん。公園のどこにそんなモンあるんや?」
エリカが笑い飛ばしたその時だった。
二人の背後で噴水が動き出し、黄昏の
それも噴出したのはただの水ではなかった。見る間に底からカサを増していく液体は刺激臭を伴い、ワタル達を涙目にさせるほどだった。
やがて噴水の
「熱っ! な、なんやコレ。酸やないの」
「なんで噴水からこんな!?」
彼らの疑問に答えるかのごとく、池の
真っ赤なトレンチコートを着たザンバラ髪で長身の女だ。
派手な服装。されどその頭部がワタルへ向けられた瞬間、そこに宿る真の個性に比べれば服など取るに足らないものだと思い知らされた。
その女はタブレットコンピューターを……アイパッドとか呼ばれる板状の端末を顔面に張り付けていたのだ。バンドで顔に固定しているようだが、それで前が見えているのかは不明だった。
それも画面はこちら向き。
初めは
だが、女は距離を置いて立ち止まり顔面タブレットを人差し指で払った。
「フリック入力」という奴だ。すると途端に風景写真は左へと流され、女の自撮り画像がメインの画像にとって代わった。
生気のない能面のような顔だった。
唖然とするワタル達のポケットで携帯のバイブ機能が着信を告げていた。操作する暇すらなく、スマホは自動的に通話状態となりマイク音量が最大へと引き上げられた。そして二人のポケットから耳障りな低い声が流れ出した。
『ねぇ、私、キレイ?』
『キレイよね? いいね!を押してくれるよね?』
『私をブロックする人なんて、まさか居ないでしょうね? まさか!』
「ちょ、あの画像ってツイッターに上げられてた奴やん」
「おびき出されたんだよ、アイツが『キレイさん』なんだ」
真相を悟った二人の前で、キレイさんが「いいね!ボタン」のように右手の親指を立てた。そして、そのまま手首をクルッとひねると、真逆の意味を持つ「首を掻っ切る仕草」へと移行した。
その間もエリカの携帯が不穏な言葉を喚き続けた。繰り返し、繰り返し。
『私の美貌を認めない奴は、死ね! 死ね! 死ね!』
「なんか聞いた話と違くない? もしかして奴のアカウントをブロックしたの?」
ワタルの疑問に委員長は涙目でうなずいた。
ウンと下手に出て ご機嫌さえとれば見逃してくれそうな相手だが、既にその選択肢すら封じられているときた。ならば三十六計逃げるに如かず。ワタルはエリカの腕をつかんで駆け出した。
「噴水から離れるんだ、早く」
逃亡する二人を見送りながら怪人は優雅に顔面タブレットをフリックした。生気の失せた女の画像が流され、ワタル達が走るリアルタイムの動画へと切り替わった。
次いで胸ポケットに刺したタッチペンを抜くとキレイさんは液晶に一文字の真っ赤な線を引いた。そのラインは丁度エリカの足を横切っていた。
「痛っ」
エリカが転倒し、右のふくらはぎを抑えて
見ればそこには
致命傷ではないにしろ、もう走って逃げるなど出来ようはずもなかった。
キレイさんが
心臓が早鐘のように鳴っていたが、ワタルの頭はそれ以上の速さで回転していた。
―― 落ち着け、女神ちゃんは何と言っていたっけ?
―― 夜の住人は力と引き換えに必ず弱点も持っている。彼らが強い執着を抱くものこそ、強さの源であり……同時に弱さの象徴でもあるって。
やがてキレイさんが歩みを止めた。
ポケットに手を入れ仁王立ち。端末に写る女の仄暗い目が二人を見下ろしていた。そして怪人は携帯越しにワタルへ話しかけてきた。
『そうだ、貴方には訊いていなかった』
『いいね!押してくれる? それとも溶かされて死ぬ?』
「ふざけんな! こっちはなぁ、生きてる人間なんだよ」
ワタルは破れかぶれで叫び、怪人の腕をつかんだ。
怪人の手首は蝋人形みたいに冷たかった。それでも勢い付いた彼はその程度で
「ほら、血が通って温かいだろ? それに彼女を見ろよ、傷ついて血が出てるじゃないか。どうして自分のしでかした事の酷さがわからないんだ。彼女にも帰りを待つ家族が居るんだよ。今さ、アンタの目の前に何がある!? 何が『いいね!』だ。地に足つけて現実を見ろって。
タブレット端末にノイズが走った。
そこへ委員長が畳みかけるように叫んだ。
「せやせや、悪い夢に酔っ払いおってからに。オイタが過ぎるなら運営に通報するで。アカウントの凍結や」
『と……凍結は嫌ァアア!!』
口裂け女がポマードという単語を嫌うように、都市伝説の怪人にはキーワードとなる呪文があった。それを見事につかれたキレイさんは
そこへ、風に乗った笛の音が聞こえてきた。
ワタルが振り返れば、銀色の横笛を吹き鳴らす女神ちゃんの姿がそこにあった。
その調べは聞く者へ安らぎを与える慈愛に満ちていた。
襲われていた二人さえも、思わず聞き惚れてしまうまでに。
頭を抱えてもがいていたキレイさんも、やがて動きを止め無言のまま女神ちゃんに向き直った。耳目が集まる中、女神ちゃんは薄い唇を笛から離し静かに告げた。
「良い黄昏ね、キレイさん」
『……?』
「お疲れさま。もういいのよ、アンタの古巣へお帰りなさい。たとえ『おかえり』を言ってくれる人が居ないとしても、そこが我々の居場所なのだから」
『……!!』
「アタシ達は夜の住人同士。だからこそ通じる対話があるわよね? もうこれ以上、ママを悲しませないで。誰が貴方を見捨てようと、夜空の月だけはまだ貴方を愛しているわ」
そして横笛の演奏が再開された。
キレイさんは何か悟ったらしく
奏でられた曲の
「め、女神ちゃん。来てくれたんだ」
「アニメは録画してきたからね、後はアンタ達が家に帰ればオシマイってわけ」
「堪忍なぁ、ホラ吹きとか言うてしもうて。知らんかったんや」
「いいよ、別にキミの為じゃないし~。ワタル君は好き嫌いで行動するなって言うけどさ、アタシはね、世の中は全部、好きと嫌いで出来ていると思ってるから」
「へ?」
「じゃ、お二人でごゆっくりどうぞ。アタシは帰って『お化けのイービル』見るから」
去っていく女神ちゃん。そのまま行かせようとするワタルの左腕へ、委員長が強烈な
「ウチはオカンを呼んで病院に行くわ。君も行く所あるんやろ?」
「あーうん。そうだった。委員長、ありがとう」
自転車に乗って追いかけていく少年を、エリカは手を振って送り出してやった。
「ホンマ、鈍いやっちゃ……しっかりせいや」
行きはよいよい、帰りは怖い。
ワタルは女神ちゃんと自転車の二人乗りをして家路を急いでいた。
乗り方は「お互いが背中合わせ」という、何とも不思議な構図だった。
それで落ちないのか、聞きたくなるレベルでワタルに「寄りかかるだけ」であった。腰に手を回すのが恥ずかしいのだろう。彼女は荷台で体育座りをしながら、それでもどことなく楽しそうだった。
「今日は悪かった。いきなり呼び出しちゃって」
「いいよ~独りでアニメ見ているよりずっと楽しかったし。それに来たのはワタル君の為だけじゃなくてさ。キレイさんが気の毒だったこともあって」
女神ちゃんは語った。
都市伝説の女もかつてはバイオメカニクスの研究所で働く、美貌の博士だったという。
当時はSNSやマスコミにもてはやされ、幸福の絶頂にいたが……論文の盗作と上司との不倫関係が発覚したことで彼女の待遇は一変した。
正確には盗作したのはその卑劣な不倫相手の方だった。それなのに、ただ彼女の研究論文が「後発」だというそれだけの根拠で罪人だと決めつけられた。
彼女の支持者は一人残らず掌を返し、
そして、そのまま入院先を抜け出して消息を絶った。
「ひどいな、それ。じゃあ、あの写真は……虚構か。悪い事を言っちゃったな」
「職場からの帰り道、あの公園で彼女はいつも独り月を見ていたんだって。だから母さんも気の毒で放っておけなかった。まぁ、ママの愛情は大抵アダで返されるんだけどね」
「だからって人を傷つけて良いわけじゃないけど」
「人間はみんな可哀想なんだって。これ、ママの口癖」
「そうかなー。別に、人生って嫌なことばかりじゃないよね?」
「ふふ、そうね。アタシは今、楽しいもの」
その体勢だとそうは見えないけど。
ワタルは心に浮かんだ突っ込みを飲み込んだ。
彼もまた女神ちゃんを乗せて走ることに少なからず誇りを感じていた。
姫君をエスコートする騎士。
後日、ワタルは写生大会の風景画にある人物を書き込んでから提出した。
赤いコートを着た女性の後ろ姿。どこか寂し気で思わせぶりなその絵は、審査員から高い評価を受け見事に銀賞を勝ち取った。
だが展覧会に飾られた我が絵を目にした時、ワタルは「夜の住人」の恐ろしさを改めて思い知る事となった。確かに後ろ姿を描いた、その筈だったのに……絵の中の彼女はこっちを振り返って笑みを浮かべていたのであった。タブレット端末こそないが、ニヤリと笑う赤い口紅が印象的だった。
キレイなひと。
それが銀賞作品のタイトルだった。
女神ちゃんと公園のキレイさん 一矢射的 @taitan2345
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