言の葉の魔法

かんなづき

言の葉の魔法

 雪の予報が出ていたから、セーターまで着込んだ制服の上にコートを羽織はおって部屋を出た。玄関までの階段をリズムよく下る。


 右手にはあの人へのおくり物。


 りすぐりの言葉とともに高鳴る胸を必死に落ち着けた。そうしないと、前夜のせいで凍った路面の上できっと転んでしまうから。


 革靴を地面にノックして玄関を開ける。


「行ってきます」


「あら、あかね。制服なんて着てどこへ行くの? もう学校は冬休みでしょう?」


 スコップで白い宝石を運んでいたママは、私に気付いて首を傾げた。


「えっと……探しものっ!」


「探しもの? まあいいけど、気をつけて行ってらっしゃいね。まだ雪が残ってて滑るんだから」


「うん」


 私は肩から滑り落ちそうな手提てさげを掛けなおした。


 昨日の夜。世界中にしあわせが降った日。その代償なのか、地球は冷凍庫のような肌触りになっていた。


 太陽の輪郭がぼやけてわからないほど、今日の雲は白くて厚い。自分の吐いた息がゆっくり冷たさに溶けていく。


 温もりを持つのが、どこか誇らしかった。




 私は一度も滑らずに目的地に辿たどくことに成功した。ふうっと一つ吐き出した白にかすむ市民図書館の看板。


 あの人は、今日もきっとここにいる。


 前髪、おかしくなってないかなっ?

 ガラス張りの入り口に映る自分を見て、いつも少しだけ不安になる。何度も自分の部屋で確認して来たのに。


 凍えた毛細血管を解きほぐすように頬を揉んだ。あの人の前では柔らかい笑顔の女の子でいたい。あの人がそうやって私を笑顔にしてくれたから。


 大丈夫、と言い聞かせて自動ドアをくぐった。

 コートの中で蓄えられた旋律せんりつが暖房の伴奏にはやされて鈴の音の籠った雪歌ゆきうたを歌い出す。脱ごうかどうか迷っている間に、私の二つの足はあの人のいるところへ私をいざなってしまった。


 扉を開ける。


 人の気配のない静かな学習スペース。その端にぽつんと一人、ノートを広げている彼がいる。


「おはよう」


 私は彼の隣の椅子を引きながら、いつもみたいに笑った。


「あぁ、茜ちゃん。おはよう」


 これで、もう10分の1。でも大丈夫。残りだけでもきっと幸せな時間が過ごせる。


 私は贈り物を忍ばせた手提げを机の下に隠して、自分が彼の隣にいるための口実を取り出した。


「お、今日は新しいやつなの?」


 すぐに彼に気付かれる。私はこくりと一つ頷く。


「ほんとに好きなんだね、小説。僕にもおすすめ教えてよ。題名が短いやつで大丈夫だから」


 優しい彼なりの思いやり。彼の中に私の居場所があることへの愉悦ゆえつ


「受験、終わったらね」


「む。絶対だよ?」


 彼は頬をぷくっと膨らませてそれをはじくように笑った。目尻と口角のたおやかなその花笑はなえみは、何度でも私の心を陶然とうぜんとさせる。


 このまま私に向かって笑っていて欲しいけど、彼を邪魔してはいけない。彼の目がノートに戻るのを横目に、私も探しものを続けた。





 まだ私が一年生だった頃。

 私の周りには、けがれた言葉を吐き出す人間がたかっていた。


 のせいで寡黙かもくだった私は、よこしまな国の住人だと思われていたのだ。


 キモいんだよ、ゴミ。


 毎日、注射針のピストンがそんな言葉を私の中へ押し込んだ。

 いくら打たれても何のワクチンにもならないそれを、私はずっと血管に流していた。


「何、やってるの?」


 世界の緑色が濃くなり始めた放課後の教室で、その声は響いた。私を囲んでいた三人の女の子は、さわやかでありながら今にも千切れそうな危なっかしいその声を振り返った。


「なんだよ。あんた」


「なんでもないよ。汚い言葉が大嫌いな人間さ。さ、その手を離そうか」


「関係ねーだろ。うせろ……っ!?」


 彼は私の髪を摑む手を取り上げて、そのまま腕を折ってしまうくらい強く握った。女の子はすぐさま苦しみ出す。


「い、痛いっ! や、やめて!」


「人を散々痛めつけた人間の言葉とは思えないな」


「あんたに何が分かるのよっ!?」


「……わかりたくないよ。そんなの」


 解放された腕にくっきりと染み付いた赤い跡。


 女の子たちは乾いた舌打ちをして、机に投げ出した鞄を持ってさっさと教室から出て行ってしまった。


「大丈夫?」


 彼は私の前にしゃがみこんで、震える私の瞳をじっと見つめた。

 この人は光の国の住人だと、そう悟った。


 上履きの色は黄色。一つ上の学年の先輩だ。


「あ、ありがとう、ご……っ」


 喉が震えなくなった。

 私は「やめて」と言うのに、一日の半分以上の容量を使ってしまっていた。


 どうしよう。こうやって私は嫌われる。



 言葉を喋れない、言葉を喋れない、普通じゃない人間。普通じゃない人間。



 私を助けてくれたこの人もきっと、お礼すら言えない私を気持ち悪がって避けるだろう。こんなところにいたら、私を知られてしまう。


 私は靴跡に呪われた鞄を抱えてその場を逃げ出した。


「え、ちょ、ちょっと!」


 後ろから彼の声が聞こえたのが分かった。

 でも、いい。振り返っても私は何もできない。


 こんな魔法、いらないんだ。私なんて……。





 私が魔法のろいにかかったのは、六年生の秋。

 変な夢を見た。


 私は黒い金属でできた檻の中に閉じ込められていて、その前で髭を生やした丸い体格の男爵がきらびやかな椅子に腰を下ろして私を見ていた。


「お前は多少おしゃべりが過ぎる」


 男爵は私を指差す。


「だって私はそれが一番楽しいもの」


「楽しい? ふざけたことを抜かすんじゃない」


「ふざけてる?」


「あぁ、そうだ。じゃあお前、言葉は何でできているか知っているのか?」


「知ってるよ。だもん。言葉はいろんな人の幸せを運ぶカナリヤだから。人は幸せに幸せを詰め込んで飛ばすの」


「違う」


 男爵は髭を指で流しながら端的に否を放った。


「ち、違わないっ。じゃあ何なの」


「いいか? 言葉はナイフだ。どれだけ幸せな言葉でもな」


「何を言っているの? ナイフで人は幸せにならないじゃない」


「誰が幸せになるために言葉を使っているのだ? 全く違う。人は不幸にならないために言葉を使うのだ」


 薄暗い世界に、私への愚弄ぐろうを煮詰める鍋の底をつつくような笑い声が響いた。


「不幸にならないための方法。それはただ一つ。他の誰かを不幸にすることだ。人はそのために自分の仲間にナイフのを向けて渡すのだ」


「私は他の誰かを不幸にするためにおしゃべりをしているわけじゃない!」


「当人の意志など関係ない。どんな言葉も、必ず誰かを傷つけ、不幸にするのだ。ではお前の言葉は、万人を幸せにするとでも言うのか?」


 血管を引っ掻かれたような気がした。


「そ、それは……わからない、けど……」


「ほらみろ。言葉などはそんなものだ」


「でも、私は……」


「いいかい? 言葉なんていらないんだ。もっとこの世界を見てみなさい。きっと言葉なんて欲しくなくなるだろう」


「ならない! 絶対ならないもん!」



「あぁうるさい! もう奪ってしまおうか!」



 男爵は急に声を張り上げて地を鳴らした。それと同時にものすごい勢いで黒い物体が落ちてきて、私を完全に取り囲む。


「な、なに!?」


 それが人の形をしていることに気付く頃にはすでに首を摑まれていた。

 喉に激痛が走る。


「い、いや! 何するの!! やめて!!」


 すべて。私の幸せがすべて奪われていった。得体の知れないそれに。



 それ以前はおしゃべりが大好きだった。友達もたくさんいて、毎日が楽しかった。

 たくさん言葉を交わして、みんなと心を交換して。


 それが私の幸せの証拠だったのに。





「一日200文字?」


 彼と再会したのは、助けてもらった次の日の昼休みだった。校舎にさえぎられて陽の当たらない裏庭のベンチ。彼は偶然通りかかったように私の所へやって来たのだ。


「……はい。それ以上は、喋れないし、声も出ないんです」


 それが私にかけられた魔法。

 あの夢を見てから、誰かに伝えられる言葉はそれだけになった。


 今までの友達も全部失って、大好きだった言葉に、毎日傷を付けられる。


「先輩も、私なんか放っといてください。どうせ、私は一人だし」


 私は何か悪いことをしたのだろうか。

 これは誰かを傷つけた罰なんだろうか。


 じゃなかったら、私のこの魔法は何のための……。


「もう、言葉なんて嫌いですっ……。みんな消えちゃえばいいのに……」


 そうしたら一人で苦しまなくていいのに。


 スカートに皺を寄せる手を、彼は上から包んでくれた。


「っ」


「大事な言葉、そんなことに使わないで」


 彼の手は新緑の葉脈に流れる子守唄よりも遥かに温かかった。


「人間は本当に伝えなきゃいけないことに気付いてないから、誰かを傷つけるような汚い言葉を使うんだよ。でも君は違う。言の葉の魔法を誰よりも知ってる。誰よりも、その美しさに近い場所にいる」



 それは、とても素敵な魔法だと思うよ。僕は君の言葉が聞きたい。



 彼はそう言って私の声を聞いてくれた。

 たった200文字。一日にそれだけ。


 敬語だと文字数がかさむからとタメ口も許してくれた。


 私にまとわりつく穢れをすべて取り払ってくれた。



 それから一年半、私は彼のためだけに言葉を紡ぎ続けた。もちろん毎日会えるわけではなかったけど、会えた日は必ず私の言葉を大事に抱きかかえるように聞いてくれた。


 最初の内は伝えられなかったことも、時間が経つにつれて伝えきれなくなった。

 その度に、心の通信制限を持たない人たちが羨ましくなった。



 彼が受験生になってからは、図書館で勉強する彼の横で言葉を探した。


 私は確かに幸せだった。


 本当に伝えたいこと。

 言葉にして、相手に届けたい気持ち。


 それを受け取ってくれる彼がいること。



 僕は未だにあの子たちが信じられないよ。

 美しい花を言葉どろで汚すなんてどんな暇つぶしだい?



 言の葉の魔法は、目に見えない幸せへと誘うピクシーダストだった。





「あのっ、黒磯くろいそ先輩!」


 午前中の勉強を終えて図書館から出る彼の背中を魔法で懸命に引っ張る。


「ん?」


 今日は特別な日だ。

 贅沢に言の葉をろう。


 選りすぐりの魔法で、彼に。


「実は、渡したいものがあって」


 彼は、えっ、と白を吐き出して固まった。その瞳にしばらく私を取り込んで、ゆっくり私の方へ体を向ける。


 私は手提げの中から、贈り物を取り出して彼に差し出した。

 その手が震えているのは、きっと寒いから。


「これ、クリスマスプレゼントです」


 今日は、師走しわすを二十五数えた日。


「ま、マフラー……?」


 彼は呟きながらそれを受け取った。白い世界に彼の色が映えだす。


「もしかして、んでくれたの? 僕の、ために……?」


 私は小さく頷いた。


「はい、たくさんお世話になってるので。いつもありがとうございます」


「いやいや……」


 指を結んで恐る恐る彼の顔を見上げる。


「私、先輩と一緒にいる時間がすごく好きなんです。先輩の側はどんな時でも陽だまりみたいに温かくて、私を優しく、許してくれるから……」


「茜ちゃん……」


 だんだんと、喉が締まっていく。魔法が私を閉じ込める。

 雪をあざむく世界に閉じ込める。


「これからも、私の気持ちっ、たくさん受け止めてくださいっ」


 私はぎゅっと目をつむった。


 残りは、たった四文字。


 今日はいっぱい伝えてしまった。

 みんなが五文字で済ませてしまうような、いつもの感謝を。


「もちろんだよ」


 彼は灯籠とうろうにそっと明かりを灯すように笑った。

 不思議なことに私の指先はまだ震えている。


 椿つばき色のマフラーを首に巻いた彼は嬉しそうに指を絡ませる。


「これ、本当にありがとう。めちゃくちゃ嬉しい! テストにもお守りとして巻いて行くね」


 よかった、喜んでくれた!

 心の中でガッツポーズをして、彼に手を振る。


 じゃあ、


「バイバ200


 先輩。

 また、明日ね。明日も一緒にお話しようね。


 すっかり温まった私は彼に背を向けて家に帰ろうとした。



「待って」



 今度は先輩の魔法が私を引き留める。

 もう私を。


「僕が渡す番が終わってないじゃない」


 え?


 空に塗られたカンタービレ。

 路上の雪は知らん顔。


 閑散期かんさんきの来ない私の心臓。


「用意したはいいけど、勇気が、出なかったんだ。どうやったって、君が紡ぐ美しさを超えることはできないから。がっかりされるような気がして」


 ゆっくりと宝石が舞い降りる。

 今日の予報は的中したようだ。


 彼は鞄の中から薄い包みを取り出して、私に差し出した。


「僕からもプレゼント。君はよく本を読んでいるから」


 半ばかじかみ始めている指でそれを受け取り、その包みをそっと剥がす。


「っ……」 


 真っ白な雪景色に、季節外れの蛍の光が描かれている、とても綺麗なしおり

 先輩が私のために選んでくれた、プレゼント。


 どうしよう。もう、ありがとうって言えないや。


「それからもう一つ、受け取ってほしいものがあるんだ」


 えっ。


 立ち尽くす私を彼の温もりが隠す。

 彼の世界に閉じ込める。



「茜。君が好きだ」



 耳元で響く、彼の確かな声。

 それ以外いらないと言う風に、気の早い雪解けが視界をにじませる。



 先輩っ……。



 探していたんです。

 ノートを開くあなたの隣で、ずっと。


 この気持ちをあなたに伝えられる、何よりも温かい言葉を。


 それは、どのファンタジーにも乗っていなかった。

 誰の時間にも流れていなかった。


 だから必死に探してたんです。絶対、絶対伝えたかったから。



 でも、そんな必要はなかったんですね。



 たった四文字でよかった。


 あぁ、私は何て馬鹿なんでしょう。さっき、「バイバイ」なんて言わなければ、今すぐあなたの背中に手を回して、その耳元にささやけたのに。


 誰かっ。

 四文字でいいから。たったのそれだけでいいから、私に恵んでください。



 彼に、だいすき、と伝えたいですっ……。



 私は鼻をすすりながらゆっくり彼を抱き締めた。

 そうでもしないと肺が凍ってしまいそうな後悔が私を呪うから。


「僕の気持ちも、受け止めてくれるかな」


 首がりそうなほど頷く。

 彼がそれを見てふふっと優しい吐息を漏らすのが分かった。



 これからいっぱい伝えます。たくさん愛しますっ。



 待っててください、先輩。



あかね


 私の瞳を真っすぐ捕まえる。頬に彼の手。


 旋律を追いかけるように、リズムよく胸が高鳴っていく。


 もう転ぶ心配はしなくていい。


 彼が私の手を握ってくれるから。

 いつだって側にいてくれるから。



 互いの白は重なり合って、温もりは手を叩く。


 それからゆっくり瞳を閉じて、二人だけの魔法書にそっと栞を挟んだ。



 



 言の葉の魔法 


 -完-

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

言の葉の魔法 かんなづき @octwright

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ