恋茄子

鯨ヶ岬勇士

恋茄子

 人間ひとの赤ん坊というものは、近くで見てみると皺くちゃで赤茶がかった腐り気味の梅干しのようで、可愛いとは言い難い容姿をしている。それでもにさせるから不思議だ。そこに優しく、柔らかい土をかけてやるのだが、これがどうにも気分が良くない。まるでをしているような気持ちにさせられる。


 これは人間ひとではない、よく似ているだけの別物ものだと自分に言い聞かせても、悪党になった気がして、不安で頭に血が昇って火が燃えるようにとなるのを感じる。この職業しごとについて数十年、未だになれることはない。


 思い返せば、人生のほぼすべてをこの畑で過ごしていた。五体の隅々にまで染み込んだ力仕事に、今までよくついてきてくれたと自分でも思う。この身体は、動かす前に筋を伸ばした方が痛めにくいといったの無作法な男に、文句ひとつ言わず淡々と従ってきてくれた。古臭く、この時世には相応しくない表現かもしれないが、彼にとって糟糠そうこうの妻とはこの身のことだ。


 しかし、それも今日で終わる。この農夫、新免武蔵しんめんたけぞうはマンドラゴラ――和名恋茄子コイナスビ農家から身を引き、隠居することに決めたのだ。嬰児みどりごによく似た不気味なそれは、伝説でこそ不老長寿の妙薬だとか、健康に良いとか言われていたが、それも昔の話だ。今では横文字の薬物の方が良く効くというし、そっちの方が手軽ときている。その上、農家側からしたら、命懸けで収穫しても実入りが少ない。


 先祖代々の職業だと言われて続けてきたが、身体にもがきているし、息子たちも家を出て別の職業についた。それならば、武蔵は自分も家業をたたんで隠居しよう――地に根を下ろして、休んでしまおうと考えたのだ。


***


 遠くで、口をぱくぱくと動かす男が見える。それはまるで飢えて人影にたかる鯉のような下品さがあった。何を言っているのかはわからない――それも致し方あるまい。その耳には恋茄子の根が寒さに震えてを上げるのを防ぐために、分厚い耳栓がなされていたのだ。この叫び声を聞くと良くても失神、最悪の場合、前頭葉に障害が残ることが報告されている。そのため、恋茄子のビニールハウスの周りには注意を促す看板がいくつも立てられ、民家から一定の距離をとるように行政から指導されているほどだ。


 腰の曲がりかけた武蔵はすべての恋茄子に温かな土の布団が掛けられていることを確認すると、水をちょろちょろとかけてから恐る恐る耳栓を外した。


「おーい、親父」


 彼を呼ぶ中年男――息子の城太郎じょうたろうの頭は風に吹かれ、脂でぬめり、赤みがかった地肌が見える。その顔は笑みが厭味ったらしく貼りつき、それを見ると実父である武蔵当人もと不安になるのだった。


「はあ、はあ、親父。今、時間あるかい? 」


 少し走って来たのか、中年男は微かに息切れを起こしている。そして父親が仕事で疲れているなど考えもせず、周りをはしゃぐ仔犬のようについて回るのだった。その横っ腹を思い切り蹴っ飛ばしてやろうかとも考えたが、時代が時代だ。畜生にも敬意を払わなければならない。農夫はと笑う息子を無視して歩き続け、少し離れた家へと着いた。


***


 家には――比喩ではなく本物の――妻が入れたであろう、息子の嫁と孫が退屈そうに携帯電話をいじっていた。


(そんなに嫌ならば来なければいいのに――)


 愛しいはずの孫にもそんな感情を抱いてしまう。そして、それを見てせわしなく話しかけている妻を見ても似た感情が湧き上がる。


(――それを見てそわそわと不安そうになるなら、追い返せばいいのに)


 ただでさえを土に埋めるという、命懸けかつ気分の悪い仕事をしてきたのに、これでは心が休まる暇がない。それに加えて、妙に熱心な息子が、息切れを起こしたままにをしてくるのだから腹が立ってくる。


「親父、隠居なんてやめようぜ。これから『マンドラゴラ』ブームが来るんだよ」


「そんなもの来やしねえよ。今じゃ、恋茄子よりも良いものがいっぱいある」


「そんなことないって。健康志向で無農薬マンドラゴラが流行るんだよ! 」


 鼻息を荒げて話す城太郎を、武蔵は一瞥すると煙草に火をつけて肺いっぱいに吸い込んだ。


(こんな時代に煙草を吸うじじいだなんて笑わせる)


 息子曰く、近年では恋茄子の効能が再注目されているそうだ。最近は猫も杓子も健康に不安を抱いている。藁にもすがりたい思いに、藁ではなく恋茄子がぴったりらしい。


「ストレスに弱った体にマンドラゴラがぴったりなんだ」


「そんなもの、病院に行って薬をもらった方が安上がりでええ。ストレスが辛いならとやらで薬をもらった方が確実でねえか」


 言いなれていない言葉を言ったせいか、舌が上手く回らなかったが、そんなものは関係ない。東京に出て20年以上経ったとはいえ、こいつも農家の息子――無農薬がどんなに大変なのかもわからないということに小さな絶望を覚えた。


「いやいや、親父。このなら――」


「こんにちは、赤松屋の池田です」


 なんでもない酒屋の赤松屋の若い衆の声が、今日は救いの声に聞こえた。この池田という青年は孫と変わらない年だったが、酒屋で汗水流して働く苦学生だった。このご時世にパソコンからの注文だけではなく、御用聞きを続けてくれる赤松屋はになれない武蔵にとって非常に助かるものだった。


「なんかもめ事ですか」


 裏口から伝票をもって家の中を心配そうにのぞき込む池田をよそに、武蔵は平気だと言って、息子の話を切り上げた。


「いやいや、いいんだ」


「へえ、それならいいですけど」


「それにしてもいつも悪いね。どうにもとかで注文するのには慣れなくって。持ってはいるんだけどね、。やっぱり人間同士のふれあいが大事だよ。温かみって言うのかねえ」


 池田は二度か三度、小さく愛想笑いをし、それからさらさらと伝票に注文をまとめて一言、「夕方ごろにお届けに参りますんで。毎度ご贔屓にどうも」と頭を下げて次の家へ向かうのだった。


 話というものは奇妙なもので、一度リズムが崩れてしまうと途端にぐずぐずになってしまう。先ほどまで饒舌だった城太郎はしどろもどろになり、そうして夕方になると息子一家は特に後ろ髪ひかれることもなく家路についた。


***


「猫も杓子も無農薬ばっかり言いやがって。ただでさえ大変な農業で農薬使わないってことがわかっちゃいねえ」


 ぼそりと庭先で武蔵はつぶやくが誰も聞いてはいない。どうせ隠居するんだから、こんな愚痴は風に乗って空へ流れていけばいい。それでいい。いつもならそう思えたが、今回は違った。


「みんな誰かが苦労するのが好きなんですよ」


 誰も聞いていないはずの独り言に、どこかから返事が来た。池田だ。彼は醤油瓶や酒瓶を持って、注文を届けに来たのだ。


「苦労するのではなく、苦労しているのが好き? どういうこった」


「だってそうでしょう。機械で淡々と効率的に作られた物より、人の手で非効率的に作られた物の方がありがたく感じるんですよ。だけど、自分はそんなことしたくない。だから誰かに苦労してほしいんです」


「そんなものかねえ」


 武蔵は煙草に火をつけ、空に一筋の白い煙を吐いた。それを見ると池田はけたけたと笑い、「武蔵さんだってそうでしょう」と言った。


「恋茄子はその代表格ではないですか。それに、あなただってパソコンから注文した方が効率が良いのに僕の御用聞きを温かみがあるといってありがたがる。そんなものですよ」


 そう言われてしまうと何も言い返せず、口をもごもごとさせたのちに再び煙草を咥える。それから池田は帰り際に「非効率な方がありがたみはあるけど、効率的なものも便利で良いですよ」と言って笑顔で去っていった。その一言は何だか、隠居生活を人生の終わりと考え、重たく地に根を張って暮らそうと考えていた武蔵の心を軽くした気がした。


 それから彼は部屋の隅で埃をかぶったパソコンに目をやると小さく、「使ってみるか、パソコン」と呟いた。

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