第34話 いつかの夜

「え? もう行っちゃうんですか?」

 意識がはっきりしてまだちょっとのナヤーシャが、名残惜しそうに聞く。

「ええ。反乱組織には大打撃、不穏要素だった元案内人のハレルは街の外に送り届けられた、おまけに恐怖体験まで。十分味わったわ。あとは北地帯に戻ってお姉様に報告、そしてたんまり褒めてもらうだけ……ふふん」

 夜の気配が濃くなってきている空を見上げてなにかを夢想するボクダリの女だが、またすぐにこっちに顔を向ける。

「まさか莫大な賞金を懸けられた男がお嫁さんを連れて街を出ようとしているなんて思わなかったわ。まあでも、運がいいわ……あなた。そうでなきゃ死んでた。かわいいお嫁さんに感謝よ、わかってる?」

 いまひとつ何を言っているのかはわからないが、彼女の中では確たる理由があるのだろう。理由の詳細は教える気がないのだろうし、聞くのも野暮に思えるし、ナヤーシャのおかげだとは言っている。ただし嫁ではないので勘違いをしているわけだが、ここは黙っていたほうがよさそうだ。

「こんなかわいい娘、なかなか見ないわよ……なにこれモチモチ!」

 ナヤーシャの顔を(主に頬を)両手で挟んでモチモチしている……と思ったら、


「それじゃあね! 無事にどっかの国にたどり着いてよ」


 という言葉を残して迷いなく駆けていった。

「……まるで強風のような人でしたね」

 徐々に小さくなっていく姿を見送りながらナヤーシャが呟いた。

「行こう。のんびりもしていられない、荒野に出たとはいっても、ここはまだ街に近いんだ」

 何者かが狙っている可能性はもう低いだろうが、ないとは言えない。


「なんであのとき、わたしのお尻を叩いてくれたんですか?」

 歩きながら、なにかを期待するように質問をしてくる。

「ナヤーシャも言ってただろ。触りたかっただけだ」

 どうやら期待していた返しではなかったようで不満そうに唇をとがらせた。でも気を取り直したように俺の前方に出ると、お尻を少し突き出して主張してくる。

「そうなに触りたかったなら、思う存分触ってください。……タダですよ?」

 悪戯っぽいような、でも冗談にも思えない調子で誘ってくる。

「今は触りたい気分じゃないし、もう触りたい気分になることはないだろうな」

 ナヤーシャを通りすぎた。彼女はすぐに後をつけてきて横に並ぶ。

「安心してください、これからは四六時中一緒にいるわけですから、絶対に必ずそんなときがきますよ。……そうですよね?」

「そんなとき? なんの話をしてるのかよくわからない」


 木々が本当に少なくなってきて、ついに荒野らしい荒野に出た。殺風景と言ってしまえばそうなのかもしれないが、どこまでも続くように思える広大で荒涼な大地は、人間がいかにちっぽけな存在かを突きつけてくる雄大さがある。

 それでも止まることなく、歩みを進めていく。次第に街の気配が遠くなっていくのを背中で感じる。わかりやすく何かがあるところから、だだっ広く一見すると何もないのではと思えるところに向かっていくのは辛く物寂しさがあるが、妙に背筋が伸びる……感覚が鋭敏になるというか、再構築されていくような清々しさもある。


「夜風が気持ちいいですね」


 背後からやってくるひんやりとした、まだ生暖かいような風を受けてナヤーシャは穏やかな感想。

「街の匂いがある気がする」

 思わず背後を振り返って立ち止まった。見えるのは暗くなった林で、街並みはない。それでも、それの向こうにある光景が脳裏に浮かぶ。いまもそこで日常を送っている人はいて、浮かんでくるのは知った顔ばかり。その顔もいつか忘れるのか、それとも離れれば離れるほどに思い出すようになるのか。

「早くも街が恋しいですか……?」

 からかうような問いではなく、俺の様子にあまりよくないものを感じたのか、不安をにじませた声音で心の機微を窺うように聞いてくる。


「いまは自分でもよくわからない」


 正直な気持ちだった。街を出られてよかったと思えば寂しさがやってきて、街に戻りたいのかと考えればそれはありえないと思う。

「もし街に戻りたいと思ったらわたしに相談してください。黙っていくのはナシですよ? いいですか? 忘れないでくださいね、約束してください」

 どこかの国にたどり着けば、きっと新たな苦しみと喜びが生まれる。その時にあの街での記憶に支えられるのか……苦しめられるのか。不安でもあり、楽しみでもある。

「心配はいらないと思うが、覚えておく」

「本当ですか? わたしこの荒野に置いていかれたら生き延びる自信ないですからね」

 自信がありそうに言う。それは俺も同じで、一人でこの荒野を抜けるイメージは持てていない。なにせ前回は死にかけた。一人よりも二人のほうが面倒なことや難しいことも多いはずなのに、一人よりも二人のほうが心強いというのは不思議に思える。

 再び前を向いて歩き出した。

「あっ! 流れ星! 見ましたか⁉」

「見えなかったが全然残念ではない」

「これは幸先がいいですよ!」

「星が落ちた……転落人生が始まった前兆か?」

「ちがいますよ、もー。そうですね……たとえば、恋に落ちる前兆とかはどうですか?」


 結局あの街に眠っている『力』とは一体なんだったのか、見ることも知ることも感じることもできなかった。それか、もしかしたらそれはあの街から離れて初めてその形を現してくるものなのか。

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パルカンナの夜 森坂つき @rurisame

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