第33話 生きるために走る
黒い何かが立ち上がった。
「対処法はいたって簡単なの」
黒い何かがこちらに向かって走り出した。
「逃げるのよ!」
三人一斉に駆け出した。目指すはこの街の外、赤土のガーレン荒野。そこに行けば俺たちは生き延びられるが、その前に黒い何かに捕捉されれば死ぬ。どちらも根拠はないが、この街で生きて養ってきた直感がそう告げてきて、だからこの街の外に出るしかない。
「ちょっと! 二人とも早すぎですっ! ここにか弱いレディーがいることを忘れないでください!」
早くもナヤーシャが遅れだして、ちょっと怒ってもいる。俺たちが早いのか、ナヤーシャが遅いのかはこの際どうでもいい。
「バッグを渡せ!」
ナヤーシャが来るのを待ってバッグを受け取る。黒い何かは速度を緩めていない、時間を稼ごうとボクダリの女がそれに矢を放ったが直撃した矢は黒に吸い込まれていくように消えた。また三人で駆け出す。ボクダリの女を先頭にナヤーシャ、俺と続く。いつの間にか失速しているかもしれないナヤーシャを最後尾にはしておけないだろう。
「くそっ! 荒野はまだか!」
もう少しだと思っていた荒野が遠い。黒い何かの迫ってくる速度は思ったよりも早くはない。しかし、ナヤーシャよりは早いかもしれない。そうだとしたら、早く荒野にたどり着けなければどこかで限界が来るという予感が浮かぶのは難しいことではない。それに人間は疲れるが、あの黒い何かはどうだろうか。
それなりに遠かった黒い何かとの距離は徐々に縮まってきているように感じる。かといってまだ焦る距離ではない。
「ハレルさん! わたしって体力あるように見えます⁉」
「全然見えない!」
「そうなんです! それをいま実感しています!」
疲れてきた、と一言で表せないものだろうか? そんな喋ることができるならまだ余裕がありそうだが、明らかに走りの形が崩れてきている。もともと長く歩いて疲れていたはずなので無理もないことではあるが……まだ荒野が見えていない。
「二人なら逃げ切れます、わたしのことは構わないで先に行ってください。二人は意外とお似合いだと思います、どうかお幸せに……」
「言っておくけど私はお姉様のもとに帰るしその男に興味はない!」
先頭を走るボクダリの女にはナヤーシャがふざけているように聞こえたかもしれないが、見るからに足の動きや腕の振りが鈍ってきていた。体力もそうだし、なかなか見えない出口に気持ちが切れてきているのか。
「ひゃ……っ⁉」
思わず尻を叩いた。
「わたしは馬じゃな——」
「倒れるまで走れ!」
勇気づける言葉や説得の言葉は出てこないで、出てきたのは優しくない指示だった。
「わたしはお嬢様だからそんな根性論なんて通用しま——ひゃあ⁉ ぜったいにお尻に触りたいだけですよね! もー」
だいぶ黒い何かが大きくなってきている。もしかしたら終わりは近いか。しかし、ナヤーシャの走る速度が少し上がった。もう無駄口は叩かない。黙って前方……とういうか地面を見て駆けていく。
それでもおそらく厳しいだろうが、その姿はこれまでのヒラヒラと舞うような彼女ではなくてもっと奥にあった姿に思えて、なんかそれを見られたのがなぜか嬉しかった。
すぐにまた減速するだろうと思っていたがナヤーシャは本当に倒れるまで走るという指示を守っていて、止まるようには見えない。
しかし皮肉なのは、いまだに林を抜けないこと。せっかく希望が見えてきたのに、それを嘲笑うように、またはただの現実なのか荒野に行けない。
ナヤーシャだけではなく俺も、そしてきっと先頭を行くボクダリの女も疲れている、とっくに。荷物を下ろせばまだマシにはなるだろうが、それをすればこの街を出る決意などなかったことになる気がして嫌だったし、だからこそ捨てたら逃げ切れないとも思えた。
「ひゃあ……っ⁉」
ついにナヤーシャが転倒した。
あまり上手く受け身をとれたようには見えなかったが怪我をしているかはわからない、一見していないように見える。しかし、起き上がれないのは明らか。ただでさえ限界だったところからさらに走って次の限界がきた。一度止まればもう走ることはおろか、しばらくは起き上がれないだろう。
呼吸が土を吸い上げるのではと思えるほどに荒くて意識があるかもわからない、朦朧としているようで会話は無理そうだ。
よく見ると涙が流れていて、それが流れ落ちた跡が頬にあるところを見ると転んでからではなく、涙を流しながら走っていたようだ。
「どうするの⁉ 黒いヤツに追いつかれてしまうわよ!」
「おまえは先を行け! 俺はここで戦う」
まさかナヤーシャを置いていけるはずもない、かといって諦めて彼女と共に終わりを待つわけにもいかない。
黒い何かに向けてナイフを投擲する。それは直撃するが、黒に呑み込まれて黒い何かにはなんら変化が起きない。それでも投げ続けるが打倒はもちろん足止めにすらならず、それはどんどん近づいてくる。
「あーもう! ほんと馬鹿だけど、私も戦うわよ!」
ボクダリの女は自分の愚かさを嘆きながら、起死回生にはならないと理解していながらも援護の矢を放つ。やはり足止めにはならない。
それでも二人で最後まで抗う、ナヤーシャもそうしたように。彼女の倒れている姿を見ていると、それが無駄ではないと感じるから。
黒い何かはもう避けられないところまで近づいてきている。殺されるのか、食べられるのか、取り込まれるのかはわからないが、何にしても死ぬだろう。最後まで抗う、握ったナイフで切り刻んでやる。
黒い何かは怒っているのか嬉しいのか、悲しいのか楽しいのか、言葉にならない声、叫びを発して猛進してくる。そして——
霧散した。
「……へ? え? どういうこと、どういうこと?」
状況を飲み込めていないようでボクダリの女は困惑の声を上げる。俺も状況を飲み込めていない。
黒い何かはあともう少しで俺たちに届くだろうところまで猛進してきて、まるで見えない強固な壁に激突したかのように霧散した。いや、強固な壁に激突をしても霧散はしないはずだし、ここに壁はない。しかし消滅した。
ここにきて、自分の心臓が騒がしく拍動していることに気づく。黒い何かが消えたところを見ていると、確かに消えたはずのそれがまた姿を現しそうに思えるが、もう姿を現しそうにはない。安心していいようだ。
「あ! あれ見て!」
ボクダリの女は何かに気づいたように前方を指さした。そこには立て看板がある。
「私たちのいるここってもうガーレン荒野なんだよ! だからかぁ……」
一見まだメルブートの林に思えるここはもうすでにガーレン荒野だった。確かに、あの黒い何かが霧散したのは——あの看板を境界線とするならば——そこだった。
「いやー、ドキドキして損したー。……いや、得したのかな?」
ボクダリの女はまるで夢から覚めたように、感慨深そう。
悪夢から覚めた時のとてつもない安堵感と、いきなり訪れた平穏へのどことない寂しさ。もしかしたらあの黒い何かは幻だったのかもしれないと少しずつ思えてきているのは、こうして辛うじて逃げ切り、生き延びたおかげだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます