第11話 違和感の正体

   

 私の視線は、マティアスの靴に向けられていました。泥がベットリついていて、少しみっともなく見えたのです。

 彼は苦笑いしながら、小さく肩をすくめました。

「フィッシング用のシューズだからね。汚れるのが前提だろう?」

「でも、その汚れ……。この辺りの土じゃないでしょう?」

「ほう、よく見ているな。観察眼の鋭い女性なんだね、キミは」

「観察眼だなんて、そんな……。ただ、あなたがドレスの汚れの件を持ち出したから、自然に目に入っただけですわ」

 先ほど「手で払えば簡単に落ちる」と言ったように、この近辺はサラサラした土質です。水辺だから湿り気を帯びることはあっても、それでもベッタリした泥にはなりません。


「うん、キミの言う通りだ。この汚れはルーセル湖でついたものじゃない。実は今朝、近くの山にきれいな川があると聞いて、見に行ってみたんだ」

「こちらへ来る前に、別の場所でも釣りをして来たのですか?」

 わざとらしく呆れたような口調で尋ねると、彼も大袈裟に手を振って否定しました。

「違う、違う。釣り道具は一切持たずに、ただ様子を見に行っただけだ」

「わかりますわ。釣り場の候補の下見みたいなものでしょう?」

 釣り人のさがとして、私も共感できる話です。

「ああ、うん。だけど無駄足だったね。思った以上に浅くて小さな川で……」

 マティアスが言っているのは、裏山の崖に流れている小川のことでした。

 私も訪れたことがありますが、浅過ぎて小魚も泳いでいないようなところです。ただ水辺でボーッとしているだけでも楽しいはずの私が「ここは何か違う」と感じたほどでした。

 地元の方々からあとで聞いたら、あれは子供が水遊びするための川。そこまで行く途中の山道で、泥だらけになって遊ぶ子供もいるそうです。

 そんな話を思い出して、私の顔には自然に笑みが浮かんだのですが……。


「あっ!」

 私は突然、小声で叫んでしまいました。驚きのあまり、せっかくの笑顔も消えたことでしょうね。

「どうした?」

 マティアスが不思議そうに、私の顔を覗き込んできました。よほど気になったようです。

 しかし、たとえ原因がこちらにあるにせよ、殿方に顔を近づけられるのは不愉快です。私は少し体を引きながら、逆に気分的には前のめりな口調で答えました。

「そう、それですわ! その汚れです!」

「何が……?」

 ますます彼は困惑の色を浮かべていますが、仕方のない話です。なにしろ私自身まだ閃いたばかりであり、他人に説明できるほど考えがまとまっていないのですから。

 とりあえず、頭の整理と確認が必要なので……。


「残念ながら私、急用が出来ましたの」

「えっ?」

 彼は驚いているようですが、もうマティアスの方を見ている余裕はありませんでした。

 私は慌てて、撤収準備に取り掛かります。せっかく竿に繋いだ道糸ラインや仕掛けなどを外して、エサも袋に戻すのです。

 いつもならば一日水辺で過ごしたあとに行う作業であり、充実感を覚えながらの帰り支度ですが、今日は違います。それでも手早く終わらせて立ち上り、振り返ると……。

 マティアスはまだ、ポカンとした表情で突っ立っていました。

「今日はこの釣り場、あなたにお譲りしますわ。どうぞ今日も、たくさん釣ってくださいまし!」

 そう言い捨てて、私は『天然椅子の岩』から足早に立ち去りました。

 釣り場は別に私の所有物ではないのですから、それを譲るだなんて、ちょっと傲慢な言い方です。普通ならば自己嫌悪を覚えそうですが、マティアスも同じようなことを言っていましたからね。そのお返しと思えば、それほど気にならないのでした。


――――――――――――


 家に帰った私は、書庫に直行しました。

 元の屋敷とは異なり小さな一軒家ですが、それでも部屋はいくつもあります。そのうちの一室に、様々な書物が置かれているのでした。

 そうした部屋を用意すること自体、お母様の見栄の一つなのでしょうね。しかもお母様は近隣地域もルーセル男爵の所領の一部という気分ですから、領地のことはよく知っておくべきと考えたらしく、この辺りの郷土史みたいなものも取り揃えていました。

 そうしたお母様の性分を今まで恥ずかしく思ってきましたが、今回は珍しく、それが幸いしたようです。


 この地方について色々と書かれた本は、私も以前に目を通したことがあります。釣りが出来る場所の情報も得られるのではないか、という期待からでした。

 とはいえ、釣りに関係なさそうな話も、頭の片隅には残ったようです。その辺りの記憶を確認する意味で、改めてページを開いてみると……。

「あったわ! やっぱり、あの山には……」

 そこに書かれている記述を見ながら、私は笑顔で叫んでしまいました。

 一つの謎が解けたからです!


――――――――――――


 翌日。

 今日も天気の良い一日ですが、私はルーセル湖ではなく『青空市場』を訪れました。

 ただし、目的は買い物ではありません。

「おじさん、こんにちは」

 乾物屋のテントに向かうと、まずは御主人に挨拶して、店の中を見回しました。運の良いことに、今日は奥様の姿も見えます。

「いらっしゃい、ルーセルのお嬢様」

 と御主人が挨拶を返す横で、奥様も一緒に椅子から立ち上がり、こちらに会釈してきました。

 状況的には、二人仲良く並んで座って店番していたようですが、二人の表情には少し翳りが感じられます。どうやら、まだ御主人が奥様の浮気を疑っており、それで少しギクシャクしているのでしょう。

 私は大袈裟なくらいの笑顔を浮かべながら、スタスタと奥様の方へ歩み寄り、彼女の足元に手を伸ばしました。

「お嬢様、いったい何を……?」

 彼女の困惑は無視して、その靴を指差します。

「まだ残っていましたわね、その汚れ。それ、裏山の崖へかよって出来た汚れでしょう?」


 以前に道端で彼女とすれ違った直後、彼女が入っていったと思われる雑木林。裏山の崖へ行くのであれば途中の通り道になりますが、一昨日ここで乾物屋の御主人と話をした際には、まさか奥様が裏山へ向かったとは思っていませんでした。彼女がそこへ行く理由や目的が想像できなかったからです。

 しかし昨日、マティアスが同じ裏山へ行ったという話を聞いて、しかも彼の靴の泥汚れを見て、ようやく思い出したのです。彼女の靴にも、同じ汚れがついていたことを。

 それこそが「何か忘れているような」という違和感の正体でした。


「裏山の崖……? それって、小川のある山のことですよね?」

 乾物屋のご主人は、私に対して聞き返すような言葉を口にしてから、奥様の顔を覗き込みました。

「そんなところで、お前、いったい何をしてたんだ? あそこは子供の遊び場だろう?」

「……」

 彼は不思議そうに尋ねますが、彼女は少し困ったような表情で、黙ったままです。

 奥様としては、隠しておきたいのでしょうね。しかし、そのせいで「浮気しているのではないか」と疑われるくらいならば、正直に話してしまった方が良いはず。

 お節介なのは承知の上で、私が代わりに答えることにしました。

「奥様は若布草わかぬのそうを手に入れようとしたのですよ。この辺りでは、あの裏山の崖にしか生えていない植物です」

若布草わかぬのそう……?」

 乾物屋の御主人は知らないようです。

 まあ彼は庶民ですからね。魔力そのものは有していても魔法を発動できないのが庶民なので、魔法関連の知識にも疎いのでしょう。

「ええ、若布草わかぬのそうです。特殊なポーション、つまり魔法薬の材料となる植物です。奥様は……」

 それまで御主人に説明していた私は、ここで奥様の方へ、ニンマリとした笑顔を向けました。

「……御主人のために、毛生え薬が欲しかったのですよね」

   

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スローライフで謎を解け、釣り好き悪役令嬢! 烏川 ハル @haru_karasugawa

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