第10話 今日も出会ったあの男

   

 市場で買い物をした翌日。

 部屋の窓から空を見上げれば、澄み切った青色が広がっていました。

 まだ湖の水は少し濁っているかもしれませんが、昨日も一昨日も釣りに出かけていませんから「今日は是非!」という気分です。

 昼食のあと、私はルーセル湖へ向かいました。


――――――――――――


 しばらく街道を歩き、森を抜けると、いつものようにルーセル湖に到着します。

「良かった! 一昨日の雨の影響は、もうほとんど消えているわ」

 水辺で立ち止まった私は、湖水の香りを感じながら、そんな独り言を口にしていました。

 晴天が続いている時と比べれば、湖の水量が少し増えたり、水の透明度が若干悪くなったりしていますが、心配していたほどではありません。この程度ならば、しっかり七耀マスセブンライト・トラウトも釣れるに違いない、と思えたのです。

 大きく深呼吸して、いつものように心と体をリフレッシュ。湖岸をさらに歩いていくと……。


 お気に入りの釣りスポット『天然椅子の岩』には、今日も誰もいませんでした。

「よし!」

 小声で一言だけ呟いてから、低木の茂みの間をソーッと、湖岸まで歩み寄ります。

 湖面を眺めるだけで自然と笑顔が浮かび、その表情のまま、私は釣りの準備を始めました。

 竿の先端に道糸ラインを結び付けて、ウキや重り、ハリスなどの仕掛けもセットします。

 今日のエサは、昨日『青空市場』で購入した小魚の乾物です。完全に乾いた状態だと割れやすくて、針に刺さらなかったり、刺さっても簡単に外れてしまったりするので、あらかじめ水で少し戻してあります。

 適度な大きさに裂いた乾物を針に刺し、竿を振ろうとしたタイミングで……。

 ガサゴソという物音が、後ろから聞こえてきました。

「まさか……」

 強烈な既視感を覚えて振り向けば、茂みをかき分けて現れたのは、銀髪紫眼のイケメン男性。

 三日前にも同じこの場所で出くわした、あのマティアスでした。


 整った目鼻立ちに似つかわしく、今日も爽やかな笑顔を浮かべています。格好も前の時と同じで、濃緑色のフィッシング・ベストを白いシャツの上から着込み、ルアー・フィッシング用の魔法竿を手にしていました。

「こんにちは、お嬢さん」

 挨拶のセリフまで全く同じ!

 私が少し顔をしかめると、彼は慌てて言い直します。

「いや、もうお互い名乗ったんだから『お嬢さん』では失礼か。『サビーナ嬢』とお呼びすべきだったかな?」

「『お嬢さん』でも『サビーナ嬢』でもお好きにどうぞ、マティアスさん」

 彼の言い方に少し慇懃無礼なニュアンスを感じて、自然と突き放すような口調になりました。

 近隣の住民は私を「お嬢様」とか「ルーセルのお嬢様」とか呼びますし、男爵貴族に対する庶民の態度としては、それが一般的でしょう。

 でもマティアスには、その辺りの感覚が欠けているようです。あるいは、あくまでも釣り場で出会った釣り人同士として、身分や立場抜きに対等な関係を築こうというのでしょうか。

「わかった。ではそうさせてもらうよ、お嬢さん。『サビーナ嬢』では、少々堅苦しいからね。僕のことも『マティアス』で構わないから」


「では、マティアス。見ての通り私は、ちょうど今から釣りを始めるところでしたの。まさかあなた、私の隣で一緒に釣りする気ではないでしょう?」

 手竿でエサ釣りする横でルアー・フィッシングなんてされたら大迷惑ですし、それはマティアスも理解しているはず。前回も私の存在に気づいたら、すぐに立ち去ってくれましたからね。

 だから私は、間接的に「別の場所へ行ってください」と告げたつもりなのですが……。

「ああ、大丈夫。ここがいているなら使わせてもらおうと思ったけど、キミがいるなら話は別だ。今日はキミに譲るよ」

「今日は……?」

 うっかり聞き返してしまった私も悪いのでしょうか。口では「譲る」と言っておきながら、マティアスは立ち去ろうとせず、何やら語り始めました。

「うん、僕は昨日もここに来たからね。適度に水が濁っていて、よく釣れたよ」


 どうやら彼は、釣果の報告をしたかったようです。私も釣り人としてその気持ちは理解できますし、少し話に乗ってあげましょう。

「マティアスはルアーですから、主なターゲットは暗黒ダークバスですよね? でしたら、雨の翌日は好条件だったんでしょうね」

「ほう、よくわかってるじゃないか」

 口元にニヤリと笑みを浮かべて、彼は続けます。

「ただし数は釣れたけど、サイズは30センチか40センチくらいばかり。この間キミと一緒に釣った大物には及ばなかった」

「あら、私は最後に少し手伝ったに過ぎませんわ。あれはマティアスが釣った暗黒ダークバスですよ」

 と返したところで、大事なことを思い出しました。

「そういえば、お礼がまだでしたね。あの暗黒ダークバス、美味しくいただきましたわ。ごちそうさまでした」

「それは良かった。暗黒ダークバスは食用に適さないという話もあるから、少し気になっていたんだが……」

「確かに独特の臭みがありますけど、調理の仕方次第で消せますからね。うちでは妹のシルヴィが、上手に料理してくれますのよ」

 妹自慢のつもりはありませんが、自然に誇らしげな表情や口調になってしまいます。

 一方、そんな私の言葉を聞いて、マティアスは不思議そうな顔をしていました。

「妹さんが料理を……? 男爵家なのに、使用人ではなく妹さんが……?」


 なんて失礼な発言でしょう!

 確かにルーセル男爵家は、召使いも雇えないような貧乏貴族です。さらにお母様のおかしな方針のせいで、シルヴィが使用人の真似事をさせられています。

 しかし、それらは我が家のプライベートな事情です。庶民であるマティアスが男爵貴族の問題に口を出そうだなんて、失礼にもほどがあります。

 いくらマティアスがイケメンとはいえ、それは外見の話に過ぎないのに、身分まで高くなったつもりなのかしら……?


 私が気を悪くしたのは顔に出ていたらしく、彼も察したみたいです。

「ああ、これは失敬。今の言葉は忘れてくれ。それより……」

 と、慌てて話題を変えようとするのですが、

「……あの暗黒ダークバスの件では、僕の方こそ感謝している。キミが手伝ってくれなければ、釣り上げるのは無理で……」

 なぜかマティアスは、中途半端なところで言葉を切ってしまいました。意味ありげな視線をこちらに向けてきます。

 視姦といったら少し大袈裟ですが、ジロジロ眺める感じでした。もしも彼のようなイケメンでなければ、さぞや気持ち悪かったに違いありません。

「どうしました?」

「いや、ふと気になったんだ。ドレスは大丈夫だったのかな、って。ほら、最後に尻餅をついただろう?」


 三日前と同じく、今日も私はワインレッドのカジュアル・ドレスを着ています。マティアスが前回「汚れたら困りそうな服装」と言っていたのを、今さらのように思い出しました。

 しかも彼の大きな暗黒ダークバスをすくい上げる際、確かに私は勢い余って、尻餅をついてしまいました。

 なるほど、あれでドレスが汚れたのではないか、とマティアスは心配してくれたのですね。

「大丈夫ですわ。多少の土汚れ程度、手で払えば簡単に落ちますから。それより……」

 パンパンと叩くような仕草をやってみせながら、私はフフフと笑いました。

「……あなたの方こそ、汚れていますわね」

   

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