第9話 浮気の疑い
「女房の様子が、どうもおかしいんです。コソコソした態度が多いし、俺に黙って出かけることもあるし……」
「まあ、奥様が?」
いきなり話の腰を折るのも何ですが、驚きのあまり、聞き返してしまいました。
看板娘と呼ぶには少し
若くてきれいな奥様と一緒になったという扱いで、御主人は結婚当時、市場の同業者たちから、かなり
私たちが今の家に越してくるよりもだいぶ昔の話ですが、私の耳に入ってきたように、今でも噂話になるくらいです。よほどの大騒ぎだったのでしょうね。
多少の年齢差はあっても、私から見た二人は、とても仲睦まじい夫婦でした。奥様が御主人と一緒に乾物を売っている姿を、何度も目にしています。
確かに、今日は不在のようですが……。
「ほら、俺はこの通りの中年親父ですからね。もしかすると若いツバメでも出来たんじゃないか、って心配になって……」
彼は自嘲気味に、
その分だけ老けて見えるから、余計に「若い奥さんをもらった」という揶揄の対象になったのでしょうね。今頃になって彼自身が、見かけの――実際以上の――
とはいえ、若いツバメ云々を言い出すのは、さすがに奥様に失礼ではないでしょうか。
この文脈における『ツバメ』がペットの小鳥でないことくらい、私にも理解できています。そもそもツバメは、軒先や外壁などに自分で巣を作るので、鳥籠で飼うペットには不向きな鳥です。
だから御主人が言っているのは、本物のツバメではなく、若い愛人という意味の隠語のはず。
つまり彼は、奥様の不貞行為を疑っているのです!
「たまたまなのか、あるいは関係あるのか。ちょうど、もうすぐ結婚記念日なんですよ。だから女房に何かプレゼントしたくて、あいつの様子をじっくり観察し始めたら『あれ? おかしいぞ?』って気になり始めて……」
何が欲しいか直接尋ねるのではなく、それを知るために相手を観察しようだなんて、なんだか可愛らしい話ですね。
微笑ましく思ってしまう私とは対照的に、御主人の表情は、話を続けるうちにドンドン暗くなっていきました。
「でも、あの奥様が浮気だなんて……。おじさんの気のせいではないですか?」
御主人とも奥様とも、私は個人的なお付き合いはありません。ここで買い物の際に言葉を交わす程度です。しかも御主人がいつもお店にいるのに対して、奥様はいたりいなかったり。御主人より馴染みも薄いのですが……。
それでも私が見る限り、彼女が他人を――ましてや自分の夫を――裏切るような人間には思えないのでした。
「いや、さっきも言ったように、なんだか隠し事が多くなってきたんです。例えば
私にとっての一昨日は、外見だけは良いマティアスという男に振り回された一日です。ルーセル湖での釣りを邪魔されたり、彼が
色々と思うところはありますが、それらは内心に隠したまま、乾物屋の御主人に微笑みかけました。
「一昨日でしたら、天気の良い一日でしたね。ふらりと散歩に出かけたくなる陽気でしたし、奥様もそういう気分だったのではないですか?」
「でも
御主人は悲しそうに、首を横に振ります。
「だいたい一週間に二、三回の頻度で、同じようにいなくなるんで……。こうなると、もうどこかへ
「どうかしら。まだ決めつけるのは早いような……」
と口にしたところで、ふと思い出しました。私も数日前に一度、乾物屋の奥様と道端ですれ違っていることに。
私のハッとした顔に気づいて、御主人が首を傾げます。
「どうしましたか、お嬢様?」
「ええ、そういえば先日、私も奥様を見かけましたわ」。
――――――――――――
いつものように、ルーセル湖へ向かう途中でした。
雑木林と畑に挟まれた田舎道を歩いていたら、遠くから歩いてくる彼女の姿が見えたのです。
「こんにちは、ルーセルのお嬢様」
「ごきげんよう、乾物屋さん」
お互い十分に近づいたところで挨拶を口にして、軽く会釈しましたが、ただそれだけでした。
彼女の服装は、いつもお店で見かけるのと同じ。何か用事があってお使いに出ているのだろう、くらいに考えて、特に印象には残りませんでしたが……。
今にして思えば、乾物屋の奥様とすれ違った直後、後ろでガサゴソと音がしたような気がします。狭い木々の間を分け
彼女は雑木林の中へ入っていったのではないでしょうか……?
――――――――――――
「あいつが雑木林の中に……?」
私が包み隠さず話すと、御主人は不思議そうな顔をしました。あんなところで彼女が何をしていたのか、彼にも心当たりはないみたいです。
しかし、物は考えようです。少なくともこの一件を根拠にするならば、御主人の疑いを否定する方向に持っていけるでしょう。
なにしろ、あの辺りにも雑木林を抜けた先にも、住宅街は存在しないのですから。あの時の彼女は浮気相手の元へ
「おじさんにも理由がわからないなら、きっと森林浴か何かだったのでしょうね」
軽く笑いながら、一つの可能性を口にしてみました。
「森林浴ですか……。そんな趣味、あいつにあったかなあ?」
「あら、森林浴じゃなくて日光浴と言うべきだったかしら。それに趣味なんて大袈裟な言い方しなくても、自然の緑の中で過ごすのは、誰でも気持ちが良いものでしょう?」
「まあルーセルのお嬢様がそう言うのであれば、そうかもしれませんね」
乾物屋の御主人も、いつも私がルーセル湖で釣りを楽しんでいるのは知っています。だから説得力があったのかもしれません。
一応は納得したような態度を示してくれるのでした。
とはいえ、実は自分でも「それは少しおかしい」と感じていました。
問題の雑木林には、心地よい遊歩道なんて存在しません。あの時聞こえたように、ガサゴソと音を立てながら分け
雑木林を抜ければ裏山の崖に通じる道があり、崖の際には小川も流れているのですが、そこまで行くのは大変です。それこそ、私の行きつけであるルーセル湖へ行く方が遥かに簡単であり、気持ちよく過ごせるはずです。
御主人には敢えて告げませんでしたが、考えれば考えるほど、妙な違和感が湧いてきました。
しかも何か大事なことを忘れているような気もするのに、それが何なのかハッキリせず……。
買い物を済ませた私は、笑顔で乾物屋を
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