第8話 雨の日と曇りの日
赤や黄色の花が咲き乱れる野原を、私は歩いていました。
辺り一面、素敵な香りが充満しています。どんな香水やアロマキャンドルでも
うっとりと夢見心地な気分でいたら、後ろから、パカパカと蹄の音が聞こえてきました。
振り返る私の視界に入ったのは、毛並みの良い馬が駆けてくる様子。純白の美しい背中には、若い男の人が乗っています。
いわゆる『白馬の王子様』でしょうか。
近づくにつれて明らかになる彼の姿は、サラサラした銀髪と、キラキラ輝く紫の瞳。馬を駆っているのに、なぜか手綱ではなく、ルアー・フィッシングで使う魔法竿を手にしており……。
「また会ったね、お嬢さん。今日はどうだい、釣れてるのかな?」
テノール・ボイスで話しかけてきた彼は、昨日ルーセル湖で出会ったあの男、マティアスだったのです!
――――――――――――
……というところで、目が覚めました。
「嫌だわ、まったく! どうしてマティアスが出てくるのかしら?」
あんな男の夢を見てしまうなんて、まさに悪夢です。朝の目覚めとしては、最悪の気分でした。
まるで私の気分に合わせたかのように、なぜか部屋は薄暗い状態です。悪夢で夜中に飛び起きた、というわけではなく、既に朝のはずですが……。
ベッドから出て窓に歩み寄り、カーテンを開けると、空は分厚い黒雲に覆われていました。全く朝日は見えません。
「こういう日は、なんだか憂鬱になるわ……」
おそらく私は、眠りながらにして今日の悪天候を察して、気が滅入ったからこそ、嫌なやつを夢に登場させたのではないでしょうか。
一般的に、若い女性の夢に出てくる殿方は、恋慕の対象である場合が多いと聞きます。でも私にとってのマティアスは、そのような想いからは程遠い存在ですからね。
自分なりの解釈に納得しながら、私は身支度を整えて、朝食へ向かうのでした。
――――――――――――
「おはようございます、お母様」
私がダイニングルームへ入っていくと、既にお母様もシルヴィも席に着いていました。
シルヴィが座っているのですから、メイドとしての仕事は終わっているという状態です。ソーセージや卵、パンケーキなど、いつもの朝食メニューがテーブルの上に並べられていました。
「おはよう、サビーナ」
「おはようございます、サビーナ姉様」
二人の挨拶を聞きながら私も座り、三人揃ったということで、朝の食事が始まりました。
「昨日のディナーは立派な魚料理でしたが……」
そう言い出したお母様は、ソーセージを咀嚼して飲み込んだばかりです。朝食用のありきたりなソーセージとは違う、釣り立てホヤホヤの
「……今夜は、あれは食べられないでしょうね」
お母様の言葉に、シルヴィがビクッとしました。私と同じく、料理の味を比較された、と受け取ったようです。
この朝食は美味しくない、と叱責された気分なのでしょう。でも昨日、あの大きな
それよりも、私の方こそ、少し責められている気持ちになりました。そもそも昨日の
だから余計に「あなただけでは釣ることの出来ない、二度と手に入らない魚なのですね?」と言われたように感じてしまうのでした。
しかし、私たち姉妹の受け取り方は、どちらも被害妄想だったようです。お母様の視線は、窓の方に向けられていました。
「この天候では、さすがのサビーナも、今日は釣りに行かないのでしょう?」
言われるまで気づきませんでしたが、改めて私も外に意識を向けてみると……。
いつの間にか、シトシトと雨が降っているのでした。
「もちろんですわ、お母様。今日は家でおとなしくしています」
内心とは裏腹に、私は笑顔で答えました。
悪夢を見て目覚めるわ、気分転換の釣りにも行けないわで、今日は踏んだり蹴ったりの一日になりそうです。
――――――――――――
翌日。
雨こそ降っていないものの、依然として、灰色の雲が空を覆っていました。
外出する分には困らないでしょうが、釣り日和ではなさそうです。昨日の雨の影響で、湖の水は濁っていることでしょう。その方が釣りやすい、という魚もいるはずですが、私が一番釣りたいのは、
とはいえ、二日も続けて家の中に籠るのは耐えられません。
午後になって、私は市場に出かけました。家から歩いて1時間程度のところにある、通称『青空市場』です。
きちんとした店舗を構えているのは、八百屋や魚屋など数軒しかありません。しかし、周りにたくさんの露店が集まっており、この地域で最大規模の市場を形成してます。だから近隣の住民は皆、日用雑貨や食料品などをこの『青空市場』で買うのでした。
我が家も当然、この市場のお世話になっており、シルヴィが買い物を担当しています。彼女は擬似的な使用人ですから、これも彼女の役割となっているのです。
私としては、せめて買い物くらいは手伝ってあげたいと思うのですが……。お母様が承諾してくれるはずはありません。今日のように「私が市場へ行きます」と言って認めてもらええるのは、あくまでも「私個人の買い物があるので、そのついでに」という口実がある時だけなのでした。
――――――――――――
「おじさん、こんにちは」
気軽に挨拶しながら私が立ち寄ったのは、いつも八百屋の北側にテントを出している乾物屋です。山菜やキノコ、水産物などの
酒のつまみになったり、料理の具材になったり、
でも私にとって重要なのは、乾物が釣りエサとして使えること。干してしまえば見た目も変わるからわかりにくいでしょうが、そもそも水産物ならば、成分自体は魚肉です。
それに生魚と違って保存が効くので、その意味でも、乾物は釣りエサに適しているのです。
だから、この乾物屋は私にとって顔馴染みであり、店の方でも私を常連客と認識しているようでした。
「やあ。いらっしゃい、ルーセルのお嬢様」
店先の丸椅子に座り込んだまま、乾物屋の御主人が挨拶を返します。
その様子に、私は少しだけ違和感を覚えました。
店番の意味で椅子に座っていることは多いのですが、お客様が来ればスッと立ち上がるのが、いつもの彼だったはず。「いらっしゃい」の声も、今日は元気がないように聞こえますし、そう思ってよく見れば、表情にも翳りがあるように感じられます。
お節介かもしれませんが、放っておけない気持ちになりました。
「どうしました?」
「いやいや、たいしたことありませんよ。貴族のお嬢様に、気にかけていただくほどでは……」
苦笑いしながら、ようやく御主人は椅子から立ち上がりました。肉体的に足腰が悪い、という様子でもなさそうです。
「体は大丈夫のようですね。では、何か心配事でも……?」
「ハハハ……。そう追求されると、困りますね」
確かに、あまりしつこく問いただすのは迷惑かもしれません。でも、もう一歩だけ踏み込んでみました。これを最後にしよう、と思って。
「どうせ私では、話を聞くくらいしか出来ませんが……。でも心配事がある時って、誰かに聞いてもらうだけでも、気分がラクになるでしょう?」
「お嬢様が、そこまでおっしゃるのであれば……。そうですね、お嬢様だって女性だ。こういう話は、俺なんかより、お嬢様の方がわかるかもしれません」
意を決したような顔で、乾物屋の御主人は再び座り込みます。
内緒話になるのだろうと思って私が少し近寄ると、彼は声を潜めて、話し始めました。
「聞いてください。実は最近……」
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