第7話 彼の名はマティアス

   

「手伝ってくれたお礼だ。この魚、もらってくれないか?」

「えっ……」

 彼の言葉に、私は間抜けな声を返してしまいました。

 ルアー・フィッシングの殿方は、キャッチ・アンド・リリースが基本のはず。魚の感触と釣り上げたという事実だけで満足して、その場で放流するのです。

「もともと僕は持ち帰るつもりはなかった。いつもならば、すぐに水の中に戻してやるのだが……」

 魚の口に手を掛けながら――暗黒ダーク持ちをしながら――、私に話し続けます。

「……今回は、僕一人ではない。キミと一緒に釣り上げた形だからね。僕の独断で逃すわけにはいかないだろう?」

 端正な顔立ちに似合う、爽やかな笑顔。普通の女性ならば、そこに心が惹かれることでしょう。

 でも私は、違う点が気になっていました。彼の『キミと一緒に釣り上げた形』という発言です。

 釣り人の認識としては、あくまでも釣ったのは彼。たも網を差し出しただけの私は、わずかに手伝っただけ。一割にも満たない、数%の貢献度であり、『釣った』うちには入りません。

 それなのに彼は……。どうやら、この人、普通の釣り人とは――ルアー・フィッシングをする殿方とは――感覚が少し違うようです。

 私の方にも一応、釣り人としてのプライドがあるので、他人が釣った魚をもらう、というのは気が進まないのですが……。一緒に釣った、という形になるのであれば……。

「仕方ないですね。では、ありがたくいただきましょう。殿方からのプレゼントを理由もなくお断りするのは、失礼に当たりますから」

 私の愛想笑い――ただし100%ではなく本心も少しだけ混じった微笑み――に対して、

「ハハハ……。『殿方からのプレゼント』とは、大袈裟だなあ」

 彼のそれは、心からの笑顔のように見えました。


 こうして私のものとなった、63センチの暗黒ダークバス。それを魚籠びくに入れて湖にひたしていると、

「それじゃ、僕は立ち去るよ。邪魔して悪かったね」

 という彼の言葉が、背後から聞こえてきました。

 振り向いた私の顔には、一体どのような表情が浮かんでいたのでしょう? 「立ち去る」と言ったくせに、彼は言葉を続けました。

「用事があって、しばらく僕は、この近くに滞在している。何も楽しみがないところで、退屈するかと思ったのだが……」

 彼が地元住民でないのは、最初からわかっていました。近隣を歩いていても、市場で買い物をしていても、見かけたことのない顔ですから。

 それに、もしもこのようなイケメンが住んでいたら、若い女性の間で噂になって、私の耳にも届いていたはずです。

「……素敵な湖があって良かったよ。思いがけない幸運だ。僕もかよってしまいそうだな、この湖に!」

「まあ!」

 ならば、また今日のようなことがあるのでしょうか? 私の大切な釣り場を荒らされるのは、もう勘弁です!

「また来るよ、お嬢さん」

 彼は私に背中を向けて、歩き始めたのですが……。

 私の視界から消える前に、もう一度だけ振り返りました。言い残したことがあった、という雰囲気で。

「そういえば、名乗っていなかったな。僕はマティアスだ。よろしく」

「私はサビーナですわ。サビーナ・ルーセル。ルーセル男爵家の後継あとつぎですのよ」

「ルーセル男爵家……? そうか、それでルーセル湖か。なるほど」

 ニヤリと笑って。

 銀髪紫眼の男は、今度こそ、私の前から立ち去るのでした。


――――――――――――


 一人残された私は、ようやく自分の釣りを始めます。

 既に仕掛けまでは竿にセットしていましたから、釣り針にエサをつけるところからです。


 私は特に対象魚を決めておらず、何が釣れても嬉しいというタイプの釣り人なのですが……。もしも七耀マスセブンライト・トラウトを釣りたいのであれば、最適のエサは、ピンチョロ虫やクロカワ虫などの川虫、蜂みたいな蛾の幼虫であるブドウ虫、土を掘れば出てくるミミズあたりでしょうか。

 最も採取が簡単なのはミミズであり、午前中に庭を探してみたのですが、残念ながら釣りエサとして使えるほどの量は見つかりませんでした。だから後日もう少し増えてから使うつもりで、そのまま土に戻しました。


 今日のエサとして用意してきたのは、ソーセージの切れ端やパンのかけら。食材の余り物です。

 私が毎日のように釣りに出かけるのは、妹のシルヴィも承知していますからね。あらかじめ言っておかなくても、調理の際に出てくる屑を捨てずに残しておいてくれます。

 実際には『調理の際に出てくる屑』だけではありません。食べ残しの分もありました。

 本来、私たちルーセル男爵家の生活はカツカツであり、食費も切り詰めるべきなのですが……。我が家の食事は基本的に、三人では食べきれないほどの量がテーブルに並ぶのです。

 でも、シルヴィの料理の仕方が大雑把というわけではありません。これもお母様のせいなのです。

「少しくらいは食べ残すのが貴族のマナー。出された料理を全て食べてしまうのは、がっついているように見えて体裁悪いですからね」

 というのが、見栄っ張りなお母様の考えであり、私もシルヴィも、無理してお母様に合わせているのでした。


 こうして、捨てるしかない余り物が毎日必ず出てしまうので、私が釣りエサとして利用しているのです。

 例えば今日の場合、ソーセージとパンだけでなく、野菜くずも一応持参してきました。そちらも魚が食べてくれるからです。

 基本的には、ソーセージやパンと比べたら食いが悪いので、あまり効果的な釣りエサではないようです。ただし天候や水温など、条件次第で魚が好むエサも変わり得るので、色々と用意しておくに越したことはありません。

 なお野菜くずには、釣りエサそのものとして使う以外にも、効果的な用途がありました。庭に埋めて、ミミズのエサにするのです。

 釣り人の中には、私のようにその都度ミミズを掘り出すのではなく、普段から飼育箱で育てる人もいるそうです。その際、野菜くずをミミズに与える、という話です。だから私も、庭のミミズに食べてもらっているのでした。

 釣りエサのためのエサなので間接的ではありますが、このように野菜クズは、私の釣りに大きく貢献しているわけです。


――――――――――――


 マティアスと名乗った、銀髪紫眼の男。

 たった一回のキャストでしたが、彼のルアーだけでなく、釣られた暗黒ダークバスも暴れたので、ここの釣り場は酷く荒らされてしまいました。陵辱された、といっても過言ではないレベルです。

 だから。

 エサを投げ入れても、ウキはピクリとも動きません。しばらくの間、全く魚は釣れないでしょう。

「でも夕方まで、たんまり時間はあるわ。そのうち、魚も戻ってくるはず……」

 そう自分に言い聞かせながら、岩に腰を下ろしました。私がこのポイントを『天然椅子の岩』と名付けた由来であり、家具屋で購入する椅子に匹敵するくらい、快適な座り心地の岩です。

「まあ、いいでしょう。これも釣りの楽しみの一つだもの」

 頬がニンマリするのが、自分でもわかりました。

 清々しい空気を吸って、美しい湖面を前にして、鮮やかな緑に囲まれながら、のんびりと釣り糸を垂らす。

 最高の幸せです!

 結局のところ私は、ただ水辺でボーッとしているだけでも楽しい、というタイプの釣り人なのですね。


 そうやって、頭も心もリフレッシュさせて、からっぽにしてしまうと……。

 自然に、先ほどの出来事が思い浮かんできました。

「あのマティアスという男……。いったい誰だったのかしら?」

 魚が寄ってくるのをゆったりと待つ間、自問自答してみます。

「彼のルアー・フィッシング、『擬態ミミック』の魔法は使ってなかったみたいね。だったら庶民なのかしら?」

 でも貴族の中にも魔法が苦手な者はいますし、苦手ではなくても敢えて釣りには使わない、という者も多いでしょう。例えば私なんて、魔法どころか魔力すら使うのを避けて、こうして手竿を用いているくらいです。

「それに、庶民にしてはイケメン過ぎるわ。むしろ高貴な顔立ち……」

 とはいえ、庶民の中にも、顔の造作ぞうさくが良い者はいるはず。そういう判断の仕方は失礼に当たるでしょう。

「……ダメね。やめておきましょう」

 考えても答えは出ない問題です。

 頭の中からマティアスのことを追い出したくて、ブンブンと首を横に振りました。

 この湖で他の釣り人に出会ったのは、彼が初めてではありません。だからといって、いちいち「今の人、誰だろう?」などと気にしたことはありませんでした。

 マティアスについて考え続けるのは、私らしくないことです。自分らしくないことは何であれ、しない方がいいでしょう。

 だから私は、美しい湖面とそこに浮かぶ私のウキに、意識を向け直すのでした。

   

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る