第6話 黒々として大きくて

   

「くっ!」

 銀髪紫眼の男は、必死に糸を巻いています。

「あなた、あまり無理をすると……」

「わかってる! 僕が何年この竿と付き合ってきたと思うんだ?」

「あら、失礼」

 おとなしく私が引き下がったタイミングで、ちょうど彼は糸を緩めました。


――――――――――――


 例えば、手竿によるウキ釣りの場合。

 魚がエサを口にしたらグッと引いて、針掛かりフッキングさせる必要があります。これを『アワセ』といいますが、そうして針がしっかり魚の口に刺さった後、強引に引き続けることは推奨されていません。

 小さな魚ならば強引に引き上げて構わないのですが、大きな魚だったら、釣り糸を切られてしまうのです。釣り人と魚とで、反対向きに引っ張り合うわけですからね。糸にかかる負担は、相当なものになります。それに耐えられずに糸が切れたり、場合によっては魚の口が切れて、針が外れることになるのです。

 だから大物が掛かった場合は、少し泳がせて弱らせる。あるいはそこまでしないにしても、相手が思いっきり引っ張ってはいないタイミングを見計らって、こちらが引く。相手が強く引いている時は、無理に引っ張らない。そうした工夫が必要になるのです。


 基本的には、魔法竿を使った釣りでも同じですが……。

 魔法竿の場合、さらに厄介な点が出てきます。

 手竿と違って、道糸ラインそのものが相当に長いからです。下手に泳がせたら、魚が動き回れる範囲も大きくなるわけです。水中の岩や流木の間に入り込まれたりしたら、糸が引っ掛かったり、岩の角などでこすり切られたりして、それでおしまいです。だからそうならないよう、ある程度加減しながら『泳がせる』のが重要になってきます。

 また、タイミングを見計らって糸を引いたり、逆に緩めたりというのも、手竿より難しいはず。長い道糸ラインを伸ばしたり縮めたりするのは、全て魔力で操作するのですから。

 魚が逃げようとして思いっきり引っ張り出したら、糸を長くする方向で魔力を注入。逆に、魚が疲れて、こちらが強く引いても大丈夫そうな時には、糸を短くするように魔力操作する。つまり、糸を巻く。

 これが、魚がヒットした後に必要な駆け引きであり……。

 必要であると同時に、釣り人にとっては、大きな楽しみにもなるのでした。


――――――――――――


 私が黙って見守る中。

「よし、いい子だ。そのまま、おとなしくしていてくれよ……」

 聞こえるはずもない水中の魚に呼びかけながら、彼は魚との戦いを続けていました。

 糸を出したり引いたり頑張って、少しずつ魚を岸に引き寄せています。

 5分や10分では済まないような時間が過ぎた頃、ようやく魚の姿が見えてきました。

「大きい……」

 思わず私が呟いてしまうほどのサイズです。まだ水面から顔を覗かせた程度なので詳しくはわかりませんが、おそらく50センチオーバーの暗黒ダークバス。黒々としているだけでなく、丸々と太っているようです。

「これは……。厳しいかもしれないな」

 先ほどまで幸せそうに魚とのやり取りを楽しんでいたのに、突然、彼の口調が変わりました。表情にも険しさが混じっています。

 大物が釣れた――もなく釣り上がりそうだ――というのに、なぜでしょう?

 一瞬、不思議に思いましたが、すぐに気が付きました。

「あなた、たも網は? 持ってきてないのですか?」

「普段は使わないからね。いつものサイズならば暗黒ダーク持ちで十分なのだが、これほどの大きさとなると……」

 暗黒ダーク持ちとは、ルアー・フィッシングの方々がよくやる魚の持ち方です。暗黒ダークバスの口にグイッと親指を突っ込んで、残りの指とで、下顎を挟み込むようにして持つのです。

 釣り上げた魚を持つ時だけでなく、岸まで寄せた魚を水中から引き上げる時にも使われます。主に暗黒ダークバスに対して用いられる持ち方なので『暗黒ダーク持ち』と呼ばれています。でも暗黒ダークバスに限らず大抵のルアー対象魚は、上顎にしか凶暴な歯がついていないので、暗黒ダークバス以外も同じ持ち方をする人が多いようです。

 だから彼も、たも網を持ち歩いていなかったのでしょうが……。


――――――――――――


 たも網。

 言わずと知れた、釣り人の必須アイテムの一つです。

 虫や小魚をすくって遊ぶような網とは異なり、網の目は細かくありません。その代わり、丈夫に作られています。釣り上げた魚を、最後に水からすくい上げるためのものですからね。

 たも網を使うにせよ、暗黒ダーク持ちをするにせよ。

 なぜ水中から釣り糸で直接引っ張り上げるのではなく、そうした補助が必要なのか。もしかしたら釣りに興味のない方々は知らないかもしれないので、一応説明しておきましょう。


 水の中を泳いでいる間、魚には浮力が働いています。だから魚の重さは半減しています。ところが、水中から出た途端、魚重100%になります。水面を境にして世界が一変、重力そのものが変わったかのように、一気に重くなるのです。

 ……というのが、私の理解している理屈です。

 まあ理屈はどうあれ、ある程度以上の大きさの魚が釣れた時、何も使わずに強引に引き抜くと困るのは確かです。水から出る瞬間、糸が切れたり、魚の口が切れて針が外れたり、ということが起こり得ますから。これを防ぐために、たも網なり、暗黒ダーク持ちなりが必要になってくるわけです。


――――――――――――


「私の出番ですわ!」

 彼に叫んで、私は自分の荷物の中から、たも網を取り出しました。

 私の愛用のたも網は、渓流釣りでよく用いられるタイプ。が短くて携帯に便利なのは利点ですが、その分、届く距離は短くなります。

 だから私は、水際まで駆けていきました。

「手伝ってくれるのかい?」

「もちろんですわ!」

 背中へ投げかけられた声に、反射的に答えてから……。

 自分でも「何が『もちろん』なのだろう?」と思ってしまい、わざわざ振り向いて、言い直しました。

「勘違いしないでくださいね。あなたのためではなく、その魚のためですわ。早く引き上げて針を外してあげないと、可哀想ですから!」


「わかった! 僕が岸まで引き寄せるから、最後のところは任せた!」

 もしかしたら拒絶されるかもしれない。「たも網はルアー・フィッシングには邪道!」とか「一人で最後まで釣り上げないと意味がない! 僕の楽しみを奪うな!」とか言われるかもしれない。そういう考えも頭に浮かびましたが、予想に反して彼は、素直に受け入れてくれました。

 私は大きく頷いて、たも網をスーッと水の中へ。

 まだまだ距離がありますが、右に左に走りながら、魚は少しずつ近づいてきます。

 魚が左右に逃げようとする度に、私も網を動かして……。

 最後の瞬間。

「行くぞ!」

 一声叫んで、彼は大きくグッと、糸を巻きました。

 見事、魚は網枠の輪の中へ!

「よし!」

「入りましたわ!」

 まるで自分のことのように、私の口からも喜びの声が出ていました。


「立派ですわ……。黒々として、大きくて……」

 思わず見とれてしまうような、美しい暗黒ダークバス。ズッシリと重く、すくい上げた私が、尻餅をついてしまったくらいです。

「協力感謝するよ。ありがとう」

 握手でしょうか、あるいは、私を助け起こそうというのでしょうか。差し伸べてきた手を私が掴むと、グッと引き起こしてくれました。

「こちらこそ、ありがとうですわ」

 と返す私に向かって微笑んでから、彼は改めて、魚に目を向けます。

「こんなに大きな暗黒ダークバス、初めてかもしれない」

 その言葉で、私はハッとしました。慌てて、荷物の中から巻尺メジャーを取り出しました。

「準備がいいな」

「釣り人の必需品ですわ」

 おそらく彼は持ってきていないのでしょう。ささやかな優越感を持ちながら、彼の代わりに、魚に巻尺メジャーをあてがいました。

 いっそう彼は近寄ってきて、私の肩越しに、巻尺メジャーの数字を覗き込み……。

「63センチか。いちいち測らないから『おそらく』だけど……。これが僕の最大サイズレコードだろうね」

 湖面で姿を見せた時に私が思ったサイズは、50センチオーバーだったはず。でも釣り上げてみたら、さらに大物の暗黒ダークバスだったのです!

   

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