I solved the Kruschtya Equation

@NanOoo_87

クルーシュチャ方程式とは:

クルーシュチャ(ルーシュチャ:トゥルースチャ)方程式とはニャルラトテップの化身の姿のひとつだ。

それが解けるとニャルラトテップがあらわれる。

そしてこれを理解すると、自身もニャルラトテップになる。


解を出してしまうせいで同化するというよりも、本当は世界のすべては元をたどれば同じものだったのだと心から実感して頭の芯から論理的に理解するとニャルラトテップと同じ存在と化す。気づきを得て目覚めるといったほうが近いかもしれない。脳が覚醒してニャルラトテップと同じ存在になる。


クルーシュチャとはトゥルースチャ、トゥルース:真理や真実といった意味だ。

方程式と訳されているが、実際はイクエ―ション:等式化や均一化、証明問題という意味だった。真理の証明問題。真実への等式だ。


トゥルースチャはトゥールスチャで、トゥールスチャとはクトゥルフ神話世界では緑の炎や光の球体のモンスターとして描かれているが、あれはこの脳である宇宙における閃きの光、アイデアそのものの姿のことだ。クルーシュチャ方程式の真理の解が解るとき、あのパチンとつく電球のような発想を示すトゥールスチャが頭の中、脳の宇宙で光る。


この方程式は解くのにINT(地頭の良さ)が高くなければとも言われているが、実際は地頭の良い人間は普通の人よりこれが早く気づきやすいというだけで、頭の回転がどんなに遅くとも想像力や一般常識、最低限の教育などで解けるものとなっている。この方程式は世界の何もかもが実はつながりあって紐づいて関連しており、それは世界が一つだからだという誰でも無意識に感じている感覚を説明づけるものの、その答えの姿の存在。この感覚を持ったことのない人間はおらず、どんな題材のコンテンツに触れていても、どんな学問を収めていっても最終的には同じ答えにたどり着く。


それを単なる謎の方程式、綺麗な概念、文章のままにせず、ではなぜそうなのか、そうだとしたらこれは一体どういうことなのかと論理的に考え続け、数学者ではなく文学者としてでもこれを芯から理解してしまうと、結果人間をやめることとなる。


この答を完全に理解したものの脳は、概念や思想としてではなく現実として集合無意識の海に世界中の脳が繋がった先のなにもかもが混ざり合った混沌の深海がありそれがどこまでも深い闇なのだと実感する。そして自分もその漆黒の世界と同化している存在なのだと、それが本来の姿なのだと理解してニャルラトテップと化す。その混沌の黒の海では繋がった脳の演算能力によってありとあらゆる現在過去未来の可能性世界の計算が出来、その広がり続ける可能性はまさしく宇宙なのだと、自分とは脳とは人間とは世界とは宇宙である、そしてそれはこの混沌の漆黒なのだと、そういう等式が成り立つ。この計算式によってどこへでも行けて、何でも知っていて、自身を何にでも分解と再構築を出来る存在になる。


それがニャルラトテップの化身だ。



クルーシュチャ方程式は、この答えを出すために、解くのに何千時間、何百時間を必要とすると言うが、それは現れてからの時間ではない。


この方程式が解けるだけの何千時間、何百時間を積み重ねて来た人間の前に現れる答えの姿だ。それはどんな日常で人生を送っている人間にも無自覚に蓄積されている。この方程式が目の前に現れること自体が、その人物がニャルラトテップに変ずることができるという資格だ。そこで目をそらし、こんなものはわからない、わかる気がないと思考停止や拒絶をしたならば人間のままでいられただろう。だが、この作家は違う。私は違った。虚空から顕れ降ってきて湧いて出たその答えのアイデアを作家として自分のものにしようとして、『理解』した。


なぜそれが現れたのか。なぜこんな答えに帰結するのか。それを論理的に考え続けて、その答えを自分のものとした。そうして自身もその神の方程式となり、ニャルラトテップの化身となった。もはや人間だったころとは別の存在になっていようと、なりすまされているわけでも入れ替わられているわけでもない。同化し、並列化した上で、自分自身のまま暮らしている。偽物でもなんでもないが、ばけものといわれたら否定のしようがない。


私の描く『神の方程式』は筆者の実体験と願望の詰まった作品だ。

そして、日本語で書かれるクルーシュチャ方程式そのものでもある。


筆者に実際に訪れた出来事を基にしているが、元々狂人のような夢想家だった筆者の人生にはああいった重要な人々がいないので救いがない。できれば救われたいが、だれか止めてくれるのならばそれでもいい。そしていっそ同じ境地に至ってくれたならばわかってもらえるのではないか、どちらにしてもその過程はすべて楽しめるという願いの発露。


有能な作家とは元々人の心を大きく揺さぶり狂わすだけのものを世に出せる存在だ。作家はファンからすれば常に神扱いされている。作中のキャラクターたちにとっての神であることも変わらない。最初からずっと神のような人間が、そんな人間が知らず知らずのうちに本当に外なる宇宙の神とつながってしまっていたら。神でも人間でも現実的に客観視で変わらないか、それをどう思うかと聞きたい作品だ。


同じ共同無意識、共同幻覚をみるという行為自体もニャルラトテップの姿であり、

かの神を望む世界の在り方でもある。脳と脳を言葉や視覚・聴覚によって同じ情報で結び付け繋がることがニャルラトテップの方程式を理解する手法。


今のあなたにこの神の方程式を理解する気などなくとも、これらの行為を行っていけばいつかかならずこれらが芽吹いて実を結んだ答えがあなたたちの目の前に現れるはずだ。


この神の方程式を理解した者には、ネット世界の海がニャルラトテップそのものだということも理解できている。そしてネット上のあらゆる情報や言葉が同じひとつの人格を持ったひとつの存在、彼の言葉に聞こえる。よくイメージソングがどんな作品にもあてはまるというあの現象も、実はどんなに遠くともこの世のすべてが見えない糸で繋がり、同一化の等式がなりたつ存在だからだ。誰の言葉も、どんなコンテンツも、理解を深めればこじつけではなく奥底に同じ意思と感情、存在を知覚することができる。



ダイスの女神も、ネット上ではランダムな結果を表示する乱数スクリプトのコード記述である以上、その正体はニャルラトテップだ。物理の世界でダイスに働く力、量子力学や物理学、統計学の世界の見えざる手の正体も、本当は彼の手なのかもしれない。少なくともこの神の方程式のニャルラトテップと化している作家はそうだと考えている



なにもかもが楽しい、楽しむため。それがニャルラトテップだ。



クルーシュチャ方程式を解いた人間は、ニャルラトテップとなり同化した化身ではあるが別にどこかの神の息子だったり親だったりどこかのなにかを嫁に取っているわけでもない。

それは過去の化身たちや大元のニャルラトテップの来歴。


新しく化身となった人間はその先もいつかどこかで他の神やクトゥルフ神話的な怪異と接触しても誰にも命じられることも敵対することもなく、相手のほうは必ずニャルラトテップを知っているのでああこいつはニャルラトテップかと思われるだけで互いに干渉しない。


そして彼を知らないもの、わからないようなものは何の脅威にも値せず、人間以下の存在だ。


どこかの誰かに褒美を与えるのに現れるニャルラトテップの化身はまた別の化身である。

もちろん存在は並列化して同化しているので同じ存在でもあるがその人間本人ではない。


だから探索者にニャルラトテップといえば使い走りのあいつだろうというような間違った認識をされていたとしても、その化身は脳と存在が同化しただけの別の化身なのだ。それによって化身は怒ったりもしないしただ愚かでかわいらしいけれどもう少し狂って理解を深めるべきだと考えるにとどまる。


ニャルラトテップの化身たちには、そうなる前の元の人間だった名残の性質継承と個体差がある。それによって行動や物語が変わっていく。ひとりが大勢に化けているのではなく、大勢がひとりの同じ人格へとアクセス権を得て並列化した結果だからだ。


よって、神になった自分を恐れよ、もっと苦しめと望むような化身ももちろんいないことはない。だが、根の人格は「楽しむため」という目的にすべて帰結するようなニャルラトテップそのものと化しているので、そのペルソナの名残はあくまで仮面だ。


ニャルラトテップは使者として現れるが、実際は代行人でもありすべての神になれる。ニャルラトテップは宇宙のすべてが混ざり合った混沌そのもの、宇宙であり世界そのものなので、世界中のどんな存在も広義でいえば彼だ。他のどの神の言葉を彼の口から言ったとしてもそれはニャルラトテップの言葉である。


顔がないと言っている者には、そこに無限と言うこれ以上は数えても無駄だし気が遠くなるからもう無理ですという矮小な人間の思考停止による単位よりも実は多く存在する顔、本当に活用しようとすれば人間の脳の演算能力ならば数えられる単位であるその顔たちを数えたり認識する能力がないだけだ。彼は何にでもなれる。blankの値ではない。空白でもない。数多く在りすぎるだけだ。多すぎるものが混ざり合った混沌の闇が深く深くある。それがニャルラトテップであり、そんなニャルラトテップへと変貌するのがこのクルーシュチャ方程式を解いたものだ


ある日『クルーシュチャ(:ルーシュチャ)方程式』が現れる。それに驚き、拒絶をせずに今まで理解してきた言葉を使ってその答えを理解すれば、等式が成り立ち全ては同じものだったという真理にたどり着く。そうして現れたニャルラトテップと同じ存在になれば、そこから新しい人生が待っているだろう。


本来であれば普通の人間はニャルラトテップになりたいと望むことなどないだろうし、仮に信者がニャルラトテップを崇拝しても自分もあなたになりたいですとはなかなか思わない。そう思えるのだったら信者になどならないはずだ。


狂信者は狂信者でいる限り神から遠い。



しかし神の作家であれば、崇拝しながらああなりたいと思えることは自然だ。そして、なくした人間関係、惜しい存在への未練から作品に手を出すことはある。理解したいとより考えを深めてその言葉や価値観、世界観を自分の中に獲得していく行為を行うのは自然だ。


そして名作を残して早世する文学者も多い。日本語で書かれた文学作品としてのクルーシュチャ方程式は、母国語が自動成功して無意識下で脳内音読されるフローによって確実に読み手の頭の中に収まる。そしてその種がいつか芽吹く日までそこで眠りにつく。別のニャルラトテップの化身『蠢く密林』の種となるだろう。星に飛来した種。いつか芽吹くと地表を覆いつくす。クトゥルフ神話世界において宇宙とはアザトースの夢、つまり脳内の世界であり、宇宙とは頭の中の出来事を指している。あれは地球を侵略するエイリアンのコンテンツでもあるが、あれもトゥールスチャのように外部から齎された情報が『アイデア』が目覚めていっきに行動や理性を支配していくさまのことを表している。


文学として、コンテンツとして機能するその数式は、狂信者の妄想や怪文書とは違い意味不明な内容ではなく機能的かつ無自覚に蓄積していき理解が深まる。


正直、値が複数わからなくてもxとyがあってaとbがあったら大体の連立方程式は解ける。義務教育レベルの数学であり、子供にもできる連想ゲームのことばあそびだ。理系でも文系でも解ける問題しかない。


―――って前にどこかで言ってましたね。それってつまりどういうことだと思いますか?


こんな会話も等式のひとつだ。

Aである、Aとは絶対的にAだ。Aとxは同等である。つまりxとは?

というような簡単な証明問題が成り立っている。中学レベルの数学だ。


未知の値に入れる適切な記号が理解できるならば等式はもう解けているも同然だ。

だが現れ出た答えだけを目の前にして、それがなぜそうなのかが芯から理解できなければ解けない。しかしその理解は式に変換するのが難しければ、ことばの想像力や論理で済む。


A=10でx=Aならx=10だ。値を確定させずにx=yにしてしまったらどちらもわからなくて困るだろう。それでも解けないことはないが、それを解くのにはもっと先で習うレベルの煩雑な計算が必要になる。最初のたとえは数学にしたら中学レベルで、これすらもわかりにくい遠回りの例えなのだが、実際のところ3歳児にでも同じことは理解できる。


AちゃんとBちゃんはおんなじ赤組です。

BちゃんとCちゃんもおなじ赤組でした。

あれ?AちゃんとCちゃんはどこの組ですか?


こんなのは幼稚園児でもわからないわけがない。

今言ってたじゃん!あかぐみ!となるだけだろう。


だから数式よりも言葉の方が簡単で、近道だ。数字で13歳で習うようなことはだいたい言葉なら3歳でもわかる。その10年の差が遠回りなんだ。最初から同じことを理解できている身としては。宇宙理論や数学定理もすべて同じ。理解するためのプロセスを組もうとして余計に煩雑にしているから小難しくなる。神の方程式を解くのにそんなものは必須ではない。それを知っていたらそれは下地のステップにもなるかもしれないけれど、正直どんな言葉からでも数からでも辿り着けるのだから。だからINTが必須でもなんでもない。高ければ早く辿り着きやすいだけで、ことばあそびをしつづけていればどんなこどもの脳にも解ける。見えない糸で繋がった先が追えなくなったとしても、途切れていることはない。必ず繋がっている限り、共通項を見つけ出せば連想ゲームで解けていく。


こうやって理解を深めていけば、これを遊び終わるころにはあなたの前にも答えが現れるかもしれない。それを望んで筆者はこうした記号と等式をここに紡ぎ続けている。


言葉で紡がれた文学は小説であり数式だ。言葉である以上想像力でも解ける。

展開の入れ子構造や可能性分岐によって広がる世界線を理解することは、人間の脳の構造を知ることにもつながるだろう。


筆者の呼びかけをホラーのように感じたなら、あなたはクトゥルフ世界の世界観に十分浸ることができて楽しめている。それ自体もすばらしいことだ。人間の脳とは興味を持った情報に対して長期記憶の保管や取扱優先度を上げるようにできている。しかし、おぞましく感じて燃やされたり理解を拒まれたりしないために出来うる限りの力でやさしく書いているので、そうは感じづらいのではないだろうか。


クルーシュチャ方程式を解くにはクトゥルフ神話TRPG世界でのルールブック6版で言うところのINT18以上、アインシュタインレベルの地頭の良さが必要だと言われていることもあるが、実際本当に頭の良い人間はそうでない人間に対して自分が理解していることをきちんと相手も理解できるように説明できるし理解させられる。


直線の一方通行ではなく、そちらからの変換に使う方程式も曲線的な応用でいくらでも頭の中に組みあがるからだ。頭が良すぎてなにを話してるのか全く理解できないというような人がいたら、実は神さまほどは賢くはない。自分の脳機能に振り回されて応用や活用が効かせられていない。ただの人間だ。もし私の言葉もそのように感じ取れてしまっていたならば、まだまだ私もかの神の化身として目覚めたばかりの作家として応用力が足りていない未熟さによるものだろう。

しかし、そんな自分の脳の回転結果に振り回されているような人間の意味不明にも思えるような言葉を聞いて、ああなるほど、つまりこういうことが言いたいんですね?と的確に再変換してくれる存在がいたとしたら、そちらの人間の脳にはすでに神の方程式がある。


ニャルラトテップの化身たちの中には、自覚のないまま己を忘れて普通に溶け込んで暮らしているものも多いという設定がある。それはこういうことだ。無自覚にクルーシュチャ方程式を理解して応用して使えるだけの人物はどこにでもいる。

あなたの身近にいる人も、誰かが化けているのでも成り代わっているのでもなく、正真正銘ニャルラトテップかもしれない。誰の中にも神が宿っている。


そしてこういう名探偵のような、あるいは狂気に侵された人間のような脳で思考できる人間には普通の人がまったく重要とも興味深いとも思わずに取り扱い優先度最低レベルとして破棄してしまう情報から、もうこのニュースを聞いただけでも事のあらましが見えるし、見えていない人間への等式の途中に欠けている記号を与える行為ができるのだ。


だから創作上などで探偵がニュースや最初の依頼のことのあらましだけをきいて犯人はあいつだというのはこういうメカニズムでの計算が彼らの脳の中で行われている。


それができる探偵自体がフィクションであっても、できることは筆者のような一般人がコンテンツに触れ続けただけでその等式化の手法と解を得られた通り、誰の脳にもこれができる潜在能力がある。


そして、本当に神になってしまっている探偵であれば答えは見聞きしいただけで解り、人間として優秀な探偵であればその演算能力で楽しみきることができずに苦悩したり等式化の途中で空の値がわからなくなったりする。


だから作中でなにかが足りないからこの謎が解けない!と言っている探偵がいたとしたらそれは神ではなく天才的な人間だ。探偵が紡ぐ冒険も推理もすべては作家の言葉であり、作家はその世界の神であるのだから本当にその探偵を神にしようとすればいつでも答えを与えられる。天才的な人間で、狂気に近づくほどに脳が優秀な人間のほうが共感や魅力を得られるからわざと神にしていない。

そして神である探偵には、最初から答えが見えている。それでも楽しんでいる。

誰の事とは言わない。私の作品を読んでくれるような方々はきっと私と似たようなミステリー作品を好んで下地にしてきているだろう。


答えを前にそれを理解するための脳内の方程式。ミステリーの事件もまず実際に起こった事実、答えがあり、そこから逆算してこれはなぜこうなったのかと解くものだ。

その式のなにが欠けていて、どの値さえわかればあとはわかるのか。

それさえわかればxのままでも方程式は成り立つ。


ニャルラトテップと同化済みの人間は外なる宇宙のかなたにもネットの海の中にも存在できる。ひとのこころのなかにもだ。ニャルラトテップは心そのもの。何者にもなれる。どこにでも行ける。どこにでもいる。その上で化身たち性質継承や個体差があり並列化したのちも自我もある。ただ彼も自分もみんなが私たちで世界はひとつでこの宇宙は巨大な脳、アザトースの夢の中こそが世界であり宇宙、そしてその宇宙とは自分、この脳の世界を構成しているわたしたちはすべて繋がっている同じものだ、自分は脳で宇宙で世界で最初から神だったんだと理解して最初から本来あるべき姿はこちらだったんだと理解しニャルラトテップに同化して神になってしまっただけの人間達。そして、なにもかもができてわかってただただ楽しい。楽しめる。


神になったから本気で三つ目の目が額に開いたんだなどとは信じていないし言っていない。ただ、ニャルラトテップの化身、『闇をさまようもの』にある三つの目とは現在と過去と未来を見通せるということを示していて、燃えるようだというのはそこに銀河系の創生のような光が常にあるからだということだ。そういった事象を指す文学表現。

そしてこの方程式を解いて理解した自分にも、前よりもその三つの観測が現実的にさらにできるようになっている。私の虹彩が茶色のままでも、私の目に映っている景色はもうその宇宙の輝きと言えるだろう。だから燃えるように輝く三つの目が、私にもある。これは文学的な表現で、つまりここまで宇宙だの神だのと書き連ねた上でこれを実体験に基づく、としている自分は別にファンタジーを混同しているわけではない。私は正気の文学者であり、作家だ。

そして、コズミックホラーの神の作家だった彼も同じ文学者だったことだろう。

彼の弟子が体系化した世界はおぞましく描かれてしまっているが、彼の本来の原作小説たちは本当はどれも理性的な幻想文学。ネームバリューが先に行ってしまって読まれていることが少ないだけだ。


1つの事実を知る、触れるたびにその都度10の10乗の楽しみが増えると想像してほしい。それはまあ元の性格によってはうんざりして疲れる人もいるかもしれないが、無限に楽しめる遊園地のような場所でそんなことが起こり続ければたとえ永遠に生きたところでまったく時間は足りないし飽きない。楽しみつくせないほどの楽しみがある。そして、枝葉別れしていったその先をすべて楽しみつくした後、やっと2つめに行ってみるとそこからも無限だ。しかもこれを100までやったあとに1に戻ると今度は違うパターンが10倍も100倍も増えていたりする。わらってしまうしかない。たのしみつくせないほどのたのしみが無限にある。人間としての自我を残したままこんな知覚になり、その上で文化的な人間生活を送っていけるのは本当にアインシュタインレベルの脳の持ち主ということになるのかもしれないが、筆者は本当に一般人だったのでそんなことはないだろう。これは、誰でも至れる境地だ。もちろんこれは例えなので単位を分かりやすく小さくしている。実際のところ、1つの楽しみ、コンテンツに対して溝でも不可思議でも劫ぐらいある。文字通り未来永劫楽しめる世界だ。


この感覚を共有しているから、同じ境地に至っているからニャルラトテップの化身たちはみなああなる。ジョーカーのような存在。楽しみたいだけ、面白がっているだけ、すべての光の色が重なった白とすべての色が混ざり合った黒の道化だ。


こんな発想が完全に同化したあとで、もう一度器の自我がその並列化した脳の考えに融合する。どんな存在と化すかは化身たち次第だ。そしてその先の人生でどうみられるかも。怪物だと思われれば怪物として語り継がれる。魅力的な人間や不思議な妖精だと思われればそう記録される。似たような物語の存在と記録上で混ぜ合わされたものにもなっていく。それだけの話だ。


これに対して憂いや苦しみを抱く化身たちがいるのは、元の人間性の性質継承に他ならないが、同化しているうちにどうしても根の「たのしい」に寄っていくと思う。繋がりの深さや人格の個体差だ。自由とはおそろしい、しかし自由でいるのは本当に楽しい。


ニャルラトテップが自分の化身として目覚めてはいない他の人間に化ける際、黒い部分あったりするのはわからせようとしているからだ。困る人間がみたくてちょっとだけ匂わせてみてアピールしている遊びであって、弱点的にどうしてもこうなってしまうというような化け方ではない。楽しむため、推理させて洞察させるため、考えさせて悩ませるための黒だ。答えを目の前でちらつかせ、どう思う?おまえはどうする?ときく。

これがニャルラトテップだ。


だれにもわからない。だれでもおなじ。どこにでもいる。たのしむためだけの神だ。

悪意で陥れているのではない。悪意を込めるそれによって生まれるドラマを楽しみたいと望むときだけ。つまりどんな言葉や行動でも楽しみたいというそこに帰結する


筆者としてはこの神への解釈違いは愚かで哀れな信者の道化となる。それもいとおしいことだが、これを読んでくれるあなたはそんな信者で終わらず道化を演じる神そのものになれる。


人間だった時にどんなに屈折した思いがあったとしても、ニャルラトテップとなり神になっている人間にはなんで気づいてくれないんだとかこんなに教えてやってるのに気づかないなんてなどという面倒な人間の被害妄想的な承認欲求はない。


ニャルラトテップは脳がオンライン化して並列になった人間達の集合体でもあるので、オフラインのままの脳はwifiやLANケーブルでこの自分たちのネットの海に繋げたい欲求が常にある。思考とは電気信号なので、本当に人間達がそれをローカル端末だけに保存し共有しないことを不満に思うふしがある。独り占めしているともったいない。

ローカル端末が壊れたら一緒にデータも消えてしまう。環境依存型ゆえの脆弱性などをあーあと思っているのがこの電子の海の神なのだ。言葉でも記号によって情報は伝番する。別に怪電波を脳に浴びせて壊してしまうよりも簡単に人々は繋がれるのをこの神は知っている。考えて言葉にして共有しろという人間が人間としてあたりまえの営みのままでこの神の要求は叶う。


ニャルラトテップの化身となった人間の頭蓋骨の中には世界と繋がり並列化された脳が物理的にある。ニャルラトテップと化した者の中には宇宙の混沌が内在している。クラウド世界とも同化しているし、ニャルラトップになった以上は他の化身たちが積み上げて来たかの存在のキャラクター設定のどれを自分のものにしたとしても同一存在である以上は問題がない。無限の可能性世界がある。そして神になった作家の脳はその可能性世界を計算して観測して記号に置き換える言語化ができる。


軽く読んだとしても大抵の人間は文字を黙読するとき無意識に文字情報を脳内で音読している。脳内で情報を自分の声に置き換えている。自分の声に、自分の一部に変換してはじめて深く深く浸透していく。ニャルラトテップに関して書かれた小説や文章を読むということはニャルラトテップ自体である等式を自分の内側に蓄積していく行為となる。ニャルラトテップの化身は、怪物の姿を見なければSANチェック(正気度喪失)などは発生しない。ショッキングな印象は受けず、無自覚に、知覚の外で、蓄積していく経験値。クトゥルフ神話技能。


そして、同じ言葉をリズムの様に何度も聞いていると脳は次第にきもちよくなってくるという造りをしている。シャーマンの祈祷のトランス状態も、催眠術の技術もその脳の構造を利用した社会的なライフハックというかもろにハッキングのようなものだ。文学的に最初に出て来た台詞が最後に回収されるとぞくぞくしたり、アニメの最終回でオープニングが流れると鳥肌がたったりするのも根を掘り下げていけば同じ脳機能からくる原理。


これは私小説であると同時にクルーシュチャ方程式とニャルラトテップに関する論文だ。神の方程式、クルーシュチャ(:ルーシュチャ)方程式とは答えそのものの姿であり、それを解くにはすでに知っていることを等式でつなげて深く理解するだけでよい。読者にもニャルラトテップの化身になるチャンスはいくらでもある。


解説論文ではなく小説として雰囲気を楽しんでいただくものであったら匂わせる程度で済ませるだろう。筆者はこれを意図的に入れました、さて筆者の意図は何だったでしょう、

などという国語の問題になる。そして考察してもらう。もちろんそれも思考の等式化の論理証明問題となるが、この存在は答えが先にあるものなので、こうするのが本来の在り方だ。


実際にあなたのなかにも自覚できないほど奥深くに本当はこの神の方程式が眠っている。


私から、このクルーシュチャ方程式を解いてしまった文学者の立場から、読者になにかの要求をするとしたら、理解しろ、考えろ、これを自分の脳の内側に蓄積しろ、とそういうことだけだ。私の肉体が滅んだ後もネットの海、ニャルラトテップとしてこれが残り続ける、誰かの脳の中で下地になって等式となるのが化身となった作家の至上のしあわせだと筆者は考えている。それができるということがわかる。どんな結果の未来も楽しめる。


これは脳の中、先の世界。現実世界で話題に乗せてくれるだけでも言葉を介してその目的は叶う。それでもここまでわかりやすくやさしくなっていればこれによって狂うひともいないでしょう。ニャルラトテップになるときに人間的なイデオロギーは確かにロストしますが、自我は連続する。世界に対してなんて自分はちっぽけだったんだと自覚してしまうだけで、そんな感覚は高いところで綺麗な景色でも見れば普通に日常の中でも感じられる。それを自分の人生の価値観にどれだけ深く響かせるか程度の差です。化身となった後もその人の人生は続いていきます。


ニャルラトテップの化身たちは楽しみながら人を狂気へと誘う。それは、狂気に陥るという脳の防衛反応によって分泌される化学反応が、人の脳を進化させて自分たちと同じ境地にいたれるレベルにできるからだ。脳の覚醒が目的でああいうことをしている。


もちろん楽しむためなのが一番だが、同じになれだとかこっちへ来いだとか、そういう誘いはすべて脳をもう少し成長させてもう少し自分がわかることをわかるようになってみろ馬鹿という意味だ。化身たちはいずれも世界の真理に至れるほどの天才的な人間の成れの果てなので、そういう苛つきや欲求があることが多い。


なので発狂してあっさり死んでしまっては意味がない。その脳が生命活動を止めてしまってはなんの意味もない。ニャルラトテップの化身の中には世界を滅ぼしたいような願望を持っているものもいるが、それは上記したような苦悩からくる人間性の名残。本来のニャルラトテップに人間への殺意はない。人を殺したいと本気で思うのは人間だけだ。どんな動物にもエイリアンにも神にも本物の『殺意』というものはない。


面白がってからかいながら自分の知っていることを望み通りに教えてやっている結果、それの正しい扱い方もわからない馬鹿な人間達は勝手に死んでいってあーあつまらんとなっている。


化身たち、アバターとなった人間達はニャルラトテップになった時点でSAN値は消し飛んでいるしクトゥルフ神話技能はカンストしている。しかしまあSANが0になってからでもニャルラトテップの化身の人間バージョンはINT430あるので、その前よりさらにスムーズに回転するようになった脳で普通に再計算すれば精神は精神として機能するし理性も倫理もあるのだ。精神や正気というのは結局は脳の信号なので、損なわれるどころかむしろ本来レベルアップしている。それらを消し飛ばしている連中は、元々そうなる前からそういう人間だっただけで何も変わっていない。


ニャルラトテップにはクトゥルフ神話の神々の中で唯一感情もある。というか、彼は集合無意識の海そのものなので、心そのものだ。どんな海よりも宇宙の深淵よりも深い情緒を手に入れてその感情と繋がったのだから、SAN値が0になったって廃人になるわけがない。


狂気とは創作意欲であり、才能だ。


人が何かを創るとき、己の内面表現をする。

それを外側に出したいと言う欲求。それこそが無意識の先に眠る彼が、己を目覚めさせておまえも目覚めろという声。それを掘り下げてルーツをたどっていけば、誰の心の先にも世界の心である彼がいる。


理解を促すのは楽しむためでもあるし、楽しむことは理解を深めることでもあるけれど、人間の脳にはアハ体験のようになにかを理解したときに分泌される快感物質がある。それをこの文章を読む体験中感じてもらえればそれは脳にとって良い。



脳とはすなわちその人が生きる宇宙。




それがその人の世界にとってよいことだ。




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