タイトルは、必要ですか?
サトウ・レン
タイトルは、必要ですか?
数学の授業が特に嫌いだったあたしとは違って、彼女はいつも数学の授業だけは熱心だった。覇気のない声でぼそぼそとしゃべる教師の気弱な声は、右から左へと、あたしの人生にそもそも存在しなかったかのように通り過ぎて、消えていく。あたしのその頃の一番の関心事と言えば、隣の席の女の子のことで、彼女こそあたしの世界のすべてだったというのは言い過ぎだけど、あたしの世界の半分だった時期が確かにあったのだ。低い男性の声は雑音でしかない。この教室に男性はその声の主である数学教師しかいなくて、あたしたちの世界の邪魔者だった。早くこの授業、終わらないかな、とあたしは数字の話を聞くよりも、彼女の顔を横目で見ながらスケッチすることに夢中だった。幼い頃、漫画家になりたいと思ったことがあるくらい、絵にはすこし自信があった。美術部の友人から部の勧誘を受けたこともあったけど、趣味程度に気軽に描いてみるほうが、自分には合っていた。
同じものを見ながら、ひとりだけ違うものを感じ取っている。
彼女はそんなひとだった。
「あれ、それ、もしかして私の似顔絵?」
上本先生の授業中に、こっちなんて見ることもないだろう、と気を抜いていたあたしのほうを急に向いてそう言った彼女の声と言葉に驚き、慌てて隠そうとしたけど遅かった。その授業の後、休み時間に彼女に、見せて欲しい、と言われて、彼女の頼みをあたしが断れるはずなんてなかった。おそるおそる差し出したその大学ノートを開いた彼女が笑って、
「うまいね。似てる。鏡で見る私の顔にそっくりだ」
と言った。
「怒ってない?」
不安そうな表情をしているだろうあたしの顔を見て、彼女が不思議そうに首を傾げた。
「なんで?」
「だって勝手に絵なんて描いて……」
「別に。嬉しいよ。有名人になった気分だよ」彼女は校内での自身の認知度を自覚していないみたいに、そんな風に言う。「それとも怒って欲しい?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「これって私なんだよね。じゃあ罰として、私、にタイトルを付けてよ」
彼女は、私の絵に、とは言わず、私、と言った。私、にタイトルを付けて、と。
あたしは何も答えられなかった。
彼女とは中学の頃から仲が良い。特別な相手だ。そう思っているのはきっとあたしのほうだけで、彼女はたくさんいる友達のひとりくらいにしか思っていないだろう。
彼女はあたしの前から姿を消す三日前のことだ。卒業を控える高校三年の冬、窓越しに小雪の舞う寒い時期だった。それから彼女とは会わないまま、あたしは卒業して、東京の私大に入学し、いまは都会の大学生という実感もないまま、ひとりひっそりと暮らしている。
※
「今日、人生辞めてきた。だから、私、死体」
再会はいつも唐突にやってくる。そのほうがある意味、彼女らしいのかもしれない。独特な言葉のテンポは変わらず、久し振りに会った彼女はマイペースなままだった。最後に会ってからは三年近く経っていて、化粧は濃くなり、髪は赤く染まっているが、彼女の顔はあの頃の面影をしっかりと残している。使い込まれて光の弱くなった蛍光灯で薄暗くなった室内にあって、彼女の髪の赤はひと際印象的だった。あたしたちが海ひとつ隔てるほど遠くにある女子高の同級生という間柄だった頃、周囲から「綺麗な黒髪だね」と憧憬を向けられ続けたその髪が変わってしまっても、あたしの思う彼女の魅力には傷ひとつ付かない。髪や雰囲気が変わったくらいで、あたしにとっての彼女は変わらない。彼女の魅力は、そんなところではない。
例えば久し振りに会う友人の部屋に自分よりも先にいて、床に仰向けになっているところ。こういうところのほうが、ずっと彼女らしい光彩を放っている。
「生きてたんだ」
家主のいない部屋を我が物顔で使う友人の姿に、呆れや驚きよりも先に、嬉しい溜め息が出る。
「死んでる。今日からは、もう」
「変なこと言わないでよ」
にやり、と笑う彼女の顔はぼやけている。これ以上、零れ落ちないようにぐっとこらえて、あたしも笑顔を作ってみるが、うまく笑えているだろうか。
「きみ、は変わらないね」
あぁそうだった、彼女はいつもあたしをきみと呼んでいて、耳に馴染むほど聞いたその声が懐かしい。彼女の声を好きなのは、あたしだけではない。その低い声も、高校時代、当時の彼女を知る多くの女子生徒たちが愛していた。彼女が愛されていたからその声も愛されたのか、それとも声そのものも彼女は愛されたのか、それは分からないけど、ただかつて電話越しに彼女の顔を知らなかった後輩の女の子が、彼女の声を聞いて恋に落ちた逸話は、いまでも我が母校の語り草になっている。
あの子のことは、あたしも知っている。
もしもこの場にいたら、どんな反応をするだろうか。泣いてしまうだろうか、それとも驚きで失神してしまうかもしれない。いやそれどころか怒ってしまいそうだ。先輩、なんで勝手にいなくなったんですか、って。そして一番にあたしの部屋を選んだことにも、顔を赤くして問い詰める姿が目に浮かぶ。
あの子にも、いますぐ伝えたいような気もするけれど、彼女との時間を他の誰にも邪魔されたくない、という思いも強い。
「あぁ頭おかしくなってきた。いままで、どこ行ってたの……! やっぱ、やめ。それも後で聞くけど、とりあえず、まずはひとつひとつ気になることを聞いていくね。どうやって、部屋に入ったの。鍵、持ってるってこと?」
「まぁまぁ。そんなにあせらないで」
こちらの感情を知ってか知らずか、ただいつまでも彼女は余裕のある表情を崩さず、その態度に感じる彼女との距離に寂しさが募る。あの頃もそうだったけど、いつだって彼女はあたしよりすこし先を歩いていて、手を伸ばした時にぎりぎり届かない場所に彼女がいるような感覚がもどかしくて仕方なかった。
「ちゃんと答えて」
「ごめんごめん。実はこの間ね。きみの実家に寄ったんだ。そこできみのいまいる場所を教えてもらって、その時に合鍵を借りたんだ。きみのお母さんから。『あなたなら大歓迎よ』って言ってたよ」
途中に、母の口調を真似る彼女の表情を見ながら怒りがわく。それは彼女に対してではなく、母への怒りだった。
「ちょっとお母さんに電話してくる。いくら同級生の友達なの知ってるからって、普通、娘の合鍵をほいほい他人に渡したりする!」
それに……、知っていたのなら、なんで教えてくれなかったの?
まだ彼女が生きてる、って。
母はあたしの気持ちにだって気付いていただろう。はっきりと口に出したわけじゃなかったけど、そういうことに関して母は鋭い。
彼女が姿を消した時、あたしたちのクラスでは漠然とした死の気配と、それを口にしてはいけない、という雰囲気が漂っていた。
ひとりの女子高生が行方不明になる。
都会の実状は体験をしたこともないので分からないけど、田舎町の高校においてその出来事は大事件だった。最初は家出を疑われたが、その後は家庭内暴力やラブホテルで深夜の密会をしていた、など、真偽不明の噂が飛び交い、信じたくないものであればあるほど、真実味が増すような言葉や根拠が出てきて、あたしはとにかく耳をふさぐことを心掛けた。彼女自身の言葉以外、すべて嘘だ、と。
言葉が耳に入ってしまえば、どれだけ自分自身に言い聞かせようと、信じてしまいそうで、それが何よりも嫌だった。だけどどれだけ心掛けても、隙間を見つけるように聞きたくない言葉は耳に入ってきた。
胸の内にひたひたと押し寄せてくる不安は恐怖だった。誘拐という噂を聞いてしまったこともある。
誰かに殺されたのか、自ら死を選んだのか。別に確証があるわけでもなんでもなく、ただなんとなく彼女なら、と周囲にそう思わせるような雰囲気を彼女は間違いなく持っていて、誰かがはっきりそう口にしたわけでもないのに、死が、クラス内でほのかに共有されていくのが分かった。
窓の隙間から入り込んできた夜気の冷たさに、思わず腕を擦ってしまう。
「寒い?」
そんなあたしに、彼女が聞く。
「寒くないの?」
「全然。私は死体だから、暑いとか寒いとか感じないの」
「っていうか、なんで窓開けてるの? いまの時期、分かってる?」
「最初から開いてたよ。最初から、ほんのすこし」
「そんなわけ……あっ」
そう言えば確かに閉め忘れてしまったかもしれない。
「むかしから思ってたけど、本当に忘れっぽいし、不用心だよね。私たちがいた田舎とは違うんだよ。こんなんじゃ、私、安心してあの世に行けないな」
と、彼女が溜め息を吐く。
「だから変な冗談やめて、って……」
「ごめんごめん。きみを見ると、どうしてもからかいたくなるんだ。やっぱりね。特に久し振りに会ったもんだから」
「今まで、どこ行ってたの?」
「色々と行ったんだけどなぁ。でもあんまり覚えてない。自分を変えたくてあの町を出たはずなのに、どれだけ場所が変わっても、私自身が何も変わってくれなかったから、どこも印象に残らないままだった。ううん。それもすこし違うのかもしれない。本当は私たちが過ごしたあの町の印象をこえる場所がどこにもなかっただけなのかもしれない。悔しいけど、やっぱりあそこ、って特別だったんだね」
あの頃のあたしたちはあの田舎町への嫌悪を確かに抱いていた。もちろん彼女の内心なんて読めるはずもなく、それはあたしの想像でしかないけど、確信はある。
「本当に悔しいんだけどね……。でも多分それって場所なんて関係ないんだと思う。土地なんてどうでもよくて、例えばあなた、とか、どこにいるかよりも誰といるかが一番大事なのかな?」
「なんで疑問形なの……」
「だって私自身がよく分かってないから。どこかに私だけの大切な場所があるって信じて、歩き回ったのに、歩かなくてもその場所はすでにあったなんて簡単に認めたくもないじゃない。ねぇそう言えば、さ」彼女が、あたしに向けて片目を瞑る。どきりとする。「修学旅行の夜のこと、覚えてる?」
「何のこと?」
と、あたしがとぼけると、彼女が唇を突き出す。拗ねたように、そしてあの日を思い出させるように。
「分かってるくせに。キスをそんな簡単に忘れるなんて……、きみは、なんて悪い女の子なんだ」
修学旅行の夜、隣で寝ていたはずの彼女が本気か冗談か分からないような顔であたしの口に、自分の口を付けたことがあった。その時、彼女は何も言わなかったし、あたしも言葉が出て来なかった。翌朝以降の彼女はいつも通りで、あたしとしては冗談として結論付ける他になかった。
くすくす、と笑うその顔に、私は自分の顔を近付けようと距離を縮めると、彼女がそれを手で制した。
「ごめん――」
「やっぱり、悪いね、きみは。ひどい女の子だ。ちゃんと生きた女の子を好きになりなさい」
「いま、あたしの目の前で、生きてるんだから。この好き、っていう感情は何も悪いことじゃない」
「あの日のこと、覚えてる? あたしの絵を描いてたきみを見つけた、あの日」
あたしは驚いていた。それはあたしだけが覚えている、彼女にとってはどうでもいい話だと思っていたから。
「うん……」
「タイトルを付けて、って言ったの覚えてる? 絵のタイトルなんかいらない。あの時の私は、私にしかない、私だけの物語を求めてた。タイトルが欲しい。だけど私は思っているよりもずっと、私自身のことが分からなかった。あなたなら。あたしのことを長く見ていてくれたあなたなら、もしかしたら、ってね。ねぇ、もう一度、聞くね。私に、私の人生に、タイトルを付けてみてよ。私の人生は無駄じゃなかった、って思えるような」
「なんで、あたしを選んでくれたの」
「一応、初めて好きになった女の子だからね」
「一応は余計。初めて好きになったひとは、違うんだろうけどね。数学の上本先生でしょ」
「気付いてたか」
「たぶん気付いてるひと、多かったと思うよ」
「家出に、上本先生は何も関係ないからね」
彼女は知っているんだろうか。彼女が消えた後、上本先生に悪い噂が立って、学校にいられなくなったことを。彼女が関係ないと明言してくれたのでほっとしたけど、悪評に苦しんだ、いまはどこにいるかも分からない上本先生のことを考えると、つらい気持ちになる。彼女に伝えようか悩んだけど、やめておくことにした。もう彼女が気に病む必要なんてないのだから。
「知ってるよ」
「ありがとう。ねぇ、さっきの話だけど……」
「そんなタイトルなんていらない。だって、まだ生きてるんだから。これからも物語は続いていく未完成なひとに、タイトルなんて付けたくない。すべてが終わってからにしようよ。ねぇ、お願いだから」
「気付いて、言ってるでしょ。ねぇいつから気付いてたの?」
「何のこと?」
とぼけてみるあたしに、彼女が諦めたように、ちいさく溜め息を吐く。
「……ごめんね。心配だったんだ」
「勝手に心配しないで。大丈夫。もう窓だって閉め忘れたりしない」
「ねぇ」
と彼女が唇を突き出して、私の反応を待つ。そこに一抹の虚しさを抱きながら、私は彼女に近付き――――、
夢から醒めるように、誰もいない空間だけが残った。
「寒い」
冷たさの増した夜気に思わず出た声に、反応してくれるものは何もなかった。
窓を閉め、ひとつ息を吐くと、スマホの着信音が鳴った。
母からだった。
「あの、ね」
言い淀むような口調だった。母のこれから言うことをあたしは知っている。彼女は事前に教えに来てくれたからだ。
でもそんなのはどうでもいいことだ。
「ねぇお母さん。合鍵って持ってる? 例えば、誰かが取りに来たりとかしなかった?」
「何、変なこと言ってるの……ちゃんと持ってるに決まってるじゃない。そんなことより……あの、ね。その……あの子のこと覚えてる? あなたのクラスメートだった、あの子。行方不明になってた……。死んだ、って……。昨日の深夜に学校近くの川に飛び込んで、自殺だって。こっちにいた、ってことにも驚いたし、それに自殺って……」
「どうでもいいよ。そんなこと……」
そう、やっぱりそんなのはどうでもいいことだ。
母の声を聞きながら、敷かれたカーペットに絡まる一本の赤毛を見つける。それだけがあたしにとっての真実だ。
私の心の中で、まだ確かに彼女は生きている。彼女の人生はひとつも終わっていない。
だからピリオドは打たないし、タイトルは無題のままだ。
(未完、永遠に)
タイトルは、必要ですか? サトウ・レン @ryose
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