その他編
「一人称か三人称か」語りの戦略としての「人称・視点」の選択
「その他篇」では、本編では言及できなかったさまざまな重要なトピックについて解説していく予定です。
今回は「人称・視点」についての解説です。小説執筆界隈では「一人称で書くか三人称で書くか」がたびたび議論になります。そもそもどのような種類の「人称・視点」があるのか、そしてそれぞれの「人称・視点」にはどのような特徴があるのか、プロの小説家のアドバイスを参考にしつつ整理していきたいと思います。
まず押さえておきたいのは、「人称・視点」の選択は「語りの戦略」だということです。書きやすそうだからなんとなく一人称(三人称)を採用する、というような曖昧な選択ではなく「どう語ればストーリーにとって最もよいか」つまり「誰がこの物語を語るのが最適な選択なのか」をしっかりと考えたうえで、「一人称or三人称」を選ぶようにしましょう。
実に多くの作家が「人称・視点」の選択=語りの戦略の重要性について言及しています。そのうちのいくつかを引用してみましょう。
思うに、視点は経験の浅い多くの作家にとって心配の種になっている。実に多くの恐ろしい物事が視点に関して言われているためだ。視点はもっぱら執筆において心地よく感じるかどうかの問題であり、誰の目を通して物語を語るべきかという問題である。他に考えるべき唯一の問題は、どんな種類の物語なのかである。第三者から語られた方がよい物語なのか、当事者の目から語られた方がよい物語なのか。
――『サスペンス小説の書き方 パトリシア・ハイスミスの創作講座』
一人称現在形で書くのと、三人称の全知の視点から過去形で書くのとでは、生み出す効果が異なる。そうした語りの戦略(物理の一つだ)を考える。[……]
「じゃあ『私は』という一人称で書こう」と決めた瞬間、一つの戦略を選んだことになる。
ほかにも文体や時制、時間の区切り、挿話やそのほかの小さなテクニック、時系列の組み替えなどがある。時系列は順を追って語るのがよいが、例外もある。
『ヘルプ』(第23節)は一人称で書かれているが、現在形の部分と過去形の部分のほかに、両方が混ざっている部分もある。高度な書き方だ。しかも作者は三人の話者を登場させている。
作者は「ストーリーの探求」段階で、この物語に最もふさわしい語り方を選択したのだろう。ありきたりな三人称全知の視点より、もっとよい語り方を見つけている。三人のヒロインを登場させる選択肢は特にユニークだ。
非常に効果的な選択だ。驚くほどうまくいっている。
アリス・シーボルドの小説『ラブリー・ボーン』(片山奈緒美訳、アーティストハウス/イシイシノブ訳、ヴィレッジブックス)は探偵ものとして書く選択肢もあっただろう。ドラマの軸もフック(少女が殺される)もコンセプト(亡き少女が天国から語りかける)も同じで刑事ドラマに仕立てていたら、作品は大きく変わったに違いない。だが、作者はミステリーのジャンルとは距離を置き、一人称の語りを選んだ。
売り上げが一千万部に達したのを見ると、その選択はよかったのだろう。
読者や観客は書き手の戦略に気づかない。だが、書き手が自分で気づかないのは致命的だ。
うまく選べば将来の成功につながる。
語り方のコンセプトが生む効果は大きい。その意味ではクリエイティブだ。
――『物理学的ストーリー創作入門 売れる物語に働く6 つの力』
主観(POV=Point Of View)の選択は安易になりがちです。ストーリーを思いついて書く前に、一人称か三人称のどちらにするか三十秒ほどで決めてしまったり。この安易な決断で、残りの十万語を書くとしたらどうでしょう。主観は物語のトーンとアークの決め手です。どのシーンを書き、どのシーンを「オフカメラ」として描かないようにするかを左右します。誰の主観をとるかで閉じる扉、開く扉が分かれます。つまり、主観はストーリーの成否を決める要素として最も重要。
――『アウトラインから書く小説再入門 なぜ、自由に書いたら行き詰まるのか?』
「人称・視点」の選択がストーリーを語る上で大変重要な意味をもつことがわかったところで、まずはどのような種類の「人称・視点」があるのかを整理したいと思います。
ロバート・マッキー著『ダイアローグ 小説・演劇・映画・テレビドラマで効果的な会話を生みだす方法』が「人称」の種類を分かりやすく整理していくれています。
マッキーは本書の中で「小説のストーリーは、作品世界のなかの登場人物か、外の世界の語り手のどちらかによって語られる。しかし、この単純な区分は、小説に三つの視点が存在するせいで、はるかに複雑なものとなる。三つの視点とはすなわち、一人称、二人称、三人称だ」と述べています。
まずは、ごく簡単にそれぞれの人称の特徴をまとめてみましょう。
一人称:一人称形式の語りでは、登場人物が自身を「わたし」や「おれ」などと称し、読者に対して、思いつくままに出来事を語っていく。
二人称:二人称形式は、一人称か三人称が形を変えたものだ。この形式では、ストーリーを語る声が「わたし/おれ/ぼく」などの一人称代名詞や、「彼女/彼/彼ら」の三人称代名詞を排除して「あなた/きみ/おまえ」などと呼びかける。
三人称:三人称形式の語りでは、語り手をつとめる知的存在が読者を導いて、ストーリーを案内していく。
三人称に関しては、さらに細かい分類ができるのですが、その点について後述するとして、ここではざっくりと「一人称、二人称、三人称」があることを確認しておきましょう。
では、それぞれの特徴について順に解説していきたいと思います。
アーシュラ・K・ル=グウィン著『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』には、「第7章:視点(POV)と語りの声」というそのものズバリの解説が収録されており大変参考になるので、本書も参考にしながら整理していきます。
まずは一人称。
■一人称
「わたし」や「おれ」が語り手となり、読者に出来事を語る。
一人称の例
「俺――
――白鳥士郎著『りゅうおうのおしごと!』(GA文庫)
「俺は高難度の依頼しか受けない冒険者だ。だからギルドも高難度の依頼は俺へ優先的に回してくれる。だが、それをよく思わない冒険者だっている。こやってガス抜きをするのは大切だ。俺も自由に動ける身分じゃないしな。」
――タンバ著『最強出涸らし皇子の暗躍帝位争い 無能を演じるSSランク皇子は皇位継承戦を影から支配する』(角川スニーカー文庫)
語り手である「わたし」や「おれ」は物語を声にするとともに、そこに中心人物として関わっています。物語で語られるのは「わたし」や「おれ」の知ること、感じること、わかること、思うこと、考えること、期待すること、思い出せることだけです。
「わたし」や「おれ」はストーリーに深くかかわる登場人物なので、周囲の日常を観察する者としては不十分であり、出来事の全体像もしばしば理解できずにいます。自分が何を追い求めているかを口にしなかったり、意識していなかったりするので、往々にして客観的とは言いがたい、というのが大きな特徴です。
一人称の物語で主人公の考えを伝えるのは、一見すると簡単そうに見える。主人公が読者に物語を語り聞かせているのなら、主人公の考えがすべてに反映されるはずではないか? そのとおり。そこがトリッキーなのだ。なぜか? 物語のなかの物事を何もかも一人称で語るには、直接的、潜在的、啓発的な工夫がなければならないからだ。語り手の意見は、語り手が読者に伝えるすべてに織り込まれていく。語り手が伝えようと選んだ細かい物事それぞれが、語り手の心のありかたを映しだし、語り手の人物像や世界観を明らかにする。『羅生門』効果のようなものだ。映画『羅生門』では、四人の人間が同じ事件を目撃するが、最後にはまったく異なる四つの物語ができあがる――そしてどれにも信憑性がある。ひとつの物語が真実なら、ほかの三つは嘘なのか? そうではない。それが各人物の見ている世界であり、四人は起きたことを違ったように解釈している。四つの物語は、そのどれにも魅力的な面があり、おのおのが見た事件として異なる結論を引きだしている。
客観的真実というものは存在するのだろうか? おそらくある。だが、人間の経験が文字どおりすべて主観的なものなら、客観的真実はどう見つければいい? つまり、一人称の物語では、語り手が自分の物語を語っている以上、そこには語り手の主観的な意味づけが吹き込まれているはずだということになる。
――『脳が読みたくなるストーリーの書き方』
一人称の語り手には、信用するに値する者からまったくあてにならない者まで、さまざまなタイプいます。語り手が話すことが全部間違いだというケースもあり、その場合は、何が真実か見いだすことが読者の楽しみになります。「信頼できない語り手」の作品として世界で最も有名な作品はおそらくアガサ・クリスティの『アクロイド殺し(アクロイド殺害事件)』でしょう。本作のメイントリックそのものにかかわる(ネタバレになる)のでこれ以上の言及はしませんが、一人称の語りをきわめて高度に駆使した傑作です。
一人称の物語では、一瞬たりとも中立は存在しない。つまり語り手は、自分に影響を与えないもののことは決して話さない。街の様子、誰かがオフィスに着てきた服、食べたマドレーヌの美味しさ、レーガン政権がいかにアメリカをだめにしたか、そういった客観的な長い説明はしない。たまには語るときもあるかもしれないが、それはその話題が主人公の語る物語に特定の影響をもたらすときだけだ。語り手がナルシスト(良い意味での)だと思えばわかりやすいかもしれない。物語のすべては語り手に関係があるはずで、そうでなければ読者に伝える理由がない。
――『脳が読みたくなるストーリーの書き方』
また、「わたし」や「おれ」は他人より自分自身に関心を寄せることが多いため、心の動きや内省や反芻でページが埋まる傾向があります。したがって、読者がほかの登場人物の内面を知るには、語り手の推測や暗示をもとにして、行間から読みとるしかありません。読者は、「わたし」や「おれ」の見聞きするものや話す内容のみを手がかりに他者の感覚やその人となりを推測することになります。つまり、一人称では他人の考えや感じかたを客観的に伝えることができないということです。
例文で説明しましょう。
×「ジュリアを愛していると僕がサラに告げると、サラは腹を殴られたような気分になった」
〇「ジュリアを愛していると僕がサラに告げると、まるで腹を殴られたかのように、サラの顔から血の気が引いていった」
ケンがサラの感じていることを推察したり予想したりすることはできますが、確信を持って「腹を殴られたような気分になった」ということはできないということです。
一人称で書く場合、どんなことに気をつけるべきかを整理しておきます。
● 語り手が話すどんな言葉も、語り手の視点を何かしら反映していなければならない。
● 語り手は、自分になんらかの影響を与えることにしか言及しない。
● 語り手は、自分が話したすべてのことについて結論を出す。
● 語り手は決して中立ではない。つねにアジェンダ(行動指針)を持っている。
● 語り手は、ほかの誰かが考えたり感じたりしていることを伝えることはできない。
――『脳が読みたくなるストーリーの書き方』
『太陽がいっぱい』『見知らぬ乗客』などのベストセラーを生み出し、サスペンスの女王として世界的にその名を知られるパトリシア・ハイスミスは次のように述べています。
一人称単数は長編小説を書くうえでもっとも難しい形式だ。視点に関する他のことでは何も意見が一致せずとも、この点については作家たちの同意を得られるだろう。私は一人称単数の本を書いていて二度、泥沼にはまり込んだことがある。あまりに深くはまり込んだために、それらの本を書くための一切のアイディアを放棄してしまった。何が問題だったのかはわからないが、ただ「私」という代名詞を書くのにほとほとうんざりしたし、物語を語っている人物が机に向かってその作品を書いているというばかげた感覚に苦しめられた。致命的である。くわえて、主人公たちの内省をかなりの程度含め、それをすべて一人称で書くことで、不快な謀略家という印象を強めてしまった。もちろん実際にそうなのだが、全知の語り手に彼らの頭の中で起きていることを語らせれば、その印象は弱められるのである。
――『サスペンス小説の書き方 パトリシア・ハイスミスの創作講座』
一人称で小説を書くことの難しさはどこから来ているのでしょうか。歴史的にみると、小説はもともと三人称で書かれるのが普通で、一人称小説が誕生するのは比較的最近のことなのだそうです。そして、一人称で小説を書くという行為は極めて「人為的」で普通ではないとみなされていた、とル=グウィンは述べます。
十六世紀以前の口承文学・宗教文書・文芸作品の語りはほとんどすべてが三人称だ。一人称の文章は、キケロの書簡や中世の日記、聖人の告白のほか、モンテーニュやエラスムス、初期の紀行文などに早く現れている。ただし創作の場合、登場人物を一人称で提示するにあたって、まずは正当な根拠が必要だと感じるのがかつては作者の常だった。ところが手紙を書くのなら自然と〈わたし〉で書いていけるので、書簡体小説が生まれてくる。十八世紀以降、一人称で書かれる創作がごく一般的となり、今では気にならない。ところが、実は作者にも読者にとっても、一人称小説は人為的な想像上のプロセスとしてもともと普通でなく、あえて磨き上げられたものなのである。この〈わたし〉とは誰なのか? 書き手本人ではない。なぜならそれは仮構の自我だからだ。〈わたし〉を通して、読者がそこへ同一化することもあるが、実際には自分ではない。
――『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』
と、ここまで一人称を使うことの難しさばかりが強調されている印象もありますが、一人称を採用することのメリットももちろんあります。また、実際にわたしたちが読む作品の多くは一人称だったりもします。ためしに本日時点でのカクヨムランキング上位作品を覗いてみましたが、かなりの割合(8割以上)で一人称が採用されています。
なぜなのでしょうか。
それは圧倒的な没入感を得られるからです。読者の心を掴み、主人公に共感(同化)してもらうには一人称のほうが適しています。また、誰の考えを伝えているのかが読者にもすぐにわかるので(すべての考えは語り手のもの)、作者は余計な心配しなくても済みます。
ただし、こまで書いてきたように、一人称で小説を書くためにはきわめて高度なテクニックが求められます。そのテクニックを駆使し、語り手(=「わたし」や「おれ」)を通じてしか物語を語ることができないという制約を、逆にうまく利用するという手もあります。
その代表作としてよく例に挙げられるのがスーザン・コリンズ著『ハンガー・ゲーム』です。
《『ハンガー・ゲーム』あらすじ》
「首都キャピトルが12の地区を支配する国、パネム。毎年、12の地区からは少年少女が1人ずつ「贄」として選出され、最後の1人になるまで殺し合う「ハンガー・ゲーム」が行われる。反乱を抑えるための「見せしめ」だ。16歳のカットニスは、不運にも選ばれてしまった最愛の妹のために、出場を志願する。そして、命をかけた究極のサバイバル・ゲームが幕を開ける――」
『ハンガー・ゲーム』のようなストーリーには一人称の主観がぴったりだ。
小説は主人公(カットニス)の主観だけを通して語られる。作者にとっては制約になるが、深い描写ができる利点もある。恐怖や怒り、妄想や希望を行間からにじませながら、語りではっきり書き表せる。
[……]主人公に見えないものは語られないから、「ゲーム」の主催者たちの存在も謎のままである。
――『物理学的ストーリー創作入門 売れる物語に働く6 つの力』
主人公カットニスの一人称にすることで「ゲーム」の黒幕の存在が読者にも謎めいて見えます(カットニスの知らないことは読者にもわからない)。カットニスの不安や恐怖などを読者も追体験できるようになっているのです。これが「語りの戦略」として「人称・視点」を選択することの意味です。
では次に二人称について見てみましょう。
■二人称
二人称小説に実際にお目にかかるケースはほとんどないかもしれません。ストーリーを語り手が「あなた/きみ/おまえ」などと呼びかけながら物語が進んでいく、かなり特殊な語りとなります。
二人称(あなた・きみなど)が創作で用いられるのは、当然ながら稀である。たまに、まだ誰もやっていないという思い込みから、二人称で短篇や長篇を書いてしまう人もある。
――『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』
実際の例を見てみましょう。
どこへ行こうとしているのか、きみにもはっきりとはわからない。もう家へたどり着く元気など残ってはいまい。きみは足を速める。陽の光が路上を歩くきみを捕まえたら、きみの身体には取り返しのつかない化学変化が起こるだろう。
少したってから、きみは指についた血に気がつく。手を顔にあてる。シャツにも血が滲んでいる。きみはジャケットのポケットからティッシュをとりだして鼻に詰める。頭を後ろに倒すようにしてきみは進む。
――ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(高橋源一郎訳、新潮社)
物語全編を通じてこのような語りを採用するには、恐ろしく高度なテクニックと必然性がなければなりません。二人称についてこれ以上深入りするのは、あまり賢明ではないので三人称へと進みましょう。
■三人称
現代の創作でもっともポピュラーなのが三人称、その中でも特に三人称限定視点(後述)といわれています。
三人称小説における語り手は作中に登場せず、作者自身の肉声そのものとも違います。これは作者が作り出した案内役で、どの程度の知識があるかやどれほど客観的かは作品によってさまざまですが、登場人物や出来事について解説し、いろいろな形での言及をおこなうのがその役割となります。もしこの語り手が突然みずからを「わたし」と呼びはじめたら、非登場人物は登場人物となり、語りは一人称へと変わることになります。
三人称で物語を進めるのが、いまだにいちばんありふれていて難の少ない様式である。作者は三人称を使って自在に歩き回りつつ、 彼 や彼女のやったことを、それから一同の考えたことを物語る。
――『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』
私が主人公に視点を置きつつ、三人称単数で語ることを好んでいるのは、おそらくあらゆる点でその方が簡単であるからだ。
――『サスペンス小説の書き方 パトリシア・ハイスミスの創作講座』
その三人称にはいくつかのバリエーションがあります。
三人称の語り手の知識の幅は全知からほぼ無知まであり、物の見方の幅は中立的から批判的まであり、読者にとっての存在感は強烈から希薄まであり、語りの信頼性は誠実から(非常にまれだが)いいかげんまであり、実にさまざまだ。作家はこれらの特質をあれこれ考え、辛辣で突き放した立場からストーリーに深くかかわる立場まで、三人称の語り手を客観寄りにするか主観寄りにするか、濃淡をつけることができる。
――『ダイアローグ 小説・演劇・映画・テレビドラマで効果的な会話を生みだす方法』
人よって呼び名が違うのですが、三人称はおおむね以下のように分類できます。
ここでは『脳が読みたくなるストーリーの書き方』の分類に従うことにします。
①三人称客観:物語は客観的な外部の視点から語られ、作者は読者を登場人物の心理に誘い込もうとせず、登場人物がどう感じているか、何を考えているかも説明しない。そのかわり、映画(長々としたナレーションのないもの)と同じで、登場人物がどう行動したかのみに基づいて情報が暗示される。三人称客観で書く場合、主人公の内面的な反応は、外面的な手がかり、すなわちボディランゲージや服装、行き先、行動、一緒にいる人間、そしてもちろん台詞などによって示される。
三人称客観のポイントは「登場人物の心理を描写しない」という点にあります。語り手は登場人物のひとりではなく、まったく中立の観察者が登場人物について振るまいや発言から推測できることのみを話すことになります。作者は登場人物の心中に立ち入ることはできません。人々と場所は正確に描写することはできますが、価値や判断は間接的にほのめかすことしかできません。観察はするが、解釈はしない、ということです。
②三人称限定:一人称で書く場合とよく似たスタイルで、ひとりの人物―たいていの場合は主人公――が考え、感じ、見ていることだけを伝えることができる。このため主人公はすべての場面に居合わせ、起きたことすべてに気づかなければならない。一人称との唯一の違いは、「私」ではなく、「彼」もしくは「彼女」を使うことだ。また、一人称の場合と同じで、主人公以外の人物が考えたり感じたりしていることは、その人物が突然話に割り込み、実際に口に出して言うのでないかぎり、断定的に伝えることはできない。
三人称限定は「現代の創作で主に用いられている」視点です。三人称限定は一人称によく似たところがあります。
ここでの視点人物は、〈彼〉や〈彼女〉となります。語られるのは、視点人物の知ること、感じること、わかること、思うこと、考えること、期待すること、思い出せることなどだけです。つまり一人称と同じです。読者は、その視点人物の観察内容のみを手がかりに、他者の感覚やその人となりを推測することができます。
取り組む姿勢としては、三人称限定は一人称と一致する。制限の性質がまさしく同じだからだ。つまるところ、語り手に見えること、わかること、話せること以外には、何も見えず、わからず、語られもしないのである。その制限が声に集約され、語り手として
――『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』
三人称限定の作品は(一人称の作品と同様)膨大な数が存在するので、どの作品を例に挙げればよいのか悩ましいところですが、ここでは支倉凍砂著『狼と香辛料』(電撃文庫)を紹介しましょう。
主人公(視点人物)ロレンスと狼の耳と尾を持つ美しい少女ホロとのやり取りです。
「飲んだらどうだ? いい具合に薄めてあってうまいぞ」
ロレンスがそう言うとホロはのろのろと顔を上げた。顔の作りがよいので辛そうな顔もそれなりに魅力的だ。きっとワイズが見たら仕事を休んででも看病するだろう。お礼はほんの少しの微笑で結構。ぼんやりとした顔で果汁をなめるように飲んでいたホロは、そんなことを考えてつい笑ってしまったロレンスのほうを不思議そうに見ていたのだった。
「ふう……二日酔いなんてもう何百年ぶりかやあ」
木のコップの中身を半分ほど飲み終えてから、ようやく人心地ついたようでホロはためいきをついた。
[……]
「うう……面目ない」
ことさらに情けなさそうに言ったのはわざとだろうが、実際にまだだいぶ辛そうだった。
[……]
ロレンスがいたって平静なので、ホロはつまらなそうに下唇を小さく突き出した。ロレンスが返事に窮するとでも思っていたのだろうが、あまりおいしくもなさそうに果汁を飲みながらおざなりに言われれば、いくらロレンスだって平静を保てるというものだ。
③三人称全知:すべてを見てすべてを知っている、客観的で(通常は)信頼のおける語り手(つまり作者)によって物語が語られる。語り手は、全登場人物の心に入り込み、彼らが何を考え感じているか、何をしたか、これから何をするかを伝える権限がある。これを使うコツは、当然のことながらすべてを追跡しつづけることだ。それと、つねにカーテンの後ろに隠れておくこと。一瞬でも人形遣いの姿が見えてしまったら、登場人物があなたに糸であやつられていることがわかり、すべてだいなしになってしまう。
比較的古い小説に見られる種類で、物語が、物語の「外」にいる1人の語り手によって語られますが、その語り手は、物語に登場するすべての人物の思考を、一度に何人でも代弁できます。
この場合の物語は、誰か特定の登場人物ひとりの内面から聞かされることはない。
視点になりえる人物が数多くいるので、語りの声はいつでも切り替え可能で、物語内の登場人物のあいだや、作者だけに生み出せる視野・知覚・分析にも移っていける(たとえば、その場にひとりきりの人物の様子を描写したり、そこに見る人がいない瞬間でも景色や部屋を描写したりできるわけだ)。書き手は、誰かの考えていることや感じていることを読者に伝えることもあれば、読者に対して振るまいを説明することもあり、登場人物に対する判断を下すことさえある。
これは物語作家にとっておなじみの声である。物語る者は、登場人物たちがある一時にいるさまざまな場所全部の進行状況を把握している上に、登場人物の内面の動きも、これまでの出来事も、これから起こるはずのこともわかっているからだ。
あらゆる神話・伝説・民話、いかなる幼児の作り話、1915年前後までの創作ほぼ全部、そしてそれ以後の大多数の創作で、この声が用いられている。
――『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』
三人称についてここまで見てきましたが、現在もっとも多く使われているのが三人称限定です。
ここからが少しややこしい話になるのですが、物語によっては、三人称限定の視点人物が複数人存在するというケースもあります。ただし、その場合でも、一度に複数の登場人物の代弁はできず、視点人物が章ごとに分けられるというのが普通です。もし、ひとつの章や段落の中で視点人物がコロコロと切り替わってしまったらどうなるでしょうか。これが、初心者が最も陥りやすいミス「ヘッドホッピング」です。
誰の視点で書いている場合でも、あなたが使える視点は一場面にひとりの視点だけだ。セレヴァンの視点でその場面を書き始めたら、その視点にとどまらなければならない。なぜか? 場面の途中で視点を切り替えると、ぎくしゃくして流れが壊れることが多いからだ。
――『脳が読みたくなるストーリーの書き方』
突発的に一瞬だけ 別の視点に移ってしまうと、その結果はとりわけ落ち着かないものとなる。注意を払えば、潜入型の作者でならそれも可能だ(トールキンはキツネを使ってこれを実行している)。しかし、三人称限定視点ではこれがなしえない。たとえばデラという人物の視点で物語を書いているとすれば、「デラは、愛するロドニーの顔を見上げた」とは書けるが、「デラは、その信じられないほど美しいすみれ色の瞳を、愛するロドニーの顔へと向けた」とは書けない。確かに自分の瞳が美しくすみれ色だとデラが自覚していてもおかしくないが、見上げたとき本人から自分の瞳は見えない。ロドニーからなら見える。これではデラのPOVを抜けて彼の視点に入り込んでしまっている(もし実はデラが自分の瞳がロドニーに与える効果を意識していたなら、「彼女は、自分のすみれ色の珠が相手に与える効果をわかった上で、上目づかいをした」と言うしかない)。そのように一語だけPOVを切り替えてしまうのはめずらしいことでもないが、落ち着かなくなるのが常だ。
――『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』
三人称限定の視点人物を切り替えるというテクニックは使い方によっては大きな効果を生むことができ、非常に魅力的なのですが、使い方によっては読者が混乱する可能性があるので十分注意してください。
また、一人称と三人称をひとつの作品の中で切り替えるということも不可能ではありません。しかし、ほとんどの場合上手くはいかないだろうとル=グウィンも述べています。
ちゃんと相応の理由があって慎重入念に一人称から三人称への切り替えを試みるにしても、やはりわたしの全体の印象は変わらない。無理してギアを壊してはいけないのだ。
――『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』
筒井康隆さんは著書『創作の極意と掟』(講談社文庫)で次のように述べています。
通常は一人称か三人称かを決めてから書き出す。そしていったん決めた人称は同じ作品の中でころころ変えちゃいけない。変える場合は章を変えるとか、語り口をあからさまに変えて人称が変わりましたよと暗黙の裡に教えなきゃいけない。人物についても同様である。語り手がころころ変わったのでは今誰が語っているかわからなくなるから、章を変えたり語り口を変えたりして複数の登場人物に語らせる。
――筒井康隆著『創作の極意と掟』(講談社文庫)
上で「一人称小説」の例として挙げた『最強出涸らし皇子の暗躍帝位争い』(タンバ著、角川スニーカー文庫)ですが、実は物語の終盤で三人称に切り替わる部分があります。終盤でモンスター退治のために、パーティーを二手に分けて戦うという描写があります。必然的に「俺」のいないほうの戦いのシーンでは一人称を採用することはできず、その部分は三人称の語りになっています。もちろん、人称が急に切り替わるわけではなく、しっかりと章(パート)を分けたうえで人称の切り替えを行っています。
さて、今回は長文になってしまいましたが、まとめに入りたいと思います。
小説執筆初心者の方にオススメする「人称/視点」は「一人称」か「三人称限定」ということになるでしょう。ただし「一人称」はプロの作家でもなかなか苦戦してしまうようです。
どの「人称/視点」を選択したにせよ、その選択は「どう語ればストーリーにとって最もよいか」という語りの戦略の上での選択であるべきです。
ちなみに、推敲の段階で、一人称から三人称へと切り替えることで(あるいはその逆)作品の質が向上する可能性もあるようです。
主人公があまりに平板で感情移入しにくいと言われた場合は、一人称での書き直しも検討してみよう。それだけで主人公が読者にぐっと近づいて、問題が解決することもある。
――『物語を書く人のための推敲入門』
それぞれの「人称/視点」の特徴をしっかりと踏まえたうえで、最善の選択をしてみてください。
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