第70話 現実:医学-医療-感染症 「スペイン風邪(正式名称スペイン・インフルエンザ)」

★スペイン風邪:その発生源はアメリカではなく中国という説あり。

 スペイン風邪とは、1918年(大正7年)- 1920年(大正9年)に世界各国で極めて多くの死者を出したインフルエンザによるパンデミックの俗称である。


 未知のウイルスが全世界を襲い、2年以上にわたって計3回のパンデミック(世界的大流行)を引き起こした。

現在も流行しているH1N1型インフルエンザの祖先にあたる。


 その特徴は特に20~40歳代の感染者が多かった事だと言う。

スペイン風邪は発症すれば40度近い高熱が出て数日間で呼吸困難になり死亡するケースが多くあったが、特に15歳から35歳の健康な若い人の感染死亡が多かったが、これは普通のインフルエンザでは考えられないことだった。


スペイン・インフリーザ「お待ちなさい! 殺すのは、まずお若い15〜30代になさい!」


 当時、スペイン風邪に効く特効薬はありませんでした。

新聞に「流行性感冒に効く」とうたう多種多様な市販薬の広告が掲載されたが、実際に特効薬と呼べる薬はなかったのだ。

そのため感染防止が最大の対策となり、人々はマスクをし学校・劇場・企業までもが閉鎖されることになりましたが、これは現在の状況とまるで変わらない。


 更にスペイン風邪は、収束したと思ったら再び牙をむく恐怖の感染症で、日本でもかつてない数の犠牲者を出したのだが、しかし長い間歴史上忘れ去られてきた病気だった。


 その理由は、日本を取り巻く当時の時代環境にある。

大正中期は大正デモクラシーも盛んで、工業生産高が農業生産高を上回った頃だった。

また、第一次世界大戦(1914年7月28日 - 1918年11月11日)の戦勝国となった事で身の回りに大きな変化があった時期だけに、スペイン風邪は軽視されていたという。


 さらにもうひとつ注目すべきは、その致死率だ。

2%程度なのでペストやコレラなどに比べてずっと低い為、大した感染症ではないという見方が根強くあったが、本来ただ致死率が低いと言って楽観すべきではなかった。

そもそも、その分母が違う。


 なぜならスペイン風邪の怖さはその感染力にあり、致死率が低くても感染者数の増加に歯止めがかからなければ、犠牲者は増え続けたからだ。

なお、新型コロナの致死率は国によってまちまちだが2-3%程度で、これはスペイン風邪とほとんど変わらない。


 そして、この度の新型コロナウイルスと同様のパンデミック(世界的な大流行)となったこの感染症は、アメリカ中西部の兵営で最初に報道された、としばしば指摘されています。

これは感染していたアメリカ軍が第一次世界大戦に参戦することにより、欧州戦場からパンデミックとなりすべての人種・すべての兵種に流行する事で、多くの兵士達が伝染病に苦しむ軍隊においてその戦闘力の1/4を失うものもありました。


 さらに世界では、死亡者が2000万から5000万ともいわれ、約1000万といわれている第一次世界大戦の戦死者の数倍にあたります。


 日本では内地だけでも数十万名が死亡したと言われていますが、日本国内でのスペイン風邪の死者数についての独自の試算によると死者数は45万人で、政府発表の38万人を上回った。

つまり関東大震災の5倍近くの犠牲者を出したことになる。


 またこの猛威に人々の打つ手はなく、対策と言えば人ごみに出なかったり、手洗いを励行することぐらいで、公共の場でのマスクの着用も奨励され、家に厄除けの札を貼ったりする人までいたと言う。


 なお、この流行の発生地については科学者の間で何十年も論争が続いているが、フランス・米国中西部・中国などさまざまな場所が提唱されるも、未だ起源は特定できていない。


 スペイン風邪のインフルエンザウイルスの病原体が特定されたのは1997年のこと。

1997年8月にアメリカ合衆国アラスカ州の凍土より発掘された4遺体から肺組織検体が採取され、ウイルスゲノムが分離されたことによって、ようやくスペインかぜの病原体の正体が明らかとなったのだ。



▼「スペイン風邪」とは何か:1918年のパンデミック

 1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こった。

当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染し、そのうち2000万人~4500万人が死亡した。

現在の研究では、そのウイルスはH1N1型と特定されている。


●「スペイン風邪」アメリカのカンザス州の軍隊で発生?:

 当時のパンデミックは航空機ではなく船舶による人の移動によって、僅か4ヵ月で軍隊が駐屯する都市や農村からその地の民間人に、当時敷設されていった鉄道網も相まって世界中に広まっていったとされる。


 スペイン風邪の発生は今から遡ること約百年前の1918年春の事であり、スペイン風邪の症例が正式に記録されたのは1918年3月4日アメリカ・カンザス州の軍事基地でのことでした。


 よってその発生源は、竜巻が多いことで知られるアメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされ、少なくともこのアメリカの軍隊から発生したとされるスペイン風邪は、アメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになった。


 なぜなら当時は第一次世界大戦の真っ最中であり、自称「ドイツの粗暴な振る舞い」とやらがアメリカの参戦を促し、アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。

これは、ドイツ帝国が無制限潜水艦作戦によって『中立国だったはずなのに「何故か大量の戦争物資と弾薬を載せた」アメリカの商船』を撃沈するに至ったからだ。


 なお、イギリス海軍の方が先に北海全域を交戦地帯と定め海上封鎖を敷き(ドイツ封鎖)、中立国の旗を掲げる船舶でもイギリスは警告なしで攻撃する可能性が出ていたのだが……無論イギリス海軍のこの蛮行は1856年の「パリ宣言」に反するものだった。



●「スペイン風邪」の名前の由来:

 スペインが発生源という訳では無くアメリカから発生したのになぜスペイン風邪という呼称なのかと言えば、それは第一次大戦当時スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため戦時報道管制の外にあり、この新型ウイルスの感染と惨状が戦時報道管制から自由なスペイン電として最初に世界に発信されたからである。


 日本では、1918年6月に対岸の火事のように報じられていた。

なおこの時、スペインでは800万人がスペイン風邪に感染し、国王アルフォンソ13世や政府関係者も感染したので、日本では当初「スペインで奇病流行」と報道されたに過ぎない。


 他方参戦した国々はと言えば、敵味方問わずその流行を隠蔽していた。

なぜなら第一次世界大戦中の士気維持のため、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ合衆国での病状や死亡の初期報告は検閲により最小限に抑えられたのだ。



▼日本における「スペイン風邪」その伝播:

●「スペイン風邪」日本に上陸す:

 スペイン風邪は世界で猛威を振るったが、日本ではどうだったのかと言えば、結論から言うと前例のない程の被害が出た。

感染者数は統計方法にもよるが2300万人を超え、その死者数は38万6000人を超えるものだった。


 わりとそっくりな数字がある、初期の新型コロナで推計された最悪の死者数だ。

厚生労働省のクラスター対策班が対策を講じなかった場合を推計したが、それによれば最悪41万人の死者になる。

なぜか偶然同じぐらいの数字となっている。


 結局このスペイン風邪によって、最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0.8%強に当たる45万人程が死亡したと推定される。

ただ当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、日本統治下全体での死者は0.96%だという。


 1945年の東京大空襲による犠牲者は10万人であり、日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、関東大震災の5倍近くの犠牲者を出したこの数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。

単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になるが、これは大阪市の人口の約半分にあたる。


●「流行性感冒」:流行り病

 1918年(大正7年)5月の大相撲夏場所は休場者が相次いだ。

これは報じられているところによると「流行性感冒」なるものであるが、世間では当初「相撲風邪」とも「力士病」とも、後に「軍隊病」とも言われ、これが悪名高い「スペイン風邪」の日本における先駆けとなった。


 日本でスペイン風邪が確認されたのは遡ること一月前の1918年4月、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。


 そののち同年5月になると、大相撲夏場所は休場者が相次ぎ、更に横須賀軍港に停泊中の軍艦にまで患者が発生し、それが横須賀市内・横浜市へと広がったのだ。

当時、日本の報道でのスペイン風邪の俗称が「流行性感冒」なのである。


●春の先触れ「相撲風邪」「力士病(風邪)」:

 3人の力士が台湾巡業の際、謎の風邪に感染し亡くなった。

台湾は当時日本の統治下にあり、大相撲の巡業先だったのだ。

他にも20人以上の力士が同じような病気で倒れたが、これはかつてない異常事態だった。


 その後、謎の風邪は本土に戻ってきた力士から相撲界に広がった。

「相撲風邪」「力士病(風邪)」と呼ばれ話題となったが、これがスペイン風邪だった。


 39万人とも言われる人々が亡くなったスペイン風邪の日本での大流行は同年秋で、この春先の相撲風邪は後年「春の先触れ」と呼ばれる事となる。


 この時は力士に死者はなく、大流行の際も相撲界では感染者が少なかったが、これは謂わば予防注射の役割を「先触れ」が果たしたから、らしい。


 なお、相撲界と流行性感冒と言えば、江戸時代に無敵をうたわれた横綱・谷風(たにかぜ)が「風邪」で亡くなったのも有名な話である。

……さらに軍隊などでも患者が増えた。


●「軍隊病」:

 1918年(大正7年)10月、富山から始まった米騒動が落ち着いた秋にスペイン風邪があちこちで起こったが、この際はウイルスが一斉蜂起するような広がりだった。


・10月04日付「福井の鯖江第36連隊の流行感冒患者は200余人になり、連隊は外出や面会を一切禁止した」


・10月16日付「愛媛県大洲町で流行感冒が大流行し、600人の患者がいる。中学校と高等女学校の多数がかかり、1週間、39度から40度の熱が出た。患者は10歳以上30歳以下に多い」


・10月24日付「最近東京を襲った感冒はますます流行し、どの学校でも数人から数十人が休んでいる」

若い世代が集まる軍隊と学校が病気の温床だった。

ウイルスは免疫という防御手段を持たない人々に広がり、手が着けられなくなった。


 流行の全期間を通じてもっとも死者が多かった月が1918年(大正7年)11月。

中でも、評論家で劇作家の島村抱月(47)の死亡は大きなニュースになった。

愛人の女優松井須磨子(32)の後追い自殺も話題を呼んだ。


 このように短期間に患者は爆発的に増えた。


・12月25日付「総患者数は1千万人近い。東京府だけで10月28日から平均で毎日200人以上の死亡者を出している」内務省衛生局の調べを伝える記事は、そう書いた。


 当時の人口は5600万人だったから、2カ月ほどで5~6人に1人が感染したことになるが、年を越して流行は続く。


・1919年2月3日付「大臣では原首相をはじめ内田外相、高橋蔵相らが引きこもり中で、ほかの高官にも患者が少なくない。患者は増える一方、医師にも伝染し、看護師も倒れる。東大病院は入院を断っているし、ほかの病院もすべて満員。実に恐ろしい世界感冒だ」


 都会から地方に逃げる人もいた。

・2月19日付「熱海は感冒避難客で温泉宿はどこも満員で、客が布団部屋にまであふれている」


 また、陸軍軍医学校の防疫学教室でも世界の研究成果に基づき各種インフルエンザ菌を検査しましたが、成果はありませんでした。

しかし軍医学校では、次第に死亡率が高くなっているのは肺炎菌種の毒性が高くなっているからと推定し「飛沫伝染による伝染防止を第一に、インフルエンザ菌及び肺炎球菌混合予防液を作成・交付し、もって広く予防接種を行うなど防疫の手段を講じた」とあります。


 そして講演の最後では、「古来縷々人類に大なる禍害を及ぼしてきた本病は今再び世界を風靡し猛威を振るってい るがこの病原は未だ世界においても解明されていない。よってその予防及び治療法は将来 の研究に待つもの尠なからず」とまとめています。


・1919年(大正8年)12月から、陸軍省では流行性感冒のための予防接種施行の陸軍省令を設け、逐次予防接種に着手しました。


 次の冬も流行は続く。

しかも、スペイン風邪の被害はより悪質になっていた。


・1920年1月11日付「恐ろしい流行感冒がまたしても全国にはびこって最盛期に入り、死者続出の恐怖時代が来たようだ。せき一つでも出る人は外出するな。その人のせいでたくさんの感染者を出すかもしれない」


・1月11日付「流感悪化し工場続々閉鎖」

働き手が不足し、工場や交通機関なども通常に機能しなくなったのだ。


 社会に与えた打撃も大きかった。

・1月16日付「人々は人込みを嫌い、銭湯・寄席・映画館・理髪店は流感に祟られて客がめっきり減った」という。


 朝日新聞は1月から、東京市内の1日の死者、患者数を紙面に掲載した。

・1月19日付「死亡者337人、新患者3万2千余人」とある。


・1月23日付「交通通信に大たたり 市電も電話局も 毎日500~600人の欠勤者」



▼日本に於けるスペイン風邪の流行の経緯:

 起源については説が分かれているものの、スペイン風邪は3つの波で世界中に広がっていきました。


 このうち、1918年秋に北半球で起こった第1波がもっとも深刻だったため、2018年の秋は「スペイン風邪100周年」にあたります。


 また、日本に於けるスペイン風邪流行は大別すると「前流行」と「後流行」の二波に別れると言う。

「前流行」は1918年秋からの感染拡大で、「後流行」は1919年秋からの感染拡大である。

どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。



●スペイン風邪の先駆け「前兆・第0波(第一波)」:

 1918年(大正7年)4月、台湾巡業中の3人の力士が謎の感染症により急死したのが、その発端だった。

翌月の東京の夏場所は高熱などによる全休力士が相次ぎ、その後も休場者が続出したので世間はこれを「相撲風邪」「力士病(風邪)」と呼んだが、実はこの謎の感染症こそが同年初めから米国で流行の始まった「スペイン風邪」とみられている。


 これが思い返せば先触れだったようだが、いったん収まった。

なぜならこれらはスペイン風邪の「前兆」に過ぎなかったのだ。

その後、ヨーロッパの戦場などで猛威をふるったウイルスが強くなり10月に日本に来て、軍隊や学校を基点に大暴れした。


●スペイン風邪の「前流行・第1波(第二波)」:

 1918年(大正7年)9月末から10月上旬にかけて、スペイン風邪は日本に本格的に上陸し「第1波」が牙をむいた。


 当初軍隊で集団感染し、学校や企業にも広まったし、各地で同時多発的に発生した。

これは国内の鉄道網はすでに整備されており、短期間のうちに全国各地に広がった。


 滋賀県の小学校では歩兵部隊を視察した後、児童の半数以上が感染し死亡者も続出した為、小中学校は軒並み休校し、企業も欠勤者が急増して社会は機能不全に陥った。


 とくに狭い空間に密集し換気のない製糸工場で大量の感染者が出て、諏訪地方の製糸工場は大きな打撃を受けた模様です。

 

 また、通常時をはるかに上回る死亡者が出て、遺体の処理も混乱し火葬場も大混雑した。

・香川県丸亀市では、火葬が追いつかず土葬に切り替えた。


・1918年(大正7)11月11日付、大阪市では遺体を処理しきれなくなり、大阪駅では棺桶を乗せた列車が大幅に増えた。

「大阪市内の火葬場は昼夜兼行だが、1週間以上の焼き遅れもある。死体のまま汽車や汽船で郷里に送られる例も多い」


・1919年(大正8年)6月24日付「悪性流行感冒がひどかった時には棺おけが積み上げられ、名前と遺体が違うのもあった」

東京市議は、民間ばかりの東京の火葬場に市営も設けるべきだと提案した際、こんな指摘をした。


 また「火葬場の新記録」という記事は、東京・砂村(現江東区)にあった火葬場の様子をこう書いた。

・1920年(大正9年)1月20日付「開所以来最高の223のひつぎが運び込まれ、午後9時の終業時間を過ぎても作業に追われた」


 このように1918年秋に発生したスペイン風邪は年をまたいだのだ。

・1919年2月の朝日新聞は「入院皆お断り、医者も看護婦も総倒れ」という見出しで伝えている。

いまとそっくりな医療崩壊の危機だ。


 しかし気温が上昇したためなのか、この年の春には一旦沈静化した。

そしてその理由はわからないがそのせいもあって「危機は去った」と楽観論が浮上した。

だが……



●スペイン風邪の「後流行・第2波(第三波)」:

 ところが、ウイルスはこの年の暮れの1919年秋から翌1920年3月に再び大暴れした。

これがスペイン風邪の「第2波」だ。

しかも毒性が強くなって、死亡率が高まっていた。


・1920年1月11日付「恐ろしい流行感冒がまたしても全国にはびこって最盛期に入り、死者続出の恐怖時代が来たようだ。せき一つでも出る人は外出するな。その人のせいでたくさんの感染者を出すかもしれない」

東京日日新聞はこう伝えている。


 当時の政府はマスクの使用・うがい手洗いの励行・人ごみを避けるなどの通告を繰り返して促し、小学校や中等学校は休校とした。

これらはわれわれが唯一とり得る対処法であり、こういった対策が当時の人口に対して死亡者数0.8パーセントに抑えられた理由である。



▼「中国起源説」:韓国起源説者「無論スペイン風邪も新型コロナも偉大なる韓国起源ニダ! ……ニダ?」

 だが、ここで一つの疑問が浮かび上がる。

スペイン風邪の発生源は、アメリカのカンザス州での基地というのが定説となって、それは1918年3月であったが、日本への感染は流行が始まった直後の同年4月、台湾巡業中の尾(お)車(ぐるま)部屋の真砂石(まさごいわ)ら3人の力士が謎の感染症により急死したのがその発端で、その後謎の風邪は本土に戻ってきた力士から相撲界に広がった。


 大流行より半年も早く、ウイルスが凶暴化する前の「先触れ」だったのではないかとも言われるが、しかしわずか1カ月の間に内陸部のアメリカ中央部から台湾まで感染が拡大し、日本の力士に移ったのだろうか……飛行機が普及していない時代に、それは余りに早すぎる。


 そこで、専門家の間では別の可能性が指摘されている。

それが中国起源説だ。


 また中国の仕業かと思うとゲンナリもするが、ともあれ「相撲風邪」は4月に発生し7月下旬には収束するという比較的短い期間だった為、それほど話題になることもなかったが『感染症の世界史』(石弘之)によれば、アメリカのカンザス州で発生する前に、スペイン風邪とみられる呼吸器病が中国の国内で流行っていたという記録もあり、現在「最初にスペイン風邪が現れた場所」には、3つの仮説が存在します。


 1つはイギリスのウイルス学者であるジョン・オックスフォード氏が提唱した説で、フランス北部の海岸・エタプレスにあるイギリス軍基地が始まりだというもの。

ここでは1916年に患者の顔色が青くなる膿性気管支炎の流行が報告されていました。


 また2つ目の説では、歴史学者のマーク・ハンフリー氏が挙げたものである。


 1917年、中国の山西省・万里の長城沿いの村々では1日あたり数十人の死者が出ていた。地元の保健当局が「冬季流感」と呼んでいたこの病気は、1917年末には6週間で500キロも離れたところまで広がったとか。


 この病気は当初肺ペストではないかと考えられていたが、死亡率が典型的な肺ペストよりはるかに低かった為なのか、中国でこの呼吸器感染症の流行が発生していたさなか、英国と仏国は中国人労働部隊を組織し、既に深刻な呼吸器疾患に罹患していた中国人労働隊まで列車に閉じ込め、戦争中に中国北部からアフリカ回りの船旅では時間も費用もかかりすぎるため遥々カナダを横断させ、ヨーロッパまで9万人を超える労働者を英国南部と仏国に運んだ。

労働者を後方支援に送り込んで、代わりに兵士を前線に出そうとしたのだ。


 なお、英仏国が労働者を船で太平洋を越えカナダ西海岸のバンクーバーに送り、そこから列車で東海岸のハリファクスまで運んで、また船で大西洋を渡りヨーロッパに送ることにしたのは、労働者不足があまりにも深刻だったからだ。


 こうして中国人労働者たちは1918年1月にはイギリス南部に到着し始め、そこからフランスに送られた。

そして彼等によってもたらされた欧州で言うスペイン風邪は、汚物と病気と死にまみれたフランス軍の塹壕(ざんごう)やぎゅうぎゅう詰めになった兵士たちの兵舎が温床になって感染が広がり、スペイン風邪として広まったのだと言う主張です。

なおフランス北部のノイエル=シュル=メールの中国人病院には、呼吸器疾患により数百人が死亡したとの記録が残っている。


 コレは端的に言えば、欧州において当時行われていた第一次世界大戦では英仏軍が西部戦線での後方支援を行うために9万6000人の中国人労働者を動員していたという史実があったのだが、この第1次世界大戦中の忘れられたエピソードがスペイン風邪の拡大(パンデミック)の発端になった可能性が指摘されているのです。

また若者の犠牲者が多かったのは、塹壕にいる若い兵士にまん延したからだと説明され、更にヨーロッパから米国に帰還した兵士たちが、米国のボストンやフィラデルフィアへ感染を広げたとされた。


 なお当時、カナダ西部では中国人に対する反感が強かったため、バンクーバーから労働者を運んだ列車は隔離されていたという。

中国人労働者は有刺鉄線に囲まれたキャンプに閉じ込められ、特別鉄道護衛隊が彼らを見張っていたが新聞が彼らの動向を報道することは禁じられた。


 さらに3つ目は、ジャーナリストのジョン・バリー氏が1918年1月にアメリカ・カンザス州ハスケル郡でインフルエンザのような病気が小規模ながらも発生していたことを伝えており、これが軍事基地での流行に繋がったとしています。


 そもそもスペイン風邪の症例が正式に記録されたのは1918年3月4日アメリカ・カンザス州の軍事基地でのことですが、しかし初期のインフルエンザの症状は人には現れないことがあるので、最初に感染が報告されたAlbert Gitchellが患者第一号ではない可能性は大いにあるとのことです。


 ここでも世界中どこにでも居る中国人出稼ぎ労働者の存在が重要なファクターとなる。

当時アメリカでは大陸横断鉄道が建設中で、多くの中国人労働者が中国本土から出稼ぎしていたが、その中に先に述べた件の感染者がいたのではないかというのだ。


1882年、

アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が、カンザス州アッチソンからニューメキシコ州デミングまでの路線を完成させ、東部とロサンゼルスとをつなぐ第二の路線となった。

1919年、

サンディエゴ・アリゾナ鉄道がジョン・スプレッケルズによって完成され、サンディエゴと東部を直接結んだ。


 まあ、4つ目のOlsonらによる研究では、パンデミック以前にすでに流行した形跡があったニューヨークで発生したと発表されていますが。



▼予防のマナー:まるで成長していない……

 当時の予防法は、基本的には現代と変わりはない。

「感冒の注意書き 昨日警視庁から発表」という記事には、当時、衛生行政も受け持っていた警視庁がまとめた予防策が書いてある。


・1919年2月5日付「(1)多くの人が集まる場所に行かない(2)外出する時はマスクをする(3)うがい薬でうがいをする(4)マスクをしない人が電車内などの人込みでせきをする時は布や紙で口と鼻をおおう(5)せきをしている人には近寄らない(6)頭痛・発熱・せきなどの症状があるときはすぐに医者に……」。


 1920年1月19日付には「家庭に備える流感退治の薬品」としてマスク・うがい薬・水枕などをあげたが、「マスクはどの店でも品切れ続きだ。悪徳商人が粗悪品を売ったり、大幅値上げをしたりしている」という。


・1920年1月3日付「電車内の禁制に感冒予防の一項」という記事がある。

警視庁が、電車内の禁止事項(たんつばをはく、太ももを露出する、たばこを吸う)に、新たに「手放しのせき」を加えるという。


 福永衛生部長は言う。

『市民の衛生についての自衛的観念が乏しいのは驚くほどだ。マスクを着けている人は何人もいないし、恐るべき伝染病の感染を放任している』


・1920年1月17日付、読者投稿欄には東京の市電について「閉じられるべきは乗客の口で、開かれるべきは電車の窓だ」という意見が載った。


 なお、マナーは簡単には改善されなかったと言う。

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