逃避、それは愚かかもしれない

 ボクがへたり込んだ足元を覗き込めば、この宇宙船から吐き出される青白い煙と、良く分からない星形の何かを放出しているさまと、その隙間から見えるどす黒い色をした地上が良く見えるのです。

 ユーリイ・ガガーリンは宇宙から見た地球について、”地球は青かった”といったらしいが、まだ宇宙からではないもののここですら見える地球は青色ではない。むしろ赤黒いと言った方が正しいくらいの色合いをしている。

 もうボクらが知っている9.8という、中途半端な数字は大きく変化しているのだろうけれど、辺りはまだ暗黒の空でない。けれど、もはや地上の建物などは目を凝らさなければ見ることの出来ない、ただの点のようになってしまった。


「さて、そういえばガガーリンは神は居ないと正教の総主教に言ったらしいね」

 あれから、揺れが収まったのを見計らって、何も言わなかった彼女がようやくしゃべり始めた。意味の分からない状況と、遠くへ消え去ろうとしている我が故郷の様子に、思わず声を出そうとして、舌を幾度となく噛んだので、賢いと言えば賢いのでしょう。彼女のやっている行為は誘拐ですが。

 しかし、これまでの表情とは違い、なにか彼女は思い悩むような、喉に何かがつっかえたかのような口調で、少しか細い声でそう聞きました。


「じゃあキミは空には神がいると思う?」

 一体今更、何を言っているのか。これだけファンタジー成分が多く込められた今の状況を鑑みて、もはや神がいないと断言していたかつての常識など等に消え去っていました。もしかすると神は居るのかもしれない。ボクがそう軽く答えると、彼女はおかしそうに笑いました。


「地球はあんなにどす黒かったのに、神がいると思うんだ」

「……じゃあ、そっちは居ないって思うのかい?」

 気付けば、もう辺りは暗くなっていて、あたりには霜が付き視界も徐々に曇ってきた。大気圏を通過するときの凄まじそうなあの摩擦熱と言うものも見ることが出来ず、どうやら分類上は宇宙に到達したのだと彼女は一つ呟いた。ボクにとっては並々ならぬ事実も、彼女にとっては今の会話の方が重要度が高いようなのです。

 そのまま彼女はその事実にはあまり触れることなく続けるのです。


「いや、絶対にいないとは私も思っていないよ」

 いろいろと疑問ばかりが生じる返答。先程ボクの返答にお腹を抱えながら、少々下品なまでに大笑いしていた彼女のくせに、自身は神がいないとは思ってもいないのは、意味が分からない。思わず少し、ムッとする。

 けれど、その行動が彼女の何かに触れたそうで、どこか愁いを帯びた表情に、こちらを馬鹿にするような、笑みが浮かんできたのです。


「でも、いたとしても、ろくでもない存在だとは思うさ」

 9.8が懐かしい、そんな風に思う時が来るとは思わなかった。ほんの少しの行動だけで、浮かび上がるような感覚に包まれ始めたその違和感に、ボクらの桎梏を、計算が面倒だったそれが失われて行くのを実感するのです。

 現実離れして、実際にあのどす黒い故郷は本当に遠くへ行き、常にボク自身の行動へ干渉した物さえもなくなって行く、何となく変な気分がする。


「だって世界は救いがないんだもの」

 そうして見えてきた宇宙は、それこそボクが思っていた暗黒の世界ではなく美しい物。

 ねじが外れた彼女とただ二人、他には誰の目も、誰のことも気にすることもない、停滞した孤独がボクらを包み、そしてただ、ボクは美しいそれにただ見惚れていたのです。

 もう地球には戻れないかもしれない、そんな考えが頭をよぎっても、今まで感じたことのない漠然とした安寧と安心に、身を委ね、ただボクはそれをずっと、見続けていたのです。

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9.806 65 m/s^2 酸味 @nattou

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