岩瀬基樹と堤昌親、ついでに鮎川哲也

神山雪

第1話

2014年、3月。


埼玉県さいたま市は桜の気配を感じ取りつつ、未だに肌寒い。春の到来と冬の名残は表裏一体だ。春物のコートでは防寒できないときもある。


しかし今、俺が座るさいたまスーパーアリーナはある種の熱気に満ちている。超満員の客席。彼らから一心に注目を受けるのは、電力と水で人工的に作られた氷の上を滑る、6人のアスリート。

今シーズンの世界一を決める最後の戦い。


「さあ、氷上では、男子シングルフリーは最終組の6分間練習が行われています。如何ですかね、堤さん。誰が表彰台に立ってもおかしくない、理想的な状態です」


 口元のマイクを確認する。さっきずれていて入っていない気がしたのだ。


「そうですね。五輪終了後の世界選手権ということで疲れも出てくる頃ですが、そんな疲れも感じさせないほど、選手の皆さんは意欲的な演技を見せてくれます」


時節の挨拶のような言葉が俺の口から出る。解説の仕事をするとき、浮いているな、といつも思うのだ。どうせなら「お疲れサマンサ!」とか言いながら始めたい。無理だけど。お茶の間に向けてそれなりに真面目に喋らないといけない。


実況は、俺が解説の仕事をするようになってから、コンビを組むことが多い西山翔生さん。テレビ関東のアナウンサーで、スポーツ、特にフィギュアについて造詣が深い。俺の引退試合になった05年の全日本も彼が実況してくれた。初めて解説の仕事を引き受けたとき、西山さんは、あなたの最後の演技が好きだ、一緒に仕事ができて嬉しいと、身に余る光栄な言葉をくれた。


6分間練習では各々がウォームアップをしている。俺は各選手の様子を見ながら、手元にある演技構成表を確認する。


神原出雲、日本。クワドはトウループとサルコウの2種類計2回。彼とは岩手にいた時に少しだけ一緒に練習した。あの時幼稚園児だった出雲が、世界のメダルを狙える選手になったことが感慨深い。キリル・ニキーチン、ロシア。彼はトウループが2回。ソチ五輪をわりと最悪な事情で逃した彼は、その屈辱を晴らすかのようなショートプログラムを披露した。フランスのフィリップ・ミルナーは元世界王者、アメリカのネイト・コリンズは元メダリスト、新進気鋭の若手である中国のチャン・ロンと実力者が続く。


先月ソチ五輪で見事に金メダルを獲った溝口達也が出場していないのは、残念なところだ。


「この大会で引退表明している岩瀬選手ですが、ショートでは見事な演技を見せてくれました」


「そうですね。怪我が心配されていましたが、この大会では全体的に安定しています」


目の前で、岩瀬基樹が綺麗なトリプルアクセルを決めた。歓声が上がる。彼のジャンプは全体的に変な癖がなくて、見ていて気持ちがいい。エラーもなく、ルッツの時に構える癖もなければ、アクセル以外のエッジジャンプの乱れも見ない。


今年26歳になる彼は先月のソチ五輪にも出場した。165cmは男子の中では小柄な方だ。しかし滑りから出る迫力は、身長とイコールで結べない。特に今季のフリーは彼の代表作になると断言できる。


……彼はデヴィッド・フィンチャーが好きなのだろうか。この手の映画を競技用のプログラムに持ってくるのは結構珍しい。もし選んだのが彼自身なら、諸手を上げて賛辞を送りたい。クワドは1つ。怪我を気にしてだろう。


残り1分になると、1番滑走の選手はリンク脇によって指導者と最終確認を始める。時間になると、第1滑走者以外の選手が一旦リンクサイドに吐き出された。


「さて、氷上では6分間練習が終わりました。男子フリースケーティング、最終グループが始まります。第1滑走は、日本。岩瀬基樹選手。ショートプログラムは5位からのスタートです」


西山さんの実況と会場のアナウンスがかぶる。淀みなく進む実況とともに、岩瀬選手がリンク中央に向かう。拍手とともに、ファンと思しき女性の絶叫が聞こえてきた。


「プログラムは『セブン』。これが現役最後の演技となります」


狂気が始まる。

……そして彼は、4分半で見事に七つの大罪を見せ切った。





全ての演技、表彰式や公式記者会見が終わり、ホテルに戻った時には11時を過ぎていた。コンビニで買い物を済ませ、駅前の閉店間際のドトールでコーヒーとカフェオレをテイクアウトする。ホテルは、メトロポリタンさいたまという、テレビ局が用意してくれた高級ホテルだ。さいたまスーパーアリーナからは歩くと少し時間が掛かるが、熱気に当てられた体をちょうど良く宥めてくれる。


五輪直後の世界選手権は、有力選手が出場しない場合が多く、少しの寂しさを感じるものだ。しかし、そんな寂しさよりも、これからの4年に向かっていく選手も多いからだろうか。若い才能は強い煌めきを放って、ベテランは熟練の技と彼らにしか持ち得ない個性で強烈に踏ん張っている。あの中に、達也がいたらもっとわくわくしただろう。それだけが残念だった。


フロントで鍵を受け取り、お連れ様はもう戻っていますと伝えられる。よかった。それなりに夜も更けているし、もう寝ているかもしれないなー、したらカフェオレは俺が飲むかと思いながら鍵を回す。


「……良い子は寝る時間な気もするけど」


部屋は明るかった。窓辺に座る彼に、ドトールで買ったカフェオレを渡す。風呂には一応入ったようで髪の毛が生乾きだ。


「あんなのたくさん見た後です。そういう気分にもならないんですよ」


ありがとうございますと言って彼ーー鮎川哲也はカフェオレに口をつける。熱っぽいような、少し呆けたような。いい映画を見たときの充足感、という顔をしていた。


3週間前の、世界ジュニア選手権。

内弟子の鮎川哲也が出場し、初出場ながら優勝を果たした。


しかし本人はフリーの内容を不甲斐なく感じたようで、彼の中では優勝した嬉しさよりも、自分の演技に対する悔しさの残る大会になってしまっていた。2位の選手と総合得点で0.17しか離れていなかったのも彼の悔しさを増長させたようだ。


流石に帰国後も渋い顔していたのが気になり、気分転換でもした方がいいと思っていた矢先、テレビ局から世界選手権の解説の仕事が入った。


俺はすかさずテレビ局の人に、チケットの空き状態を知らないか聞いた。どうせならスーパーアリーナ席がいい。トップ選手の滑り、エッジの傾き、息遣い、迫力までダイレクトに分かる場所。チケットサイトは完売状態だったから、ほとんどダメ元だ。すると局の人は、スーパーアリーナ席が少し空いている、と教えてくれた。


そうして手に入れたチケットを、俺は哲也に渡した。トップ選手の滑りが一堂に会するまたとない機会だ。気分転換でもあり、頑張って世界ジュニアを優勝したお祝いでもあり……。


何よりも勉強になり、現実を突きつける意味もあった。


これから君が目指すのはこの中だから。前の試合のことをいちいち引きずってもいられないと。


……メトロポリタンさいたまを自力でとるのが取るのが面倒だったので、もう一部屋取らずに、テレビ局にシングルからツインにして2人分宿泊代を出してもらったのは、ここだけの秘密だ。


「で、どうだったよ?」


「……いろんな演技が頭の中で回ってます。どの選手も凄すぎて」


カフェオレを飲みながら、哲也はこの大会の感想を語った。リンクの広さ、熱気、その中で演技をするにはそれなりの精神力が求められる。あの選手のここがすごい、このジャンプがすごいと。1つ1つの言葉は短いが、熱がこもっている。勉強にも刺激にもなったようで何よりだ。


「でも1番印象な残ったのはあれですね」


「あれってなんだい」


「あれですよ」


「痴呆老人じゃないんだから、ちゃんと言って欲しいなあ」


「……言葉にすると思い出しそうなんですよ。寝たらなんか、出てきそうだし」


「何が」


しばしの沈黙の後、セブン、と哲也は小さく呟いた。


呟いた顔は、少し青く引きつっている。さっきの熱量はどこへやら。……どうも、岩瀬基樹が演じたあの狂気に当てられたらしい。……ん? ちょっと待て。


「……そんなに怖かった?」


哲也は顔を背けて何も答えなかった。……無言の肯定だ。思い出すだけで恐怖を感じるようだ。


そういえばこの内弟子は、スプラッタ、猟奇殺人、サイコホラー系のドラマや映画が苦手だった。人間の悪意が起因する猟奇殺人を見ると、精神的にダメージを受けてしまうようだ。以前、俺が大好きな海外ドラマの「クリミナル・マインド」を居間で休みの日に見ていたら15分ぐらいで顔が青ざめてたっけな。一応最後まで見てたけど、その日の夕飯で哲也は肉が食えなかった。本人は力の限り否定するだろうが、感受性が高いのだ。……それとは別に、流石に14歳の男の子にクリマイはハードコア過ぎたと俺は反省した。


あの4分半、岩瀬基樹は猟奇殺人犯を追いかけるブラット・ピットではなく、猟奇殺人犯そのものだった。映像ではなく実物を間近でみると、迫力は桁違いに上がる。映画の内容を知らない人でも、あの「セブン」はさぞかし恐ろしく感じただろう。もし世界選手権に、表彰台とは関係なく氷上アカデミー主演男優賞なんてものがあったら、今大会では間違いなく彼が選ばれる。少なくとも俺は、是非、彼にオスカーを渡したい。


俺は哲也に改めて向き合った。


「もし彼の演技が恐ろしいと思ったなら、その感情とともに、彼の演技をよく覚えているといい。なにが見えたか。どういう風にジャンプを飛んでいたか。スピンの形、間の取り方、エッジの傾き具合を、よく心に刻んでおきなさい」


「どうしてですか」


「それだけ彼が力のある、本物のスケーターだってことだからだ。意味はわかるね」


哲也は真剣な顔で頷いた。……苦手はともかく、演技一つであれだけの恐怖を思い起こせるのだから、彼も凄いスケーターだ。投げられた花束の量は、氷上を埋めつくさんほどだった。皆まるで、犯罪者に恋したみたいだ。


本当は別にも理由はある。

演技に込める思いは多大にあれど、1シーズンにプログラムは数百も生まれていき、短いもので半年、長いものでも2年で終わっていく。

そしてフィギュアスケートの選手生命は、決して長くない。


刹那的な選手生命の中の、さらに刹那的な存在が、スケーターが演じる1つのプログラムだ。


それでも、なるべくなら多く、長く、見る人の心にとどまっていて欲しい。埋もれずに、流されずに。そう思ってしまうのは、スケーターという人間の性だろう。

彼に花を投げた人も、画面越しでも恐ろしく感じた人も。等しく彼の演技を覚えていてくれればいい。


……まあ、そういう切実さは、まだこの子にわからなくていいか。哲也には今は、前だけを向いていて欲しいしね。

そう思いなおし、素直に頷いた弟子に満足する。


「俺はまだ起きてるけど、哲也はもう寝なさい。君が寝るまで、電気はつけておいてあげるから」


「そこまで気遣って頂かなくても大丈夫です。……先生は何するんですか」


「うん、コレ」


コーヒーを飲み干し、コンビニの袋から取り出すのは、エビスビールと野菜のスティック。それに、ナンコツの串。コーヒーとビールの順番が逆な気がしたが、コーヒーは熱いうちに飲むに限るので問題はない。


「ずっと喋りっぱなしで喉渇いちゃったからねえ。腹も減ったし。酔っ払いに絡まれたくなかったら、さっさと寝なさいね」


「……そうします」


哲也はそこでおとなしく布団に入った。


ビールのプルトップを開けながら、俺は再び、先ほど氷上に別れを告げた日本代表の後輩を思った。


全日本やソチの時より、全体的な演技の質が上がっていた。何より感心したのは、ジャンプだ。それはミスなく決められたことではなく、クワドで猟奇殺人鬼の本性を、7つの3回転で彼が行なった7つの殺人を克明に描いていたことだ。怪演。そんな単語がよく似合う演技だった。


惜しいな、と本当に思う。


俺が引退した05年の全日本に、彼も出場していた。あの時の彼は、将来有望な10代の少年の1人だった。


  実は岩瀬基樹とは、一度もまともに話したことがない。よくて大会ですれ違って、簡単な挨拶を交わした程度。だが、それでも彼は俺の大事な後輩の1人だ。


彼はこれからどうするのだろうか。演技終了後の顔は、やりきったとも、終わってしまったとも言える感情を孕んでいた。怪我がなければ、来期も十分戦えただろう。いつだって、俺たちスケーターが1番望むのは、永久に氷の上で滑れる身体だ。


プロになるのか、指導者になるのか。それとも全く違う道を歩いていくのか。


ビールとナンコツの串を味わいながら、彼が氷の上から離れることは、ないような気がしてきた。あれだけ滑れた選手だ。本人よりも、周りが放っておかない。


もしかしたら早いうちに、俺と同じ穴のムジナになるのかもしれない。


鳥とビールの合間に、野菜のスティックをぽりぽり齧る。


 ……もし彼と会う機会があれば、酒でも持ってゆっくり話したい。西山さんが実況で言っていた。セブンは岩瀬選手自身が選んだのだと。本当にフィンチャーが好きなのかもしれない。フィンチャーなら、俺は「ファイト・クラブ」や「ソーシャル・ネットワーク」も好きだ。「ドラゴン・タトゥーの女」は原作も好きだし、映画も最高だった。色々とあるけれど、まずはこれを伝えよう。


 君の最後の演技、最高だった。直接見送れて光栄だったと。


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岩瀬基樹と堤昌親、ついでに鮎川哲也 神山雪 @chiyokoraito

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