後編
いつもの公園は、ぽかぽかしてしんとして、間抜けなくらい平和だ。私は滑り台の上で、ぽっかりした雲を眺めていた。
家には、帰れなかった。玄関で声をかけようとして詰まった。ママに何て言えばいいだろう。教室に置いたままのランドセル、揚げパン。家庭訪問すると言った校長先生の厳しい声。青ざめたママの顔が浮かんで、どうしてもドアが開けられなかった。
もう、どのくらい経ったか分からない。
「唯は、私の宝物」
そう言って微笑んだママ。
「『唯』って漢字は『ただ一つの』っていう意味なんだって。ママの大事な宝物。そう思って、名前をつけたの」
いつか名前の由来を聞いた時、そう言っていた。
ぽたんと涙が零れた。俯くと、土で汚れた上履きが目に入った。
空は今日もどこまでも青い。まるで何も無かったみたいに。
ゆっくり足音が近づいてきた。
「唯ちゃん」
土屋さんの声。顔をちらりと向けると、薄青ねずみ色のジャンパーでニコニコ笑っていた。いつもと違って、私が上から見下ろす形だ。
「家に行ってたんだ。お母さんから連絡があってね」
「ママから?」
びっくりして大きな声が出た。
ママ、土屋さんに電話できたんだ。
「財布落としたって聞いたよ。どうするか話し合ってたら、学校から『唯ちゃんがいない』って電話があってさ。お母さんがすごく心配してるから、とりあえず近くを探してみるって出てきたんだ。靴があるから校内にいるだろうって話だったけど、ビンゴだったな」
「……ママ、怒ってる?」
「怒ってないよ。心配してるだけ。さ、帰ろう」
「……家に、帰れる?」
土屋さんは私を見上げた。泣きそうになるのを堪える。
「ママと一緒にいられる?」
そよそよと風が吹き抜けていく。土屋さんはいつもみたいに笑った。
「そうだよ。そのために俺は来たんだから」
玄関のドアを開けると、青ざめたママが立っていた。泣き腫らした顔に、ぽろぽろ涙が零れだす。
「唯!」
ごめんなさいを言うより早く、ママに抱きしめられた。あたたかなママの匂い。固くなっていた体が、溶けていくような気がした。
「はい、見つかりました。ご心配おかけしました。ありがとうございます」
土屋さんが学校に電話を架けているのが聞こえた。ふぅ、と溜息をつく。
「さて、じゃあ話の続きですけど。やっぱり、保護課に相談に行きませんか。俺も一緒に行きますから」
ママの体が強張るのが伝わった。頭では分かっていても、気持ちがついていかないのだ。怒鳴りつけた自分が甦り、怒りと後悔で動けなくなってしまう。
分かっているけど、聞いてみる。
「……私が行くんじゃ、ダメ?」
「ダメだろうなぁ」
強張ったママの顔を見て、土屋さんは顎に手をやった。にやりと笑う。
「じゃ、何か売ります?」
「そんなことできるの!?」
「不用品を売ったってことなら保護課も収入認定しないでしょ。高く売れそうなものないかなぁ」
土屋さんはぐるりと部屋を見渡す。ママはぽかんとしている。私は思いついて叫んだ。
「こないだ買ったマイナスイオンのドライヤーは? まだ新品みたいだし!」
「ドライヤー?」
「ママが電器屋さんで買ってきたの。本当は電球を買いに行ったんだけど、衝動買いしちゃったの」
ちょっと、と怒るママは無視。土屋さんを洗面所に連れていく。洗面台の扉からドライヤーを取り出していたら、突然笑い声がした。
「どうしたの?」
「なぁ、電球って……ここの電球? もしかして」
「そうだけど」
土屋さんがひょいと背伸びして、洗面台の上に手を伸ばす。
「財布ってこれ?」
差し出された手の中に、ママの黒猫がいた。私は息を呑む。後ろから覗いていたママが、叫び声を上げた。
「嘘! どうして?」
「電球変える時、間違えてここに置いちゃったんじゃないですか」
「なんで……」
「わかんないけど。まぁ、見つかったからよかったじゃないですか」
ママはボーゼンとしている。私もへなへなと座り込んだ。あれだけ二人で探したのに。悩み続けた日々は、何だったんだろう。
「3人寄ればってやつですよ。三石さんだけで悩まないで、何かあったら言って下さい。俺だって、少しは役に立つこともあるでしょ」
ママは俯いたままだ。土屋さんは、ママの前にしゃがみこんだ。
「ねぇ、三石さん。前から月末になるとやり繰り困ってるでしょ。試しに金銭管理やってみませんか。あんまり難しく考えなくていい。1週間ごとの生活費を封筒に入れておくだけ。封筒のお金でやり繰りすれば、最後までちゃんとおかずが食べられます。俺も一緒に考えますから」
「なんでそんなこと……」
ママの、普段と違う固い声。私はママを見上げた。強張った顔。ママは計算が苦手だ。不安なんだと思った。
「ママ、私も一緒にやるよ。大丈夫だよ」
声をかけると、ママは驚いたように私を見た。ママの手を握りしめる。
「土屋さん、また来て。来週ホゴヒだから」
「うん。三石さん、また寄らせもらいます。じゃ、今日はこれで」
黙ったままのママを残して、土屋さんを玄関まで見送る。靴を履いた後、土屋さんは振り返って私を見た。
「唯ちゃん、よく頑張ったな」
「……そんなこと無いよ。お財布、見つけられなかったし」
俯いたら、ぽんぽんと優しい手が頭にのった。また涙がにじみそうになる。
「こども扱いしないでってば」
「こどもでいいんだよ」
土屋さんはしゃがみこんで、私と瞳を合わせた。
「こどもでいるっていうのは、大事なことだ。急いで大人になろうとしなくていい。ママを、一人で守らなくていい。困った時は言っていいんだよ。皆で考えよう」
私は返事ができない。
そうかな、本当にそうなのかな。
真由子先生の困り顔。校長先生の怖い顔。財布を見つけた土屋さんの笑顔。
私は考え込んでしまう。
「何かあったら、区役所においで。すぐ近くだろ」
「用事も無いのに行っちゃダメだよ」
「あるよ。俺に会いに来ればいい。12番窓口にいるから」
じゃあな、と笑って土屋さんは出ていった。ぼうっとしていたら、いつの間にかすぐ近くにママが立っていた。そっと私の肩を抱く。
「夕飯を買いに行こう」
私は頷く。ママの手をしっかり握った。
ママの育児日誌を引っ張り出す。
ひらがなばかりのママの文字。いろんな人達のメッセージ。
二度と関わらないでください。そう言いながら、ママはこれだけの人を受け入れてきたんだな、と思う。私を育てるために。
一人では出来ないとしても。誰かに助けを求められたなら、それも強さなんじゃないのかな。
私は瞳を閉じる。お祈りするみたいに。
明日も、その次も、ずっと、ママと生きていけますように。
月曜はいつも憂鬱だけど、今日はさらに憂鬱だ。私は溜息をつく。教室の皆の視線が怖い。
真由子先生は、金曜ランドセルを持ってきてくれた。謝ったら、いつもみたいにふんわり笑ってくれた。ママはかちこちだったけれど、一緒に頭を下げてくれた。
回れ右したくなるのを我慢して、キレイに洗った上履きを出す。教室には真由子先生がいる。きっと、私を待っていてくれる。
「三石さん、おはよう」
柔らかな声に振り向くと、教頭先生だった。おいで、と手招きする。教室に向かう皆の流れに逆らって、辿り着いたのはあの日のプランター。
教頭先生が指さした先には、新しいプランターがあった。
「間引きした芽を、植え替えたんです」
私はしゃがみ込んで覗き込む。ひょろひょろした芽は、土の中にしっかり根付いていた。
「……ちゃんと育つかな」
「どうでしょうか」
教頭先生も私の隣にしゃがみ込んだ。一緒に芽を見つめる。
「育ちにくいかもしれません。でも、ひょろっとして弱くても、生き延びた命です。逆境に負けない、強い力を秘めているかもしれません。大事に育てていきましょう」
私は頷いて立ち上がった。教頭先生に笑顔を向ける。
「いってきます!」
もうすぐ始まりのチャイムが鳴る。今日も空はどこまでも広くて、青い。
きっと、私の生きる場所はある。
此処で、ママと私は生きていく。
<終>
二度と関わらないでください プラナリア @planaria
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