夜、明けて朝

南雲 皋

どこにいても、いなくても

 あれは、二学期の中間テスト前。

 僕は一夜漬けとまではいかないものの、夜中まで教科書の単語を詰め込んでいた。

 開け放った窓、回る扇風機。

 こんな気温の中で勉強したって、何も身に付かないと思う。

 今回のテスト範囲、最後のページを読み終えた僕は、世界史の教科書を閉じ、喉の乾きを覚えて部屋を出た。


 玄関から続く廊下。

 両親の寝室の扉は締め切られている。

 僕にはクーラーを使いすぎるなと言うくせに、二人はいつだって涼しい部屋にいた。


 広くもないリビングの一角、青白い光に照らされたグッピーたちが泳いでいる。

 ブーン、ブーンと、水をろ過する音だけが響く。

 僕も水槽に飛び込みたい。

 背中に滲んだ汗が、肌を伝って落ちていく。


 父も母も、眠っている。

 僕だけが、起きている。


 冷蔵庫の中、普段ならあるはずの麦茶はなくて、流しに空っぽの容器が転がっていた。

 水道水を飲む気にはなれない。

 はぁ、と一つ溜息を吐いて、僕は自分の部屋に戻った。


 僕は財布を持って、全身鏡を確認する。

 Tシャツ、短パン。

 完全なる部屋着だけれど、誰に会うでもない真夜中だ。

 僕はそのままスマホをポケットに入れて、静かに家を出た。


 マンションの、五階。

 玄関を開けると、生ぬるい風が身体を撫でる。

 同じ扉がいくつも続く廊下は、蛍光灯に照らされている。

 エレベーターに乗って、住宅街。

 家から一番近い自動販売機には、僕の好きな炭酸飲料は置いていない。

 目的の自動販売機は、少し歩いたところにある丘の上の公園にあった。


 目的地に到着するまで、誰ともすれ違わなかった。

 まるで世界に僕だけしかいなくなったみたいな、そんな感覚、

 日を跨いでから、長針は何度上を向いただろう。

 もうすぐ、三回目。

 しゃわしゃわと夏の音がする。

 時折、りーんりーんと聞こえるのは、秋の先触れなのだろうか。


 自動販売機の周りには、薄い色した小さな蛾たちが飛び回っていた。

 買いたい物のボタンの上に、誰もいなくてよかったと思う。

 ガコンと勢いよくペットボトルが落ちるのに、彼らは何も感じていないみたいだった。

 ひんやりとしたペットボトルが手に吸い付く。

 すぐにだらだらと汗をかいて、温くなってしまうだろう、この熱帯夜。


 早く飲みたいのだけれど、まだ蓋を開けることはできない。

 吹き出してしまうことがなにより嫌なのだ、僕は。


 だから少しだけ、公園を歩くことにした。

 そこで、見付けてしまった。

 見付けてしまったのだった。


 この夜を生きている人を。


 しかもそれは、クラスメイトだった。

 二年生になって同じクラスになった、並木なみきこひと。

 不思議な名前をしたその女子のことは、一年の頃から知っていた。

 何故かといえば、生徒会に立候補していたから。


 募集人数ぴったりだったから、信任投票でしかない生徒会選挙。

 それでも演説をしなければならない彼らは、体育館の舞台の上でより良い高校生活についての理想を話していた。

 話の内容は、何一つ覚えていない。

 ただ変わった名前だったから、なんとなく覚えていた、それだけ。


 その彼女が、ベンチに座っていた。

 何をするでもなく、前を向いて、ただ、座っていた。

 視線の先には、丘の下。

 この時間になっても眠らぬ繁華街のネオン輝く、それほど美しくない夜景。


 僕は声をかけようか悩んで、やめた。

 彼女に背を向け、ペットボトルの蓋を捻る。

 ぷしゅうと息を吐いて、炭酸飲料は僕の中へと住処を変えた。





 次の日、登校した僕は無意識に彼女を探した。

 彼女はホームルームギリギリに、数人と一緒に教室へ入ってきた。

 何か楽しいことでもあったのだろうか、笑顔で。


 彼女の席は僕の斜め前。

 机の横にカバンをぶら下げ、ブラウスの端っこを掴んでぱたぱたと風を送っている。

 そのブラウスを飲み込むスカートは、切られてしまって短くなっていた。

 スカートを折り曲げて短くするタイプの女子と、布地をカットしてしまって短くするタイプの女子がいて、彼女は後者だったという訳。

 切られたスカートの布地は、もう燃やされてしまっただろうか。


 その日は一日、さり気なく彼女を観察してみたけれど、何も分からなかった。

 彼女には同じクラスに三人仲のいい女子がいて、大抵はそのメンツで固まっている。

 今でも彼女は生徒会で、確か今は書記だったと思うのだけど、昼休みには生徒会長が訪ねてきたりもした。

 彼女が赤点を取ったという話は聞いたことがないし、体育の授業で困ったことになっていることもない。

 彼氏がいたという話は聞こえたことがないが、僕の世界の外側で、誰かにフラれたりしたのだろうか。


 分からなかった。

 彼女がどうして、あの時間、あの場所にいたのか。


 分からないまま夜になって、僕はまた、真夜中に家を抜け出した。



 その夜も、彼女は同じベンチに座っていた。

 昨日と同じ何もせず、ただただ、座っている。

 昨日と同じ蒸し暑さの中。

 僕も昨日と同じ、やっぱり声なんて掛けられずに、公園をあとにした。





 それから殆ど毎日、僕は真夜中に飛び込み続けた。

 その度に彼女を見付け、その度に彼女を見捨てて朝を迎えた。


 僕が彼女に声を掛ける気になったのは、空っ風の吹く師走の初めのことだった。


 その日の夜は曇り空で、月も見えなかった。

 僕はダウンジャケットの前をしっかりと閉め、いつも通りのルートを辿る。

 僕と彼女以外誰もいないはずの公園に、その日はもう一人、人間がいた。


 いわゆる不審者と呼ばれる類のその男は、トレンチコートに便所サンダルという不可解な出で立ちで植え込みの陰に隠れていた。

 チラリと覗くすね毛の生えた細い脚は、コートの下の産まれたままの姿を容易に想像させた。


 僕はスマホを取り出し、顔認証でロックを解除しながら、さもそれが当然であるかのように彼女に近付いた。



「ごめん、待たせて」


「!?」



 眉間に皺を寄せて振り返る彼女に、素早くスマホの画面を見せる。

 開かれたメモ帳には、“不審者が植え込みの陰にいる“と打ち込んでいた。

 彼女は視線をほんの少し僕の後ろに向けたあと、にっこり笑って僕を見た。



「びっくりしたぁ、いきなり後ろから声掛けないでよ! それに、もっと早く来てよね」


「うん、ごめん」


「…………はぁ。不審者、逃げたみたい」


「あぁ、良かった……ごめん、並木さん」


「ううん、ありがとう野屋のやくん。あれ、露出狂かな? そーゆー人、いるんだねぇ」



 緊張で、喉が痛い。

 気持ち悪くなかっただろうか。

 僕こそが、不審者でなかっただろうか。

 彼女の反応を見るに、大丈夫そうだった。

 僕は家族以外とほとんど話さないから、こういう時にどうしたらいいか、分からない。


 それから僕らは、自動販売機で温かいココアを買った。

 夏の頃にはあんなにいた蛾も、いまは姿を見掛けない。

 風が吹く。

 転がる枯葉がカサカサと音を立てる。

 冬の空気は鋭くて、ココアを持つ手のひらだけがじわりと柔らかい。

 彼女は、僕に当たり障りのない話をした。

 夜と朝の狭間。

 暗闇が滲み出す頃には、僕はそれなりに話せるようになっていた。

 今しかないと思った。

 僕が彼女とこんなにも話せるのは、きっと今しか、ない。



「ずっと、真夜中に、何をしてたの」


「……ストーカー?」


「……最初に見たのは、二学期の中間テストの前だった」


「ストーカーだ」


「ち、違う。だって、気になって……」


「何もしてない」


「え?」


「何も、してないよ。ただ、朝を待つだけ」



 そう言う彼女は、僕を見ていない。

 僕の向こうの、夜を見ている。

 消えゆく夜を、追い掛けている。



「知ってる? 何をしてもしなくても、朝は来るんだよ」


「……当たり前じゃん」


「ホントに分かってる?」


「うん」


「いい日でも、嫌な日でも、夜が来て、朝が来て、明日が来て、今日になるの。何かが始まれば、絶対に終わりが来るみたいに、今日も絶対に明日になるの。終わりが、近付いてくるんだよ」


「……なにか、悩みでもあるの?」


「ない」



 少しの苛つきを孕んだその言葉は、一瞬で消えた。

 僕は繁華街を見つめる彼女の視線を追い掛け、白く長い息を吐いた。



「私、普通なの。むしろ、恵まれてるかも」


「うん?」


「家族、いるし。それなりに仲良いし。お小遣いももらえる。友達もいるし、勉強もまぁ、できなくはないし。運動神経も悪くないと思うし、生徒会だから内申点もよさそうじゃん?」


「うん」


「でも、なんでか生きにくいの。息が、しにくいの。毎日」



 彼女の唇からは、白い息は出ない。

 ココアを飲んだあとも、てっぺんの少し赤い鼻から息をしているみたいだった。



「カナちゃん知ってる?」


「そりゃ、クラスメイトだからね」


「カナちゃんち、お父さんいないの」


「それは、知らなかった」


「私がさ、生きにくい話を、しようとしたこと、あったの。クラスでよく居る、三人に」


「うん」


「でも、途中で、言えなくなった。カナちゃんが、私を羨んだから。こひとは恵まれてるよねって。順風満帆って感じでしょ?って。そんなことないのにさ」


「うん」


「何か、平均点より劣るものがないと、悩んじゃダメなのかな。誰々よりは幸せじゃんって、そんなモノサシ、必要? 恵まれてるからなに。っていうか恵まれてるって、なに?」


「悩み、あるじゃん」


「悩んで、いいの?」


「いいでしょ、別に」


「そ、っか……」


「確かに、並木さんは普通だし、初めて夜に並木さんを見た次の日、何かに悩んでるのかなって並木さんを観察してみたけど、分からなかった。でもそんなのは、僕から見た、並木さんってだけで、ホントの並木さんがどうとか、僕には分からないし」


「うん」


「僕は、あんまり成績が良くなくて、運動神経もよくなくて、家族には恵まれてると思うけど、それだけで、友達も、いないから、テストの前以外はいつもすぐ寝てて、すぐ朝が来て、早く、早く大人になって一人になりたいって思ってたけど、でも、並木さんを夜に見付けてから、僕は、夜の時間が少しだけ、好きになったよ」


「……野屋くんって、そんな喋るんだ」


「ごめん」


「別に謝ることないし。録音しとけばよかった」


「や、やめてよ……」



 彼女はにししと、歯を見せて笑った。

 朝が、目前に迫っていた。

 白む空、澄んだ空気、空っぽの缶は冷たい。



「またね」



 彼女は朝に溶けていった。

 僕に手を振って、帰っていった。


 僕は空き缶をゴミ箱に放り投げた。

 縁に当たった缶は、弾かれてビニール袋の中に落ちる。

 ゴミ箱の中の彼らは、もうすぐやってくる終わりを受け入れているのだろうか。

 これが始まりでも、終わりでも、僕は今を受け入れたけれど。



 もうここで、会うことはないかもしれない。

 またここで、会うかもしれない。



 今日も、夜に向かって、朝に向かって。



 世界は、回っていく。

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夜、明けて朝 南雲 皋 @nagumo-satsuki

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