日雇人魚

井ノ下功

日雇人魚

 

 薄明りの中に、二本足で短パンの人魚が立っていた。


 白い砂浜に、さらに白い素足が半分埋もれている。ショートカットの茶髪が強い浜風に煽られて、大きなピアスと絡まってしまいそうだった。その光景は、他人事ながら、少々不安になってしまう。


(……何を、しているんだろう)


 僕は近付けなかった。人魚は顎を高く上げ、白んできた水平線を睨みつけていた。まるで目の前に、倒さねばならない仇敵がいるかのように、仁王立ちで。僕は彼女の戦いに参加することはおろか、口を挟むことすら出来ない。

 立ち止まってから、ゆっくりと深呼吸を一度だけしたから、たぶん、三秒後に。


 人魚は透明な涙をポロリと落とした。


 僕の目は反射的に涙の行方を追いかけた。それは早朝の光を乱反射しながら、人魚の服の上で跳ねて、あっと言う間に砂浜に吸い込まれていった。

 圧倒されるほど美しい情景に、僕は、かつてのことを――


「あーっ!」


 僕はびくりと肩を震わせて、後ずさった。


「コンタクト落としてもうた! 嘘やろ、もー、ありえへんっ!」


 人魚はそう叫ぶと、探そうとしたのだろうかやや屈みかけて「まぁええか。落としたもんはしゃーないし、どうせワンデーやし」と言って再び背筋を伸ばして、次の瞬間、ぐりんと振り返った。ばっちりと目が合ってしまって、僕は誤魔化すように笑った。それから素早く目を逸らして、仕事場に急ぐ。

 ところが、


「お、なぁなぁ、おっちゃん、この辺の人? そうっぽいな。丁度良かった、ちょっと教えてくれへん?」


 人魚がずかずかと近寄ってきたので、僕は立ち止まざるをえなかった。人魚は、ほのかに赤みを帯びた目で、にっこりと笑った。


「なぁ、あそこの海の家、今日だけうちを雇ってくれへんかな?」

「え? あー……」

「あんなぁ、うちなー、今ちょぉっと金に困ってるんよ。あ、心配せんでも、おっちゃんから金せびろうとは思ってへんで。そこまで落ちぶれちゃあお仕舞や。せやから、一日だけ働きたいねん。実家に帰んのになぁ、軍資金がなぁ、まぁなんや、大人の事情? ってもんがあって、今うち缶ジュース一本も買えへんのよ。な、可哀想やろ?」

「あの……」

「せやから、おっちゃん少ぉしうちに協力してな、あの海の家にうちを売り込んでくれへん? ええやろ? 今ちょうど繁忙期やし、人手はいくらあってもええんちゃう? その上うちみたいな、チョーゼツ美人で喋りも最高のお給仕さんなんて、引く手数多やと思うで? 売り上げ倍増させる自信あるよ。な、協力してくれたらジュース奢ったるから、この通り!」


 缶ジュース一本も買えないんじゃなかったのか、と思いながら、僕はようやく口を挟んだ。


「えっと……いいよ」

「ええのっ? さっすがおっちゃん、うちが見込んだ男や、そう言ってくれると思ってたで! んじゃ早速、」

「僕が経営してる店だし、あそこ」

「へっ? ほんまに? うわぁ、なんちゅうご縁や! めっちゃラッキーやったな、うち! おっちゃんもラッキーやったやろ、こんな可愛い労働力が手に入って! いやぁ、偶然ってあるもんなんやなぁ、これはきっと運命やな、運命! ジャスティス……やない、なんやったっけ? あっ、そうそう、ディスティニーや、ディスティニー。ほんま、良かったなぁ!」


 わー、と謎の歓声を上げて、人魚――のように見えたのは幻だったのだろう。どうやら僕は疲れているらしい。人魚改め関西弁の彼女――は手を叩いて、僕の隣に足跡を付けていく。やけに小さい足跡は、裸足である所為かと思ったが、身長から考えれば妥当な大きさだった。


「君、靴は?」

「靴? 置いてきた。バイク用のシューズに砂入れんの嫌やったし」

「バイクで来たの?」

「せやで」

「じゃあ、店の裏までバイク持ってきな」

「えー、砂まみれになってまうやん!」

「変なところに置いとくと盗まれるかもよ」

「うーん……」


 と、彼女は口を尖らせながら、しばし考えて、「せやな! そしたら、持ってくる!」言うなり、バネ仕掛けの人形のようにポンッと踵を返した。


(まるで夏の塊……)


 僕は飛び跳ねる背中を少しだけ見送った。手の甲で汗を拭う。ポケットの中で店の鍵をいじる。




 店を開けて最初にやることは、窓という窓を開け放つことだ。まだ比較的涼しい朝の内にそうしておかないと、後は暑くなっていく一方だから。

 物置から掃除用具を取り出して、それから僕はスマホを見た。メッセージが二件。バイトを頼んでいる、僕の甥っ子と、近所の友人からだった。甥っ子は『いまおきた』と。友人は『すまん。風邪ひいた』と。僕は、甥っ子のメッセージを無視して、友人には『大丈夫だから養生しろ』と返しておいた。人魚が来てくれていて助かった。運命、という響きは僕が嫌うところだが、巡り合わせ、と言い換えればそう悪くない。


 ふと、地響きのような音が近づいてきた。あの人魚は随分と大きな馬に乗っているらしい。やがて店の裏手で止まったと思ったら、窓の向こうから人魚がひょこんと顔を出した。


「適当なとこ置いてもうたけど、大丈夫?」

「うん、どこでもいいよ。はい、これ」

「おう、箒やな」

「まずは店の掃除から。よろしく」

「はぁい」


 おっちゃん人使うの慣れとんなぁ、などと言いながら店に上がってきた人魚は、やはり裸足のままだった。見かねた僕はもう一度物置に入って、比較的綺麗なビーチサンダルを持ってきた。


「ほら。これ、貸してあげる」

「ほんまに? ありがとぉ!」


 人魚は弾けるような笑顔になって、埃っぽいビーチサンダルをいそいそと履いた。


「ところでおっちゃん、名前は?」

「あぁ、えーと、」僕はどうしてか、一瞬言葉に詰まった。「水瀬、一秋」

「ミナセカズアキ。おっしゃ、カズさんやな。うちは岡部涼美っちゅうねん。気軽にはスズミちゃーんゆうて構わへんよ。今日は一日、よろしゅうお願いします。うち、この通りうるさいねんけど、その分仕事もするさかい、堪忍な」

「うん。手より口の方が動いてたら、叩き出すから、そのつもりで」

「お、カズさんなかなか言うてくれますな。ええなぁ。うち、それくらい容赦なく言うてくれた方が助かりますわ。カズさん結構優秀なお人ちゃう? まぁ、海の家やってるくらいやし、会社勤めには見えへんけど、普段は何やっとるん?」


 怒涛のように喋る人魚だが、それと同じスピードで掃除も進めていくものだから、しばらく見守っていた僕も背を向けた。昨日の客が残していった砂を集めながら答える。


「小さな居酒屋だよ」

「居酒屋! へぇえ、似合いそうやな。カズさんは板前さんやろ?」

「うん」

「凄いなぁ、カズさん。うち、料理はからっきしやねん。自慢やないけど、米を研ぐくらいしかできひんねん。いやぁ、羨ましいわぁ。ここでもカズさんが全部一人で料理作らはるの?」

「うん」

「運びはどないしとんねん。まさか、カズさん一人で回しとるわけやあらへんよな? そう大きくはない店やけど、さすがにそれはありえへんよな?」

「うん。もう一人、バイトがいるよ」

「せやろな! あー、良かったー。いっくらうちが体力馬鹿の有能なタンクや言うても、限界っちゅうもんがあるからな。我が儘言うて雇ってもらった手前、多少の無茶はするつもりやけど、あんまりひどかったら労働基準監督署のお世話にならんとあかんとこやったわ。あ、こっちの掃除終わったで。ゴミはどうしたらええ?」

「そっち。ゴミ袋」

「これやな」


 人魚の喋りがゴミ袋の向こうに消えた。彼女でも口をつぐむことってあるんだなぁ、と少しだけ失礼なことを思った。僕の方も掃除を終えて、人魚が持ったゴミ袋へちりとりを傾ける。食べかすの交ざった砂が、半透明の世界を満たしていく。


「それ、縛っちゃっていいよ」

「はぁい。……なぁ、カズさん、うちって、うるさい?」

「ん? うん」


 さっきから人魚が僕の反応を気にしているのは分かっていたが、僕は素直に頷いた。意味の無い嘘をつくのは嫌いだ。


「あー……やっぱし、そうなんや。分かった。黙るな」

「いや、別に、黙らなくていいよ」

「……ええの? うるさいの、嫌なんちゃう?」

「嫌じゃないし、日中の此処ほどじゃない」


 掃除用具を回収して背を向ける。視界の隅で、人魚が妙にしおらしく笑っていた。




 もう一人のバイトが来たのは、開店時間直前だった。人魚に餌――もとい、簡単な朝食をくれ終わった時で、味の感想をつらつらと並べ立てる人魚の口を閉じさせるのに丁度良いタイミングだった。


「っぁよう……ぉざいあす……」

「おはよう。よく眠れたみたいだね」

「お陰様で……」


 甥っ子は隠そうともせず大きく欠伸をして、瞼を幾度となく開閉させた。それからようやく、人が一人多いことに気付いたらしい。


「……え、誰?」

「臨時のバイト」

「岡部涼美言います。今日一日だけ、無理言うて雇ってもらったんよ。飲食系やったことあるし、足手まといにはならんと思うで。よろしゅう頼んます!」


 甥っ子は人魚の可愛らしい見た目と、威勢の良い関西弁に圧倒されたようで、目を瞬かせながら「あ……あ……はい、えと……高梨、夕哉、です……よろしく……」と、しどろもどろに頭を下げた。起き抜けには確かに厳しい攻撃だったと思うけれど、もう少し覇気のある返答はできなかったものだろうか。我が甥ながら、情けない。


「兄ちゃん何歳? うちとそう変わらんように見えるけどなぁ。あ、二十二なんや。そしたら、ユウさんて呼ばしてもらうけど、ええよな? ところで、さっきカズさんのことおじさんて言うてたね。親戚なん? へぇー、そうなんや! ええなぁ、海の家持っとる料理上手な親戚なんて、うちにも一人ほしいわぁ。毎年来てるん? そーか、じゃあこの辺のこと詳しそうやなぁ。地元民? あ、それはちゃうねんな。 どこ住みなん? なるほど、大学が県内にあんのか。ユウさん頭良さげやし、人も好さそうでええね。ま、うちの好みとはまるっきし正反対やけど!」

「は、はは……そ、そっか……」


 絶好調の人魚に対し、甥っ子は目を白黒させて、応対するのにやっとのようだった。時々こちらを見てくるけれど、助けを求めているのだろうか。だとしたらご期待に沿えず申し訳ない。正直、面白いからもうしばらく鑑賞していたい。――とはいえ、そろそろ店を開けないと駄目だな。


「二人とも、そろそろ開店するよ」

「はぁい!」

「あっ……はい……」


 甥っ子はすでに疲弊しているが、人魚の機嫌は良さそうだ。せっかく可愛い女の子が花を添えてくれるというのに、そんな様子では男として如何なものか、と思うのは、歳の所為だろうか。地元漁協の手拭いを頭に巻きながら、自分があの歳の頃はどうだっただろう、と想いを馳せて、すぐにやめた。余計なことまで思い出してしまう。


(ま、綺麗な花には棘があるもんだし)


 人魚の場合は、棘と言うより鱗だろうか。あの喋りは盾だと僕には見える。


(こっちの情報はしっかり集めて、自分の情報は名前以外ほとんど出してこないんだもんなぁ……凄いもんだ)


「カズさん、うちは何やったらええ?」


 天真爛漫な人魚は、懐に潜り込むのが上手い。僕は意識して笑顔を作る。


「ホールを任せるよ」





 この海の家は食券制だ。と言っても、自動券売機のような洒落たものは無いから、甥っ子がすべて管理する。お金と引き換えに食券を渡し、食券と引き換えに料理を渡す。少ない人数で回そうと考えた結果がこれだった。


「いらっしゃいませー!」


 少しイントネーションのずれた挨拶が軽快に店内を跳ね回る。いつもより客が多いような気がするが、たぶん気の所為だろう。

 焼きそばとアメリカンドックとフランクフルトを並行して作りながら、僕は人魚の様子を窺っていた。あの見た目だ、それなりに男性客に絡まれることは多いようだったが、


「えー、嫌やわぁ兄ちゃん、うちはそんなやっすい女やないでぇ」

「あー、忙し忙し。兄ちゃんが仕事代わってくれるんやったら、うちは遊びに行けるんやけどなぁ、残念やわぁ」

「さぼると怖ぁい店長さんに叩き出されてまうねん。せやから、堪忍なぁ」


 などと上手くあしらっては、狭い店内をくるくると、踊るように行き来していた。人魚の歌は万人を惹きつけると言うけれど、踊りも得意とは知らなかった。

 最初は怖気づいていた甥っ子も、だんだん人魚の性格に慣れてきたらしく、またその腕の良さにも信頼を置いたようだった。小さなエンターテイナーによって完璧に支配された空間は、客人たちの騒々しさとも相まって、ディスコホールのように華やいでいた。


「いらっしゃいませー!」

「おぉ? 姉ちゃんが働いてるなんて、珍しいな!」


 馴染みのある声が聞こえたと思ったら、暑苦しい禿頭がひょっと厨房に突っ込まれた。


「よお、カズ坊! 繁盛してんなぁ!」

「やっぱりイチさんか。こんにちは。何の用?」

「いや何、ちょいと覗きに来ただけさね。シン坊が風邪っぴきになったって聞いたっけ、苦労してんじゃにゃあかと。いらん心配だっけぇがなぁ!」


 こてこての静岡訛りの禿頭は、豪快に笑って、首から下げた漁協の手拭いで自分の頭を拭いた。


「にしても、カズ坊やい」

「なに?」


 形式的に聞き返したが、何を尋ねられるかは分かっていた。


「あの姉ちゃん、どうした?」


 このくそお節介な禿爺め。どうしたもこうしたもないだろう。


「朝、拾った。今日だけ雇ってくれって言うから」

「おみゃーさん、もうええのか?」

「何が」

「女はもう二度と雇わねぇっつってたじゃんか」


 焼きそばが出来上がる。均等に盛り付けが終わった皿を、間髪入れずに人魚が掻っ攫っていく。大きな真ん丸の瞳が、探るようにこちらを一瞥した。僕はそれを見なかったことにして、次の麺を開ける。


「イチさん、食べないなら帰ってくれる? 仕事の邪魔」

「カズ坊、お前――」

「夕哉、イチさんに全品一枚ずつ! お持ち帰りで!」


 甥っ子へ言いつけて、僕はヘラを振った。帰れ、と言外に告げる。


「カズ坊。いつまで昔んことを気にするつもりだに。俺ぁてっきり、もうふんぎりが付いたもんだと思ったんだけぇがなぁ。そういうわけでもなさそうだし。ええ加減にしたらどうだぁ、益体もにゃあ」


 僕は何も言わず、パックに詰めた焼きそばとアメリカンドックとフランクフルトを禿頭の前に置いた。感情的になって怒鳴るほどの青臭さはなくなったが、不愉快なスピーカーを放置できるほど無神経でもない。溜め息をつかれたのが仕草から分かったが、耳障りな息の音は、ディスコミュージックに負けて聞こえなかった。




 午後四時には店を閉める。四時を過ぎると客足は一気に遠退くし、夜の居酒屋の仕込みもあるから。寝不足な上に運動不足の甥っ子は、閉店を告げるや否やねぐらへと帰っていった。

 人魚が適当な椅子に、両足を投げ出して腰かけた。


「ひゃー、つっかれたぁ! ええ運動になったわ!」

「お疲れさまでした。バイト代、すぐに出すから、ちょっと待ってて」


 裏から茶封筒を出してきて、名前を書く。漢字が分からなかったから、平仮名で書いた。簡易金庫を開けて、今日の売り上げからバイト代を取り出す。


「なぁ、カズさん」

「なに?」

「なんで、うちを雇ってくれたん?」

「人手が足りなかったから」


 斬り捨てるように即答した。聞かれると思っていた。「そっかぁ、そうよなぁ」とあらぬ方向を向いてぼやく人魚。明らかに、期待していた反応では無かったらしい。


(……やられっぱなしってのは、性に合わないな)


 僕は平淡な調子で続けざまに言った。


「それに、泣いてる女の子を見捨てるほど、薄情じゃないし」

「はっ?」


 案の定、人魚は慌てたように姿勢を正し、腰を浮かせた。


「なっ、なんで、カズさん……見とったのっ?」

「まぁね」

「うわっはぁー、最悪や! うち、涙だけは誰にも見せへんて決めとったのに!」


 あー、うわー、と意味をなさない呻き声を上げて、人魚は机に突っ伏した。僕はあえて何も質問せずに、黙って彼女が口を開くのを待っていた。だいぶ人気のなくなったビーチで、大学生らしい一団がバレーボールに興じている。空白が黄色い声に塗り込められる。


 やがて、


「……うちなぁ……男に、フラれたんや」


 人魚は、干からびたような声でポツリと言った。


「二年も付き合うてたのに……うちは、ほんまに好きやったのになぁ。好きやったはずやのに……今は、もう、なんで好きやったのか、思い出せへんねん。それが一番つらくてなぁ。――二年間を、丸っと棒に振った気分や。……あー、もう! 思い出したらまぁた腹立ってきたわ! あんっのクソ男!」


 突然、どこからか水を得た人魚は、勢いよく立ち上がった。


「別れたと思うたら次の日には別の女といちゃいちゃいちゃいちゃ歩きよって! しかも、言うに事欠いて最後の最後に『お前の関西弁、うるさい。もう我慢できない』って何やねんド阿呆! うちのこの方言が可愛いっちゅうたのはお前の方やろがっ! っちゅうか、うるさいんやったらうるさいって我慢せんと言うてくれたらっ――」


 ゴムが切れたように、プツリと人魚は言葉を止めた。力なく座り直して、再び机に頬を付ける。


「……言うてくれてても、うちは喋ったんやろなぁ。……聞いてほしかったんや。形だけでもええから」


 僕は、売れ残った缶ジュースと、中身を詰めた茶封筒を、テーブルの中央に置いて、人魚の向かいに腰掛けた。缶ビールのプルタブを引っ張ると、こちらの渇きを助長させる良い音が鳴った。一息に半分ほど煽る。

 ――僕の場合は、水でなくアルコールが必要なんだ。怒涛のような喋りは要らない。火山のような激情も要らない。僕はもう、そこまで若くはないんだ。だから、ゆっくりと波を渡っていくための、最初の一押しだけが欲しい。


「五年前に――」


 始めてみると、案外普段通りの声が出せた。


「――ここで働いていた女性がいてね。店で出会った男性客と意気投合して、そのままその人と一緒に、どっかへ行っちゃったんだ」

「一夏の恋が実ったんやな。素敵やん」


 おざなりな返事をした人魚に、僕はわざとらしく笑いかけた。


「そのヒト、僕と結婚してたんだ」

「……えっとー……なんや、その……」

「最後の台詞、今でも覚えてるよ。『ごめんなさい、あなたといたら駄目だって気が付いてしまったの。あなたには悪いけれど、私は幸せになりたいから』……だったね。絶対コイツ、欠片も自分が悪いとは思ってねぇなって分かったよ。……僕は、好きだったんだけどね」


 人魚は缶ジュースを開けて、


「……人間って難しいなぁ」


 と呟いた。人魚姫はこんなこと呟かなかったはずだけれど、心の底では思っていたかもしれない。慣れない二本足と、音にならない声で、必死に恋愛をしようとした彼女は。


「そうだね」


 僕はビールを飲み干した。苦みが一瞬だけ舌に残って、泡のように消えた。




 人魚は大きな馬へひらりと跨った。


「ほな、うちは行くで。今日はほんまに、ありがとぉな、カズさん」

「こちらこそ、助かったよ。また来てね」

「うん! 来年は、素敵な彼氏と一緒に、客として寄らせてもらうわ」

「そしたら、叩き出してもいい?」

「えぇー、もー、カズさんてば手厳しいわぁー」


 まぁそこがええねんけど、と人魚は唇に笑みを湛えた。

 フルフェイスのヘルメットに小さな顔が隠れる。


「うち、カズさんみたいなええ男、見つけるからな」

「……僕ほどいい男、そうそういないよ」

「あっはは! 言いよるわー」


 僕の言葉を一蹴して、


「ま、確かに、カズさんはほんま、ええ人やと思うで。せやから、こないなところで立ち止まってたらあかんよ。まだ三十六くらいやろ? 見た感じ。男は三十からが本番やって、うちの母ちゃん言っとったし、うちもそう思う。それに――」


 人魚はエンジンをかけた。野太く嘶いて、馬が走り出す態勢を整える。


「――うち、思うんよ。経験を無駄にするか否かは自己責任やって。どない足掻いたって、時間は戻らへんし、止められもしぃひんから、無駄にせんよう気ぃ付けなあかん、って。そこらへんは心の持ちよう一つやと。せやから、うちはうちの二年間、無駄だったとは思わへんよ、絶対にな。……おかげさんでええ人に会えたし」


 最後だけ照れくさそうだったと見えたのは、僕の目の都合だろう。ヘルメットで表情など見えないのだから。けれど、人魚が笑顔になったことだけは、確信をもてる。


「な、カズさんも、そうしとき。ほな、またな!」


 馬が再び嘶いて、次の瞬間猛スピードで走り出した。またね、とか、気を付けてね、とか、何を言う暇も与えない。そのあたりの勢いの良さが彼女らしいというか、なんというか。たびたび思っていたが、童話によく見る人魚とは程遠い。


(やっぱり、夏の塊だ)


 僕は手拭いを取って、顔を乱暴に拭いた。

 もしも来年、僕みたいな別の男と人魚が一緒に来たら、本当に叩き出してやろう。


「……わざわざ、別のを探さなくてもいいのに」


 一夏の恋に期待するほど、僕はもう若くない。若くないけれど、今だけは許してほしい。どうせしょっぱい水ばっかりある場所なんだ、今更一滴増えたところでなんてことないだろう?


 ほのかに熱を帯びた目をこすって、僕は二つの恋に別れを告げた。


                                  おわり

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日雇人魚 井ノ下功 @inosita-kou

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