ツノ子
千羽稲穂
翠と紅里
「ちぃっちゃいなあ」
鏡にごつん、と頭のツノをあてた。
胸は小さいし、顔はまるっこいし、足は太いし、お腹まわりが気になる。体重計なんて、のりたくもない。制服を着れば、何から何まで隠せるってわけでもない。特にこの頭のツノ。他の子よりも小さい。
ごつん、ごつん、と鏡をツノでアタック。鏡は割れない。ツノは額の、前髪の生え際あたりに生えている。人差し指の第一関節くらいの長さしかない。横に筋張っていて、うっすらと照明を受けて白黄色に濁っている。ツノというにはあまりにも先が丸まっているし、ゴムみたいに弾力がある。鏡に一撃をくらわすどころか、額に振動が跳ね返って、仰け反ってしまう。ツノから力が伝わって、額、頭、顔、喉と体全身に順々にしびれる。手のひらを大きく開けて、しびれを逃がす。かくかくと体がおぼつかない。
まだパジャマ姿だ。朝っぱらの空気を吸って、ツノが大きくなるわけもなく。伸びをして背が高くなるわけでもない。やだな、やだなって長くなった前髪で貧相なツノを隠す。そんなことしたって結局、前髪をかき分けてツノは突き出る。小さくも大きくもなくって、情けない見た目のツノ。材質だっていまだにゴムみたいだし。触ってみても滑り止めを触ってるみたいにきゅっと指が止まる。
あの子の隣にふさわしくない。
いっこうにふさわしくならない。
まったくもって、遺憾なりってね。
鏡の前に立つ、朝が嫌いだ。私の情けなさや申し訳なさといった、めいっぱいの嫌な気分が、ツノに集約されている。だからって鏡の前に立たずにはいられない。今日は大きくなってたらいいなって、淡い期待をしてしまう。
また、前髪をいじくって、きちんと不自然じゃないようにさせる。なるべくツノが見えなくなるように前髪をかぶせる。ちょっと前髪が長くなってきたな、なんてことを思ってみたりもする。重たい前髪は払わずに、キバの調子を見る。今日も小さな犬歯で歯が磨きやすいって、なんて皮肉。キバもツノも小さい。ちぃっちゃすぎる。シャツを着て、スカートをするするとはく。ブレザーをシャツの上にかぶせて、ネクタイは首を絞めるぐらいにきつく結ぶ。息苦しくなって、また前髪をいじる。やっぱりツノが見える。
大きくないなら、鋭くないなら、綺麗じゃないんなら、そんなに主張してこないでよね。
睨んだところで私の一部が劇的に変わることなんてない。
うっすらとファンデして、口紅をひく。ルージュにするのが今の流行り。キバが白く濃く見えるほど色気がでるらしい。ファンデは白い方がいい。肌が白い方が美しいらしい。赤と白、黒と赤みたいに、妖艶な感じが、オニの子達の間ではいつだってトレンディなんだ。オニの女の子が、ちょっとだけ大人ぶるのは私も賛成で、その方がきっとかわいいんだってのは分かる。かわいいと自信がみなぎる。どこにいても最強なんだって、思える。
でも、今の自分のツノはあんまりだ。
人差し指の腹でとん、とん、とツノ先を軽く叩く。するとかすかなしびれが、額からまた駆けていく。鈍く響いた痛みに、顔をむっと膨らませる。どれだけ鏡を見ても、毎日繰り返しツノを触ったりしても、大きくなる気配なんてなくて。
朝に牛乳をのめばツノが大きくなるらしいよ、とネットで見たから今日もお母さんに言うのだ。
「お母さん、牛乳」
「きちんと牛乳ちょうだいっていいなさい。お母さんは牛乳じゃないんだから」
いいじゃん、そんぐらい。牛乳を飲めば大きくなるんなら牛乳を飲むし、八時までに寝たら大きくなるんならきちんと八時前に寝る。それでも大きくならない。まだならない。ツノはうんともすんとも言わない。私の努力にそっぽを向いてばかりで、いつも周りのツノを見てしまう。
お母さんのツノは、私のちびこいツノとは違って、細く鋭く額から突き出ている。鏡をそれでつつけばイチコロだ。ぱりいぃぃんって割って、誇らしげに私に微笑むのを何度も見た。お父さんは逆に野太い大きなツノで、こめかみあたりから、拳の二倍ほどの厚さをしたツノがはえている。大きければいいなんてことはないんだよって強者だけが言えることを、いつもちくちく言葉を刺してくるから、現在、絶賛絶交中だ。
牛乳の他にツノにいいのは、人間の血!
でも、人間の血はいつだって高級品で、私みたいな一般オニは買えないし、そもそも私のようなまだか弱いオニの女の子には手が出せない。
例えば、だけど、体を売るようなバイトをしたら、買えるかもしれない。大人の男のオニと話すだけの仕事とかないかな。これはいけない妄想。きっと話すだけじゃだめになっていくんだ。危ない橋を渡らなけば、そういうバイトは甘い血だ。誰もやらないのは、危ないから。危険なことはせずに誠実にツノを育てるって決めたんだから。
代わりにトマトジュースを水筒に入れて、学校に持っていく。とろとろと水筒に流し込まれる血を見ていると、濁った血液に見える。艶めかしくもなく、食欲もそそられない。よどみに浮かぶ生々しいトマトの果肉は、口の中に生ぬるい異物をつっこまれている気分になる。それでも私はこのトマトジュースを持って行って、帰ってくるまでには水筒を空にしている。
だって、あの子にふさわしい私でありたいから。
「おはよ」
と、今日も待ち合わせ場所にいる、紅里あかりを見ると、今日も白く滑らかなツノが頭から生えていた。日の輝きで、より恍惚にツノのキューティクルが輝いている。筋の一つすら許さないツノ。つやっとした、元気なツノ。なにより色気がある。骨に近いほどツノは綺麗に見える。紅里はそんな理想的なツノを持ち合わせている。
「おはよぉ、今日も早いね、翠」
今日もトマトジュースもって来たんだって、紅里がツノの秘訣である水筒を見せる。私も、紅里みたいになりたくて、同じようにトマトジュースを持ち歩く。
登下校中、私は頭を下げて、地面ばかり見ながら歩いてる。隣に立つ紅里の笑顔を見たくなくて、ずっと、つらくて。紅里の隣にいづらくなって何年経つかは分からない。紅里は良い子だ。幼馴染の私を捨てずにこうして一緒に学校に行ってくれている。綺麗な白い肌も、細身の体も、笑顔を見せれば見える立派なキバも、私よりも何倍も上手い化粧で今日も男の子をノックダウンさせている。知らないうちに立派な女の子になっていて、恋に、部活に、勉強とトリプルで青春っぽいことをこなしている。ちょっと危ない橋もわたっていることだって、きっと凛々しいツノの秘訣なんだとも思うし。
小さなころは、そんなでもなかった。私はまっすぐ前を見て、紅里と手をつないで小学校に登校をしていた。まだ小さなツノ達は、差がなかった。筋が見え始めたのは私が先だった。まるで老いぼれのツノのように、筋が幾重にも積み重なり、知らないうちに黄ばんでいった。何年も着古した服みたいによれているし、大きくもならずに廃れていく。磨いても磨いても、紅里みたく白く輝くことはなかったし、ゴムのような吸着感はなくならなかった。
どんどん差がついていった中学生。白いツノがすくすくと育つ紅里を見て、焦っていろいろ尋ねてみた。一番いいのは人間の血だよ、でも、そんな危ないことできないからさ、トマトジュースをのんでる、とアドバイスしてもらって、それからたくさん調べた。携帯からぴぴぴっと世界にアクセスして、ツノは高温に弱いといわれれば、一番成長する就寝時に氷水を当ててみたり、筋を取るために専用のツノ磨きを買って、朝晩と繰り返して磨いてみた。
それなのに私のツノは劣化しかしなかった。キバも小さいままで。笑顔すらひきつってしまう。まるで人間みたいだと、何度も何度もみすぼらしい自分にうんざりした。人間を見ていると、威厳も、妖艶さも何もない、荒々しく吹きすさぶ砂漠を見ているようだった。これが自分と同じだと思うとどうにも受け入れたくなかった。たまにいるんだそうだ。胸が小さいのと一緒で、ツノが育たないの。好きな人は好きな類の私の特徴。
冗談じゃない。私は大きく、立派になりたい。
「あたしそんなにいい子じゃないよ。とっくの昔に汚れてるからね」
そんなことを言っていた紅里を思い出す。あれは中学生だった。校舎裏でばっさばっさと告ってきた男の子をふっていた時だった。紅里は私の手を握っていた。額には子ども離れしたツノがそびえたっていた。ツノは既に骨のように白く、赤い口紅がなまめかしく映えていた。ぽっと見惚れてしまう姿に内心焦っていた。荒々しい砂埃のような心は熱を帯びる。そこへ紅里は告げる。次の男子が来るまでの待ち時間で小さな告白を。
「ありがとう、こんなことにも付き合ってくれて」
紅里のツノが傾くと同時に頭が傾げる。私の中身は爛れて、怒りが湧き立つ。自然とツノが痺れる。じんじんと前へ伸びていくように感じた。上へ、上へと突き出す。
「どうして、そんなこと言うの? どうして、そんな申し訳なさそうなの?」
私が紅里に付き合わされているって思われている気がしたから。そんなこと呼ばわりしたから。友達なら、一緒にいるのは当然だ。当然のことを、紅里は『ありがとう』なんていうから。とめどなく零れ落ちる自分自身の感情を抑えられなかった。器から零れ落ちた感情はもう器に戻らない。手ですくいあげようとしても、穴があいていてそこから零れてしまう。
「あたしね、翠。いい子じゃないんだ。こんなことに翠を付き合わせているなんて、汚いでしょ。それに、もっとずっと前に、とっくに汚れているんだ。人間の血をさ、飲んだことがあるんだ、あたし。翠はさ、純粋なのに、あたしに付き合わせちゃってる。いい子だから、甘えちゃってるんだ。だからごめんね」
私も紅里が思うほどいい子じゃないよ、と言おうとした。それ以上に、もっと大きな感情が心の器からどぼどぼと落ちそうになった。何かを言おうとしたら、ごちゃまぜになった感情が目を圧迫して、涙を噴出させるような気がした。でもそれは情けなくて、親友に一番見せたくない姿だったから、のど元に言葉を押し込めた。言いたくない。言えない。そんなことを言わせてしまうほどに、私は紅里にふさわしくなかったから。
次の男子がやってきて、紅里はまた告白される。そしてばっさりと居合切りするみたいに数瞬で男子をふる。清々しい態度で、顔色も何一つ変えなかったけど、握っていた手だけは震えていた。
きっと、私がもっと紅里にふさわしかったら、あの時「何バカなこと言ってんの」って笑ってけなして「友達なんだから当然じゃん」って言ってあげられた。それなのに私は、紅里のことを思って言えなかった。ツノはちびっこいし、顔は丸いし、体は太ってきたし、青春は謳歌してないし、それに、私は汚れてないからだ。汚くてごめんね。綺麗なままでいてごめんね。何度も思った。
『人間の血』を検索すると、かなり高額な値段で取引されていた。純粋な人間の血を欲する人もいる。私みたいに人間みたいなオニの子の血も取引されてもいる。でも人間の血に比べるとかなりの格安。
『人間の血の入手方法』を検索してみたら、体を売ることばかり次々出てきた。女の子を売るってどういうことなんだろうか。全く現実味がなかったし、そんな方法で女の子を売って綺麗なツノを得たところで、私は紅里の横に立っていられる自信はなかった。だから、私は正攻法で紅里の隣にいたかった。せめて笑ってバカにできるくらいに。
あの日から、私と紅里は手をつないでない。
朝も一緒で、お昼も一緒、帰りも一緒。誰かに告白するときも、誰かをふるときも、それは変わらなくって、紅里にとって私はそういう子なんだと思うし、私もそういう子でありたい。でも、このツノだけは違う。黄ばんだ筋のある私のツノだけ忌々しい。
ツノを見せないように、私は前髪を厚ぼったく額にかぶせる。前髪が崩れないようになんどもセットする。
目の前で、紅里がトマトジュースをあおっていた。食品偽造サンプルの匂いがする。ビニールのようにつやめきがある液体を、紅里は口に塗って、美味しそうにしていた。つーっと濁った赤を口の端から零れさせている。赤い紅がやたらと鮮やかで苛立つ。
お昼休みのご飯タイムはこうして、いつもふたりっきりで楽しいのに、最近は常に紅里のツノを見ている気がする。この白い巨塔はどんなオニだって見惚れる。額から突き抜けたまっしろなツノは厳かに私に語りかけてくる。あなたはこのツノにふさわしくない。だから私にはないの。
ごくごくっと紅里はトマトジュースを一気のみする。のどの骨がころころと動く。ツノは上へ。上へ。一番上に到達した時、ツノはなぜか急降下した。紅里の頭が下がったんだ。紅里は口を開き、舌を突き出した。立派なキバが見え隠れする。舌の上を滑って、偽物の血が伝っていく。飲み込んだトマトジュースが押し戻されて、大量のトマトジュースが逆流していく。机の上にある私のお弁当なんか気にせず、紅里印のトマトジュースが舌の滝から流れて、池を作ってく。普段のトマトジュースよりもすっぱい匂いがした。果肉が表面を浮いている。ぷかぷかと島ができあがっている。そこへひとひら、はらりと赤い花びらが降りたった。紅里が口を手でふさぐ。目の端に涙が浮かぶ。黒色の瞳が真っ赤に燃えている。ふと見上げてみると、ツノが開花していた。深紅の椿が白い艶めきの中にいくつもくっついている。大きな花弁がツノに咲き誇る。ぽんっと次から次に蕾をつくり、ツノの上で開花する。開いた花ははらりと花弁を散らせて、私の机のまわりは花びらで覆われていく。それは本物の赤だった。トマトジュースを染めていく。柔らかな赤が視界を覆いつくす。私の目には紅里のツノが唯一白く際立っていた。赤椿の匂いが強く鼻をさした。
「開花した」
私の声は、ぐずぐずにふやけていた。
「おめでとう、紅里」
これは成人の合図だ。もう二度と、紅里のツノは育たない。これ以上は綺麗にならない。そんな合図だ。赤く染まる紅里の瞳もかすかに潤んで見えた。
その後は保健室に直行だった。口の中は血だらけ。キバに関して言えば、トマトジュースか血か分からないぐらいに真っ赤に染まっていた。花弁は咲いて咲いて、止まらなかった。それに追われて、私も午後の授業は休んで傍にいた。紅里は、保健室のベッドの上で、私のことをじっと見つめていた。主にツノを。こんな情けないツノを見てなんになるんだろうか。
「そっか、あたしのツノ、もう育たないんだ」
と、笑っているのか困っているのか分からない表情で紅里がつぶやいた。背筋にぞくぞくっと、血が駆け巡る感覚がした。体の肉が躍るように身震いしていた。紅里の弱っている姿を見て、私のツノが熱を帯びていた。
「こんな立派な開花見たことない」
保健室の先生が私達の間を割って、紅里の手を取った。
「私に見せてくれてありがとう。心からあなたの成熟を祝福するわ」
とっても皮肉で素敵だった。
私は家の洗面所にある鏡の前に立つ。朝の白い日差しがこんなに重くないのはいつぶりだろうか。こんなに朝って息がしやすかったっけ。鏡の前に立っている私の表情も心なしかいつもより和やかで。こんな表情をしていちゃいけないのに。頬をいじくって、顔を作るけど、にやけが止まらない。この笑みはなんの笑みなんだろう。高揚感ってやつが行き場をなくしてる。
鏡には私がツノを押し付けた跡が残っている。毎日毎日、ここにぶつけて割れない鏡を思った。それでもまだ私は、成長途中だった。まだ大丈夫だって、思ってる。あやふやであいまいな期待だって知っている。
制服をするすると着る。ツノで破かないように、と私のツノではいらないお世話な注意をして、朝のルーティンを開始する。スカートをはいて、いつものような憂鬱で表情を濁す。こんなツノいらない、と死にたくなるくらいちっぽけなツノを指先でとん、とん、と叩く。振動がツノから伝わり、心を震わせる。こんなツノでも、私のツノだ。前髪をいじくって、いつもみたくツノにカーテンをかける。分厚いカーテンであるほど、ぽっこりとツノが下から生えているのが分かる。ネクタイを苦しくなるくらいに締めて、化粧をうっすらときめる。また前髪を気にする。
「お母さん、牛乳」
私はお母さんから牛乳を受け取る、その前にうなだれる。トマトジュースを水筒に入れる気力もない。なんだかとっても気分が悪かった。このぐらい、大丈夫なはずだった。それなのに喉の奥にはびこる赤椿の花びらが、息を止める。濁流の中で、紅里が言った言葉が私をつなぎとめる。
「そっか、あたしのツノ、もう育たないんだ」
紅里の言葉には不思議な魔力がある。赤い妖しい光が灯っていて、知らず知らずのうちに私はそっちにふらつきながら向かっている。手を伸ばすと、その手に紅里の手の震えが残っていることに気づいた。焼けるように熱い。その手に今は触れられない。私は、汚い。綺麗であろうとしていて汚い。なんで、私のツノはこんな汚いままなのだろう。
ちぃちゃいツノは、私その物だ。黄色くかびているみたいなのも、筋張って老いているのも、小さいのも、どれもこれも、私の物だ。
ぶれる視界の端に、ひとひら白い小さな花びらが落ちていった。小さな小さな私のツノから名もなき白い花の一片を欠けさせる。
「きちんと牛乳ちょうだいっていいなさ――翠、それ」
お母さんの声を遮って、私は立ち上がった。お母さんの持っていたコップが床の上に零れる。そこにもまた、ひら、ひら、ひらりと白こく丸い花びらが散っていく。家の机には、ぽつぽつと白がまき散らされている。
行かなきゃ。今すぐに会いに行かなきゃ。開花が終わる前に。
たった今起きて食卓に来たお父さんを押しのけて、私は外へ駆け出した。紅里が待つあの場所へ。鞄も何も持っていない。靴さえはいていない。地面を靴下のまま。その間も私のツノから花びらが散っていく。小さな蕾を蓄えて、すぐに消費されていく。開花はたった一度のものだ。だからオニ達にとって、大事な物なんだ。
いつもの待ち合わせ場所に、紅里はいた。
瞬間、私は飛んだ。
「紅里」って呼んで、飛びついて抱きしめた。
「私も、開花した」
言葉に出来ない想いが私の中で飛んだり跳ねたりした。言えない事柄も、心の中では自由に羽ばたく。
私も、成熟しちゃったんだよ。これでもう隣にいられない。ふさわしくない。でも、同じ気持ちになれる。おんなじだ。成熟しちゃったものどうし一緒。これまで通りだ。でも、ちょっとだけ私は悔しい。本当は、私は汚い。純粋じゃない。紅里がもう成長しないって思ったとき、嬉しかったんだ。笑みがこみ上げて堪らなかった。私の方がまだ成長できるんだって思った瞬間、良かったって思って声を上げた。「おめでとう」。多分、あの言葉は紅里に向けた言葉じゃなかった。私は紅里よりも、成長して、もっと綺麗になって見下したかったのかもしれない。そんなだから成長を止めた紅里に対して、心から良かったって安心した。心から、私は紅里にいなくなってほしかった。一度きりの成熟が消えたあなたの気持ちなんか、考えてもなかった。
「あのね、私のツノがね」声がひしゃげてしまう。こんなつもりじゃなかったのに。
でも一方で本当にとっても喜んでいたんだ。紅里の成熟に、とっても。それは本物の私の気持ちで。やっぱり、私は、あなたにふさわしくなくって、そんなツノで終わっちゃったんだけど。それでも、こんなツノを持っている私だけれど、情けないけど。それでも、私は、紅里のことが大好きだったんだ。
鼻をすすると自然と涙がこぼれてきた。鼻水が紅里の肩に落ちてしまう。
「大丈夫だよ」
紅里が、しっかり抱きしめて耳元で囁いた。
ちらちらと白の花びらが涙のようになだれこむ。
「あたしはね、翠のツノちぃっちゃくてかわいいなっていつも思ってた。触ると柔らかくって、食むと熱を帯びる。今だってそう。だからね、嫉妬してた。小さくなるにはどうすればいいんだろうって。磨けば磨くほどあたしのツノはみんなが言うみたいに綺麗になったけど、翠みたいにかわいくはならなかったよ。人間の血だってのんだのに。翠みたいになりたかった。だからね、自分のツノが開花してがっかりしてた。あたし、今も、翠に嫉妬してる」
私もだ。おんなじだ。
「今だって、ああ、嬉しいって思ってる。だって、もう二度とこのかわいいツノが成長しないって思うと、とっても嬉しい。あたしは、いけないこと思ってる。嬉しいのに、悲しいよ。おめでとうなんて、言えない。翠みたいに言えないよ。ごめん。
でも、あたし、それでも翠のこと、まだ好きだ」
ようやく口の中からしっかりとした言葉が生まれた。「私も」
私の小さなツノは次から次へと白い花弁を咲かせている。花びらが額のツノから踊るように舞っている。私の足を埋めて、紅里の姿も見えなくして。目の前全てまっしろになっていった。それは雪とよく形容される桜みたいに。視界一面に銀世界が広がっていく。
「ありがとう。おめでとうは言えないけど、見れて嬉しい。
見せてくれて、本当にありがとう。とっても綺麗な開花だよ」
「当然じゃん、だって親友なんだもん」
やっと言えた。
私の開花は数十分続いた。紅里よりもほんの短い間の開花だったけれど、これはこれでいいんじゃないかなって思えた。ひと夏の幻ならぬ、ひと間の開花を二人で見守った。私の喪失と、成熟。熟しきってしまった果実は美味しくないけれど、私は紅里の好きな果実なら美味しく食べられると思う。蓼食うものも好き好きなんて言葉もあるくらいだし。この白は赤椿の花を散らせた紅里よりも、小規模で、美しくはないけれど、紅里は、それでも綺麗と言った。それだけで私は、まあいいか、と許してしまった。
いいんだ、きっとこれで。
しばらくして、靴を履かないまま外に出てきていたのに気づき、私の家まで一旦戻った。もちろん、紅里も一緒に。外に紅里を待たせて、どしどしと家に上がった。玄関で出かける準備をしてたお父さんにぶつかる。小さなツノがお父さんの体に当たって、じんじんと痺れた。前がよく見えなかった。重たいカーテンが目を覆っていた。何度もいじった私の分厚い前髪は今は邪魔だった。
私は一時お父さんとの絶交を休戦して、叫んだ。
「お父さん、はさみ」
お父さんは驚いて、玄関にたまたま置いてあった、お父さんのツノ手入れ用のはさみを手にした。ぶんどって、洗面所の鏡の前に立つ。
目にかかった長い前髪を手櫛でとかして、めいっぱいに防波堤を敷く。防波堤は全く機能していなくて、ツノの先端がぽつぽつと出ていた。そのツノ目指して、はさみを握りしめ、思いっきり私の視界を切った。防波堤は決壊し、カーテンは破られ、視界は開けた。私のツノがそこにはあった。人差し指の第一関節程度しかないちっぽけな、白黄色の筋張ったツノ。ごん、と鏡に頭突きをしてもぜんぜん鏡は割れない。ひびも入らない。ヒールのかかとが地面を貫くような音も響かない。冷たい鏡の感触がツノの先端から伝わってくる。痛覚が私ののど元へ押し寄せる。一生こんなツノなんだと知らせている。
私の瞳は薄く緑色に変色していた。瞳に映されるツノを覗き込む。それはちっぽけでも、艶めいて見えた。熱を持っていた。ぐんぐんと上へ上へと伸びているような感覚があった。溢れている。痛みを持って、育とうとしている。痺れている。手も額も、頬も。体全てが生きている。燃えてるように熱かった。ツノに輝きが宿っていく。柔らかな光をもって、芽吹いていた。淡い白濁の光が灯る。前髪を払うと、無花果の匂いがツノから香った。
それでも、
「やっぱり、ちぃっちゃいな」
私は頬に笑みをため込んで呟くだけ。
ツノ子 千羽稲穂 @inaho_rice
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