3


 明るさに目覚めた。


 悪魔が、その白い巨体を揺らしながら、東の空に昇ってくる。ぼくは魅せられたように瞬きもせず眺めている。同じことを繰り返すこの自然の営みと、今は虚ろな気持ちで対峙している。


 呪われた太陽とぼくとの偶然。答を出せないでいる。

 長い朝凪の後に、風が吹き始めた。ぼくは無意識に右肩を太陽に向け、ボートを漕ぎ始めていた。太陽は水平線の上に勢いよく上がっていく。


 体が蝕まれていく。もう、どうすることもできない。何も食べていないのに、食欲がなかった。ただ喉が渇いた。


 太陽がぼくを襲い始める。太陽がぼくの体に入ってくる。冬木のアロハシャツを着た。日焼けのため、背中は焼け爛れていて、燃えるように熱い。眼が痛い。ボートの底に落ちていた黄色いサングラスをかけた。


 ぼくは、冬木に友情を持っていたと思う。海に突き落としたのも、それが好意となって現れたからだ。彼に友情を抱いていなかったら、あんなことをしなかったし、そもそもここに来ることもなかったのだ。


 彼の幸せを思い、それがぼくの意思に叶うと思ったから、海に突き落としたのだ。

 ぼくには、過ちも罪もない。ただ、太陽があまりにも激しかったので、ぼくが意識を失っただけなのだ。

 

 青い海原と燃え上がる太陽に閉ざされた、このボートに残っているのは、ぼくの冬木への好意と、彼がぼくに抱いた憎しみだけだ。


 苦痛に歪んだ冬木の瞳に、ぼくの微笑が映っている。彼の請いに、ぼくは何の反応も示さない。彼にとって、ぼくは冷酷な殺人者だ。ぼくの好意と彼の憎しみは、どちらも等しくあるべきなのに。

 ぼくの好意の回想が、単なる自分自身に対する慰めになっていくとき、彼の憎しみだけが永遠の存在となって、すべてを支配してしまうのだ。


 ぼくは恐ろしかった。

 手当たりしだいに人に話して、ぼくの弁明を聞いてほしかった。しかし、ぼくは海の上に一人だけだった。

 ぼくの言葉は、すべて悪意にとられ、ぼくの心の中にあったユーモアやゆとりは失われていく。ぼくの言葉は憎しみの言葉であり、醜い嘲りの言葉となっていく。


 草川の存在が、ぼくの心を狂わせたのか。

 ぼくが彼女を我が物にするために自分を殺すのだ、と冬木が思ったかもしれない。ぼくは、彼女に気がありそうな言葉を平然と話した。彼はぼくを疑っていたのかもしれない。ぼくたちは、互いに理解しあっていなかったのだ。

 ぼくの心は混乱し、様々な思いが、ぼくの心に錯綜する。


 ぼくは草川に気があった。冬木に嫉妬していた。

 かりにそうだとしても、ぼくは断言する。ぼくは冬木を殺す意思など微塵もなかったのだ。

 彼の憎悪は、太陽に向けられるべきだ。


 それとも、それとも、草川に対する愛と、冬木に対する殺意を、ぼくは意識下に抱いていたのか……。それを太陽が見抜いたのか……。



 太陽は天空にあった。

 ぼくはボートの底に横たわっている。動く気力もない。

 幻かもしれない。

 黒い雲が大空を覆い始めた。風が立ち、海は荒れていく。


 ぼくは瞼を閉じた。

 再び日常生活に戻ったとき、ぼくの責任を問う多くの人々の顔が浮かんだ。彼らは牙をむき出してぼくの帰りを待っている。今執拗に求めている世界には、恐ろしい不幸が待っている。


 ぼくは硝子の回廊を一人歩いている。

 やがて、透明な壁に突き当たる。

 その奥に透明な階段があり、下に行けば暗闇、上に上がっていけば、再び硝子の部屋。

 その部屋に、一人の若者が立っている。

 ふゆきっ。

 ぼくは叫ぶ。声が出ない。いくら叫んでも声にならない。



 ぼくの体に大粒の雨が落ちてきている。口を開ける。雨粒が口の中に流れてくる。ぼくは咳きこんだ。

 雷が鳴り響き、遠くに稲妻の光が流れた。ぼくは上半身を起こした。

 豪雨になった。

 ボートに腹這いになり、底に溜った雨水を口をつけて飲んだ。アロハシャツに沁みこんだ水が、体と心を癒してくれる。


 ぼくは大の字になって、空を見上げた。雲の流は早く、雲の割れ目から青空が見えてくる。


 ぼくは、草川を愛していた。ぼくは嫉妬し、たった一人の親友を殺してしまった。

 そう考えると、なぜか気持ちが楽になった。


 意識を失い、再び意識が戻らないときがくるかもしれない。

 黄昏の空に向かって立ち上がった。

 体の均衡を失い、海の中に投げ出された。海の底へ落ちていき、再び浮き上がっていく。ボートの船縁にすがりつき、全身の力をこめて、這い上がる。大の字になって、何度も深呼吸する。


 ぼくは考えることを止めてしまった。

 死者になって瞼を閉じる。ぼくは自分の存在を忘れた。ぼくのただ一つの利点と言えば、自分が際立った存在で、他とは融合しえない、個になっているということだろうか。


 冷たい風がぼくの意識を呼び起こした。

 星が姿を現していた。限界と回転の要素を、再び夜が運んでくる。


 そのとき、ぼくは自分の手がしっかりとオールを握っていることに気づいた。

 ……ぼくの意思で。

 ぼくは呻き声を吐きだした。

「負けないぞ」



   完結

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

正午の海 サトヒロ @2549a3562

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ